NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」 2015.10.18


亜熱帯の森に分け入るとそこは戦場だった。
沖縄に点在するガマと呼ばれる洞窟。
人間の骨が次々に見つかった。
70年前の沖縄戦の犠牲者だ。
太平洋戦争末期の昭和20年。
沖縄で日本軍とアメリカ軍が激しい戦いを繰り広げた。
死者は軍民合わせて20万人。
沖縄県民だけで少なくとも12万人に上る。
住民の犠牲は地上戦としては国内最大のものとなった。
しかし一家全滅も相次ぎ被害が甚大だったためその正確な全体像は分かっていない。
今回被害の全貌を知るための重要な手がかりを入手した。
こちらです。
沖縄県が非公開としている戦没者の調査記録。
亡くなった日付や場所が特定されている住民8万2,074人の記録を解析した。
すると住民の死がどのように積み上がったのかその詳細な推移が浮かび上がった。
僅か一日で全犠牲者の半数が命を落とした小さな島。
日米の戦闘が事実上決着したあと4万6,000人もの住民が亡くなっていた事も分かった。
なぜ住民の犠牲は拡大したのか。
深刻な兵力不足に陥っていた日本軍。
戦場に駆り出されたのは住民だった。
アメリカ軍の攻撃も住民を巻き込み次第に無差別化していった。
住民の肉声を記録した1,000本に上る証言テープ。
死の実態が生々しく語られていた。
ようやく全貌が浮かび上がってきた沖縄戦。
70年目の記録である。
サンゴ礁に囲まれた美しい島沖縄。
今から70年前この海を1,000を超すアメリカの艦船が埋め尽くした。
アメリカ軍が撮影した膨大なフィルムが残されていた。
その全ての映像を専門家と検証。
日付や場所を特定した。
アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始した4月1日。
撮影は夜明け前から始まっていた。
太平洋戦争中最大の上陸作戦。
開発されたばかりの最新の兵器も投入された。
総勢54万という圧倒的な兵力で迫る様子が映し出されていた。
太平洋戦争の当初広大な地域に進出した日本軍。
しかしアメリカを中心とする連合国軍はアジア太平洋の島を次々に制圧。
日本の絶対国防圏を突破し日本本土に迫った。
日本軍は沖縄に10万の兵を集め本土への侵攻を食い止めようとした。
天皇直属の最高統帥機関…その作戦計画には「皇土防衛のための前縁は沖縄本島。
極力敵の出血消耗を図る」とある。
つまり沖縄を本土防衛の最前線と位置づけ現地の32軍に一日でも時間を稼ぐ持久戦を求めたのだ。
10万発を超す艦砲射撃の援護のもと午前8時半アメリカ軍が沖縄本島に上陸。
後に「あらゆる地獄を集めた」と形容された壮絶な戦いの始まりだった。
侵攻するアメリカ軍の先にいたのは日本軍だけではなかった。
そこには50万もの住民が残っていた。
上陸作戦を指揮した…その側近として沖縄戦を記録した人物がいる。
今回の取材でアメリカ軍の機密扱いとなっていた陣中日誌が見つかった。
戦闘の詳細を書き記す中に繰り返し登場するのは「住民」という言葉だ。
おびただしい数の住民の死。
沖縄戦は国内の地上戦で住民の犠牲が最大となりました。
しかし被害があまりにも大きかったため正確な全体像は分かっていません。
今回NHKはそれを知るための重要な手がかりを入手しました。
沖縄県が戦後唯一全世帯を対象に行った戦没者の調査の記録。
個人情報が多く非公開となっています。
入手したのはいつどこで亡くなったのか個人名を除いたデータです。
その膨大なデータをコンピューターで解析しました。
死亡日や場所が特定されていない住民そして徴兵された軍人を除く8万2,074人分を抽出。
住民の死がどのように積み上がっていったのか1日ごとの死者数の推移が初めて浮かび上がりました。
4月1日本島に上陸したアメリカ軍は2つの飛行場を制圧。
日本軍の司令部がある首里を目がけて南下します。
上陸地点で亡くなった住民は292人。
疎開計画は思うように進んでおらず戦場に住民の多くが残っていました。
日本軍はこの周辺にはほとんど兵力を展開していませんでした。
沖縄の32軍は大本営から持久戦を求められたため限られた兵力を司令部周辺に固めるしかなかったのです。
4月20日。
北部の小さな島で死者数が突出していました。
僅か一日で島の全犠牲者の半数を占める781人が亡くなっていました。
そこには戦闘に巻き込まれただけではない死の理由がありました。
大勢の観光客が訪れる伊江島。
この島に70年前アメリカ軍が陸海空の全方位から攻撃を浴びせた。
4月16日の映像には上陸の様子が記録されていた。
アメリカ軍のねらいは伊江島にある巨大な飛行場。
日本本土への攻撃拠点の一つにしようとしていた。
32軍は飛行場を自ら破壊。
伊江島を守る十分な兵力はなかった。
島の命運は残留部隊と残された住民3,000人に委ねられていた。
32軍のナンバーツー長勇参謀長は戦争の直前県民にこう呼びかけていた。
今回の取材で専門家が保管していた1,000本の貴重なテープの存在が分かった。
40年前沖縄の本土復帰直後に初めて戦争体験を語り始めた人たちの証言が収められている。
鮮明な記憶を生々しく語っていた。
斬り込みとは手製の爆弾などを抱えて敵に突っ込む捨て身の攻撃だ。
日本軍の残留部隊が最後の攻撃をかけた4月20日。
島の女性たちも斬り込みを行っていた。
同じような証言はほかにも見つかった。
天皇陛下万歳!
(一同)万歳!万歳!
(一同)万歳!戦争末期「一億玉砕」を掲げた日本。
天皇を中心とする国家を守るため軍人だけでなく一般の国民も命を顧みないという考えが広まっていた。
伊江島ではいわゆる集団自決も起きていた。
当時9歳だった大城安信さん。
アメリカ軍の攻撃で家を失いこのガマに両親と共に逃れた。
投降を呼びかけるアメリカ兵がガマの入り口にやって来た。
大城さんはその時の様子を絵に残していた。
母親に抱かれていた大城さん。
周りには親戚や近所の人たち26人がいた。
軍に召集されていた親戚の一人が「今から死ぬ」と叫び持っていた爆弾を爆発させた。
気が付いた時大城さんが目にしたのはよく見知った人たちの変わり果てた姿だった。
生き残ったのは4人だけだった。
伊江島では残っていた住民3,000人のうち1,500人が命を落とした。
逃げる場所もない小さな島。
「一億玉砕」が刷り込まれた住民たちにとって生き延びるという選択肢はなかった。
4月終わりから5月にかけて本島では沖縄戦最大の攻防が繰り広げられていました。
日本軍の司令部があった首里を巡る戦いです。
5月10日。
映像にはアメリカ軍がこの時期から投入した新型兵器が映し出されていました。
100メートル先まで焼き尽くす事ができる火炎放射器を搭載した装甲車です。
アメリカ軍は激しい抵抗に遭いながらも次第に日本の防衛線を突破していきます。
アメリカ軍は戦場に残った住民の被害を極力抑える方針でした。
司令官の側近バーンズ曹長の陣中日誌には住民30万人を収容できる施設を作り食糧を準備していた事が記されています。
しかし住民の死のデータを見ると4月下旬までで1万3,800人。
首里を巡る攻防の1か月間では更に増え2万1,600人が犠牲となっていました。
その多くが沖縄戦の直前軍に動員されていました。
防衛召集という制度で集められた沖縄の人たちです。
防衛召集とは戦時に現地の人たちを軍に組み込み兵力を補う制度です。
最終的には14歳以上の男子中学生も対象とされました。
沖縄では2万2,000人以上が防衛召集されました。
これは本島に展開した兵力のおよそ2割にあたります。
根こそぎ動員とも呼ばれるこの方針。
背景にあったのは大本営のある決定です。
沖縄戦の半年前大本営は32軍から本島の3つの師団のうち1つを除き台湾の防衛に回す事を命じます。
深刻な兵力不足に陥った32軍。
防衛召集によって兵力を補っていったのです。
沖縄全体で軍民一体が推し進められました。
首里の防衛線があった場所に今も残る日本軍の地下壕。
アメリカ軍の圧倒的な火力を避けるため地下に隠れ敵を待ち伏せる作戦をとりました。
こうした地下壕で軍民が混在する状況が生まれ住民の犠牲が更に膨らんでいったのです。
防衛召集の実態を間近で見ていた元日本兵がいる。
首里の防衛線で戦った…部隊は9割以上が戦死した。
防衛召集者たちは装備も不十分なまま戦場に送り出されていたという。
住民の肉声を記録した1,000本のテープ。
最前線に送られたという防衛召集者の証言があった。
今回防衛召集の実態を記した資料も新たに入手した。
戦闘が激しくなる中戦場で住民が次々に防衛召集され斬り込みを命じられた例がいくつも確認された。
一度に40人近くが斬り込みを命じられていた事も記されていた。
防衛召集以外にも戦場に駆り出された住民たちがいた。
老人や子ども女性の一部は県内外に疎開させるはずだった。
しかし実際は戦場に残り軍に組み込まれた人もいた。
近所の女性たちと共に首里攻防戦の最前線を転々とした渡慶次ミツ子さん。
軍と共に地下壕に身を潜め危険にさらされながら作業を手伝わされていた。
住民の犠牲を避けるという考えは当時なかったのか。
どうぞ。
今回首里の最前線で戦った日本軍の元将校が取材に応じた。
32連隊の大隊長だった…部隊は兵士どころか弾薬も食糧も全てが不足していたという。
「軍民一体」の掛け声のもと兵力不足を補った日本軍。
本土防衛のための戦いは兵士だけでなく住民の命と引き換えに続けられていた。
アメリカ軍が日本軍の司令部の目前に迫りました。
シュガーローフと呼ばれる丘を巡っては11回も攻守が入れ代わる激しい戦いが繰り広げられました。
アメリカ軍の報告書によれば海兵隊の死傷者は4,000人に上りました。
このころの映像には精神に異常を来す兵士の姿が映し出されていました。
首里攻防戦の1か月で命を落とした住民2万1,600人。
その死には無差別化していくアメリカ軍の攻撃も影響していました。
シュガーローフの周辺で撮影された映像を専門家と検証すると衝撃的な場面が見つかった。
アメリカ兵が銃撃を浴びせるその先に住民らしき人影が映っている。
狙われやすい場所を移動するのは兵士ではありえないと専門家は言う。
人影は狙い撃ちにされ次々に倒れていった。
住民だったとすればなぜ撃ったのか。
シュガーローフの戦いを生き延びた元海兵隊員が見つかった。
所属した第6海兵師団の旗が今も掲げられていた。
ハロー。
ジョー・ドラゴ元伍長が沖縄に送り込まれたのは19歳の時だった。
バンザ〜イ。
オーケー。
(英語)当時日本兵と沖縄の住民を見分ける事は難しく常に疑心暗鬼の状態だったという。
ドラゴ元伍長の部隊はある晩住民らしき集団が移動しているのを見かけた。
アメリカ軍の疑心暗鬼を更に深める事態も起きていた。
沖縄戦のさなかアメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告書。
日本兵が着物をまとい住民に偽装している写真が掲載されている。
日本軍の内部文書を英訳した資料。
「住民の服を着用するように」という命令が下されていた。
日本軍の一部は住民を隠れみのにしていた。
32連隊の大隊長だった…自分自身は命令を下していないが部下の中に住民に偽装する者がいたと証言した。
アメリカ軍の無差別攻撃は更に常軌を逸したものになっていく。
地下壕を見つけ出しては逃げ道を断ち火炎放射器で中を焼き尽くす攻撃を繰り返した。
しかしその中には住民たちもいた。
この証言をテープに残した…狂気を帯びたアメリカ兵の姿が今も頭から離れないという。
5月31日。
首里の日本軍司令部が陥落。
日米の激しい戦いは事実上の決着がついた。
バーンズ曹長は兵士や多数の住民の死を目の当たりにした。
8万2,074人の住民の死のデータ。
首里が陥落したあと6月以降を見てみると4万6,000人以上が犠牲となっていました。
事実上の決着がついていたにもかかわらず全体の6割近くが命を落としていたのです。
特に日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日までの1週間。
僅か一日で5,500人が亡くなった日もありました。
なぜ戦闘は継続したのか。
32軍では首里で最後の決戦に臨むかそれとも南部に撤退し持久戦を継続するか意見が分かれていました。
司令官の牛島満中将は少しでも時間を稼ぐため南部で戦いを続ける決断を下します。
沖縄本島最南端に司令部を移した32軍。
防衛召集などで動員された人たちや行き場を失った住民たちも南部に殺到。
ひしめき合う状態が生まれていました。
南部に逃れた大勢の住民をどうするか。
アメリカ軍の作戦会議で意見が交わされていた事がバーンズ曹長の陣中日誌から分かりました。
しかしこの計画は実現する事はありませんでした。
6月。
アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。
沖縄戦は最終局面に入りました。
海からも南部を包囲し艦砲射撃を浴びせるアメリカ軍。
犠牲が急激に拡大していきます。
(雨音)梅雨の降りしきる雨の中逃げ惑う住民たち。
その頭上にアメリカ軍の絶え間ない砲弾が降り注いだ。
身を守るには地下壕やガマと呼ばれる洞窟に逃げ込むしかなかった。
地下壕とガマは現在南部の糸満市で確認されているだけでも240か所。
そのうち92か所は軍が作戦に使っていたため住民は残りの地下壕やガマに避難場所を求めた。
アメリカ軍の南下に伴って身を隠す場所は更に限られていく。
住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた。
兵士も追い詰められていた。
首里攻防戦の最前線で戦った濱本元上等兵。
負傷したため戦場に置き去りにされたが自力で南部の地下壕にたどりついた。
もはや軍隊の体を成していなかったという。
ガマの中で人間性が次第に失われていった。
いくつもの悲劇が起きた。
最南端のガマには首里から逃れてきた人たちの姿があった。
3か月近く軍と共に最前線を転々としてきた渡慶次ミツ子さん。
衰弱しガマの中で寝込んでいた。
渡慶次さんのために2歳上の姉が水をくみに外に出た時砲弾がさく裂した。
いらっしゃいませ。
(取材者)ありがとうございます。
今年88歳になる渡慶次さん。
70年たった今も苦しんでいた。
もう思い出したくもないですよだけど。
嫌ですよ。
あの…あの事は。
思い出すと夜も寝られませんね。
もう少し早く戦争をやめる決断ができなかったのか。
しまいには…なぜと。
アメリカ軍はついに最南端に到達。
日本軍の組織的戦闘が終わる3日前住民の死のデータは高い値を示していた。
沖縄最南端の喜屋武半島では逃げ場を失った住民たちが次々に断崖から身を投げた。
南部の掃討戦に従事したグレン・ニュート元伍長。
その時の光景が今も脳裏に焼き付いて離れない。
6月23日。
「最後まで戦え」という命令を残し32軍司令官牛島中将が自決。
日本軍の組織的戦闘は終わった。
伊東孝一元大尉はその後も南部の地下壕に隠れゲリラ戦を続けた。
アメリカ軍に投降したのは終戦後の8月末だった。
何のために自分は戦ったのか。
陣中日誌を記したアメリカ軍のジェームス・バーンズ曹長。
沖縄戦は太平洋戦争中最大の戦死者を出した戦いとなった。
バーンズ曹長は去年95歳でこの世を去っていた。
戦後作家となりピュリツァー賞も受賞した。
しかし沖縄戦については生涯書く事はなかった。
陣中日誌の最後はこう締めくくられている。
あの戦争から70年。
沖縄戦の戦没者20万人を刻む平和の礎。
遺骨さえ見つかっていない人は今も3,000人以上に上るとされる。
蒲吉これ。
ああこれ。
父親を亡くした女性。
いつどこで亡くなったのか。
生きていた証しはこの名前だけだ。
今年も100体近い遺骨が見つかった。
本土防衛のため国家が遂行した沖縄戦。
ひとたび戦争が起きれば一人の命がいかに軽いものか…。
20万の死者たちが突きつけている。
2015/10/18(日) 16:30〜17:28
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」[字][再]

太平洋戦争中、住民を巻き込んで日米両軍が繰り広げた国内最大の地上戦「沖縄戦」。膨大な戦死者の記録やアメリカ軍の秘蔵フィルムから、衝撃的な沖縄戦の全貌に迫る。

詳細情報
番組内容
太平洋戦争中、住民を巻き込んで日米両軍が繰り広げた「沖縄戦」。地上戦による住民の犠牲者は国内最大、判明しているだけで9万人超が亡くなったとされる。なぜ、これほどまでに犠牲が拡大したのか…。NHKは、非公開とされてきた膨大な戦死者の記録を入手。さらに、アメリカ軍が撮影した秘蔵フィルムや、住民の生々しい証言テープなどから、沖縄戦の全体像を再構築。兵士や住民を狂気に追い込んでいった地上戦の真実に迫る。
おしらせ
〜平成27年度文化庁芸術祭参加〜

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