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【戦後70年】
毎日のように誰かが餓死…京都「戦災孤児寮出身者」が振り返る〝孤児の戦争〟
その後、警察に保護され、伏見寮に入寮することになった。ようやく安心して寝ることができる場所を確保したものの、寂しさを募らせる日々は続いた。
「一緒に遊んでいた友達が、夕方になると『ご飯やで』と次々と母親に呼ばれていく。1人残されて、見つめた赤い夕日を忘れることはない」
当時の経験を人に話すことはこれまでほとんどなかったが、戦後70年がたち「戦災孤児のことが忘れられていく」と危機感が募り、今年から自らの体験を語り始めるようになった。
戦災孤児の研究を行っている立命館宇治中学校・高校の本庄豊教諭(60)によると、伏見寮は孤児らの一時保護施設として、京都市伏見区に戦後まもなく設立されたとみられる。18歳くらいまでが対象で、第一寮と第二寮の2棟が建っていたという。「孤児の多くは、奥出さんのように京都駅で寝泊まりをしていたところを、集められてきた」と本庄教諭は話す。
伏見寮で働いていた父の仕事を手伝ったことがあるという京都市の川崎泰市さん(83)によると、「自分の名前も覚えていない孤児もおり、職員が名前をつけたこともあった」という。施設内で息を引き取った孤児たちも少なくなかった。
寮についての正確な記録は残っておらず、運営の実態や、元孤児たちのその後の人生をたどることは年々難しくなっている。