「就活に喝」呪いの内田樹への冷静な評論@池内恵
内田樹氏については、5年前のこれで話は尽きているのですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html(「就活に喝」という内田樹に喝)
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。・・・
・・・内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。
もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。
哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。
昨日、アラブ研究の池内恵氏が内田樹氏を手厳しく批判していて、いくつかデジャビュを感じるところがありました。
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140
・・・女子は女子大や教員養成系の大学・学部に行って文学を専攻することが(花嫁修業の都合や、男女雇用機会均等法以前に女子に可能だった数少ない職業選択という意味で)望ましい、と社会的に要請されたこともあった。それらの学部は仏・独語の先生をかき集めないと認可されない。そのため、文学部を出れば、意味不明の論文を1本書いたか書かないかで、大学講師そして自動昇進で教授になれた。早ければ25歳ぐらいで教養課程や女子大の助教授になって、その後は終身雇用・年功玉突き昇進だったので、それ以上勉強せず、新聞・雑誌などに「大学教授」の肩書で見当違いな説教を書き散らしているというスタイルの生き方が可能だった。・・・
このカッコの中のことについては、こちらも参照。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)
・・・歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。
一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-32e9.html(女子教育と職業レリバンス)
・・・女性差別的な教育談義を批判するのに、職業教育批判を持ち出すような方がいるとすれば、それこそ「人文」系の知識人といわれる方々の社会認識の偏りを示しているのでしょう。
むしろ、職業レリバンスの乏しい教育を娘に受けさせることが、花嫁レリバンスの高さに繋がっていたことが、「人文」系大学教員の雇用機会の拡大の大きな理由であったわけですけど。
上記「「就活に喝」という内田樹に喝」の追記から、
えらそうなのはどっちだろうか。自分は大学教授として安定した地位を楽しみつつ、就職できなかったら生活に困るかもしれない学生の身の上に思いをはせることもない方じゃないの?
会社と教授の板挟みで悩む自分のゼミ生をぎりぎりいじめ抜くのがそんなに楽しいのだろうか。
それなら初めから「就職希望の人はお断り」というべき。
・・・・・でも、考えてみると、神戸女学院文学部というのは、もともと就職なんていう下賤な進路じゃなく、花嫁修業としてお茶、お花と同列でお文学をやるお嬢様御用達のところだったのかも知れない。たしかに「合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ」って云いそう。
そういうお嬢様じゃない就職希望の女性がなまじ入ってしまったのが間違いだった、というのがオチ?まあ、いまどきそういうオチはないでしょうけど。
(追記)
ちなみに、池内氏の文章には、さりげなく
・・・はい、私のお小遣いはそこから出ていました。
という台詞(父親はドイツ文学者の池内紀氏)が挟み込まれていて、一瞬ニヤリとさせるわけですが。
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コメント
大学教育に関わる論争って皆さんポイントずれまくってませんか?「一方だけ見て沙汰するな」っていう以前に高名な方々だけに日本の知的レベルが疑われますよ。
入学も訳も分からぬ高校生を進路指導するところに問題が山積しているのです。またすべてがストレート主義ではなく、社会人枠や自由な学校・学部変更などフレキシブルに学生に選択肢を真剣に選ばせる制度が必要です。就職先のミスマッチは、それがあって初めて考えるべき適応問題ですよ。ミスばっかりでしょ、今の制度では。やめない人は無理矢理個性を殺して所得のためだけに組織同調しているだけですから、欧米の意欲的な企業に勝てるわけも、またそうした人材が日本を選ぶこともあり得ないことをほっったらかしで「即戦力だの、人文系は潰せだの」よういわはるわ。全体主義的な羊社員養成から脱却できる労働の流動性とその負の時期にあたたばあいの所得保障と次へのステップを社会制度として建設的に俯瞰できる議論をしなければならんと思います。
沈みまっせ、ホンマ、ニッポンはこのままでは。退場すべきは先述議論に明け暮れる自意識過剰のおっちゃんたちですね。私もおっちゃんですが。
投稿: kohchan | 2015年10月23日 (金) 15時39分