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「河辺メモ」で老僧が重大証言 日顕は日禅授与本尊の写真を持っていた!!

 投稿者:宿坊  投稿日:2008年11月 1日(土)10時59分53秒
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「河辺メモ」で大揺れに揺れる宗門に追い打ちをかける致命的な“新事実”がまた発覚!――。宗内のある老僧の証言によれば、メモが書かれた昭和五十三年当時、宗内で御本尊の鑑定などをできると思っていたのは日顕だけであり、しかも、事実、日顕はずっと以前から自分なりにそれを専門的にやっていた。



そして、今回の河辺メモにあった件(くだん)の日禅授与の本尊については、昭和四十五年当時、日顕が京都・平安寺において、その写真をその僧侶に自慢げに見せていたというのである。



こうしてみると、河辺メモの“大御本尊は偽物である。鑑定の結果解った”との発言は当時の日顕が得意になって“研究成果”をしゃべっていたものと受け止められる要素がますます強くなった。



シアトル裁判に続き、河辺メモでも日顕の生き地獄は続き、日一日とのっぴきならない事態に追い込まれている。



  【日顕のゴマカシ釈明すべて吹っ飛ぶ】



 「これで、猊下は河辺メモの問題に蓋(ふた)をするんだな」――宗内のある老僧が日顕の出した九月十八日付「御指南」を手に握りしめながら、感に堪えない口調でそう切り出した。



そして、河辺メモの背景、特にその中に出てくる日禅授与の本尊のことについて、言葉を選びながら次のように証言した。



「昭和四十五年春、日禅授与の本尊が法道院から本山に納められる直前、いまの日顕猊下に京都の平安寺へ呼ばれて、二泊三日滞在した。そのとき猊下が写真を見せてくれた。大キャビネのカラー写真だった。猊下は大変にご満悦で、写真を手にしながら、『どうだ、君、素晴らしいだろう』と何度か言い、『これが今度法道院から山に入るんだ』と、私にその写真を手渡して見せてくれた。私はそれを見て『あー素晴らしいですね。これは本物ですね』と言った」と。



この老僧自身も長年、御本尊の研究をしてきた人物である。



河辺メモの核心部分すなわち、

 「S53・2・7、A面談

 帝国H

 一、戒旦之御本尊之件

 戒旦の御本尊のは偽物である。

 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)



多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。

 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」



を読んで、だれもが疑問に思うのは、いったい、だれが戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との照合を思いつき、筆跡鑑定までしたのかという問題である。



当然、この両御本尊の照合を思いついた者は、大御本尊と日禅授与の本尊の両方を間近に拝し、熟知している人物でなければありえない。



その意味で、日顕がこの老僧に、日禅授与の本尊の写真を見せながら何度も語ったという、「どうだ、君、素晴らしいだろう」という言葉は非常に重大である。



なぜなら、それほど日顕にとってこの日禅授与の本尊は特別の思い入れがあったということを意味するからである。



また、日顕が昭和四十五年ごろから、すでに日禅授与の本尊の大判のカラー写真を所持していたという証言も重大である。なぜなら、これがあれば、戒壇の大御本尊の筆跡との照合も可能になるからである。



老僧は続けて証言する。

 「日禅授与の本尊が実際、東京・法道院から大石寺に奉納されるとき、いまの日顕猊下を中心とした役員三人が立ち会い、日禅授与の本尊を検分した」



確かに宗門機関誌「大日蓮」(昭和四十五年五月号)には、日禅授与の本尊が本山に納められた直後、四月七日の虫払法要で初めて宗内にお披露目された際、この本尊について、当時の阿部教学部長が説明したとの記録が残っている。



このように、日顕と日禅授与の本尊とは因縁浅からぬ関係をもっていたのである。



話はわき道にそれるが、日禅とは日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、日興上人と一緒に身延を離山し、大石寺の南之坊を開いた人物であった。その日禅に大聖人が弘安三年五月九日に授与した本尊がどういう経緯で東京・法道院に入ったのかについても、その老僧は詳しく語った。



「もともと日禅授与の本尊は、往古(おうこ)に悪者のために紛失し、伯耆(ほうき)の国(現在の鳥取県)の米子藩主のところに流れた。それを米子藩主が天文八年、北山本門寺に奉納したと言われる」



天文八年(一五三九年)とは、室町幕府十二代将軍・足利義晴のときであり、大石寺では十三代法主・日院の時代である。


「それ以来、ずっと北山にあったが、明治になって北山が金に困って日禅授与の本尊をブローカーを通じて売りに出した。それを法道院の開基である五十六世日応上人が買った。

それで明治四十三年に法道院に入った。応師が買う際、ブローカーから、北山から買ったとは言わないでくれと口止めされたという」

この老僧の証言は、河辺メモで補足的についている。
「日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安三年の御本尊)」の説明とも完全に符合している。

さらに、老僧は
 「昭和四十五年に法道院から本山に奉納されてから、大奥対面所で虫干しをした。日禅授与の本尊にかぎらず、ときどき、対面所で虫干しすることがある。日禅授与の本尊は、本山の虫払法要では、正面に向かって左側、西の二番にかける。日禅授与の本尊は大御本尊ぐらいの大きさだ」
とも語った。

 
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