2015年10月9日、2016年に登録されるユネスコ記憶遺産47点が発表された。その中には中国が申請した「Documents of Nanjing Massacre」(南京虐殺の資料)が含まれている。日本政府は強く反発。菅義偉官房長官は国連教育科学文化機関(ユネスコ)への分担金・拠出金停止を示唆したほか、自民党外交部会も分担金拠出停止を求める決議を可決した。
一部の日本メディアは、中国の申請を「歴史戦」の一環だと指摘している。日本と中国は「歴史戦」を戦っているのだろうか?そしてユネスコ記憶登録成功は「中国の勝利」なのだろうか?
ユネスコ記憶遺産の2015年登録リスト(公式HPより)
中国メディアはユネスコ記憶遺産登録をどのように伝えているのか? 厳粛な話題だからというのもあろうが、「中国大勝利!」と浮き足立っている様子は見られない。
新華社通信は13日、「南京大虐殺 一都市の傷、一国の痛み、世界の記憶」と題した記事を掲載しているが、日本を批判する文言は含まれていない。それどころか記事は「国際歴史学界では南京大虐殺とアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、広島・長崎の原爆投下は二次大戦史上における三大惨劇とされている」との書き出しで始まる。日本が二次大戦の被害者であることを認める内容だ。
新京報の記事「南京大虐殺史料のユネスコ記憶遺産申請が成功」では、日本側による「妨害」を取り上げている。「妨害」とは2014年6月に中国は申請を表明したが、菅義偉官房長官が撤回を要請したこと、また審査を担当する国際諮問委員会の専門家14人に対し、日本政府関係者が接触したほか、日本の民間団体がユネスコや諮問委員会委員に「南京事件はプロパガンダであり、創作」との書簡を送っていたことを意味する。この「妨害」についても中国の報道では簡単に触れられている程度で大きくは扱われていない。
きわめて慎重な報道姿勢だったという印象だ。扱いでいえば、日本側がユネスコの分担金・拠出金の停止をちらつかせたことのほうがよっぽど大きく取り上げられている。
この扱いの小ささはなぜだろうか?
第一に日中関係の改善があげられるだろう。「歴史戦」というものがあるならば、それは2013年末の安倍晋三首相靖国神社参拝から翌年秋の北京市における日中首脳会談にかけての約10カ月間が最盛期であった。中国政府は世界各国の新聞を通じて、日本軍国主義が復活しつつあると訴えた。
「人気小説『ハリー・ポッター』の悪役ヴァルデモート卿はその魂を7つのホークラックス(分霊箱)に封じ込めていたが、靖国神社はいわば日本軍国主義のホークラックスである。日本国の暗黒を象徴しているのだ。」
これは、2014年1月1日に英紙『デイリー・テレグラフ』に掲載された劉暁明・駐英中国大使の寄稿文だ。ここまでひねったものは少ないにしても、各国の状況にあわせた批判文が寄稿された。
抗日戦争勝利記念日と南京大虐殺国家追悼日を国家記念日と制定したのも、今夏発表ラッシュとなった抗日戦争映画・ドラマの企画も、そして南京大虐殺と従軍慰安婦資料の記憶遺産申請もこの時期の出来事である。申請から登録までには1年以上の時間がかかっている。その間に対立は一段落、そろそろ日中韓首脳会談を開きましょうといったタイミングで、記憶遺産登録が発表された。
第二にユネスコ記憶遺産という微妙な存在だ。「Memory of the World」(世界の記憶)という事業名に「ユネスコ記憶遺産」という邦訳をつけたので、なにやら世界遺産っぽく思えるがまったくの別物。観光資源として各国が躍起になって登録を続けている世界遺産とは異なり、ユネスコ記憶遺産は注目度が低い。場所ではなく、資料に「ユネスコお墨付き」がもらえるだけなので、御利益が少ないのが要因だろう。
それにもかかわらず、日本で大騒ぎになったのはユネスコ信仰があるからではないだろうか。
「戦後の日本が初めて加盟した国連機関がユネスコであり、1951年のこの加盟は、日本にとって、戦後の国際社会への復帰の契機となった。今日では、日本は米国に次いで第2位の分担金拠出国(注:2011年10月から、米国がパレスチナのユネスコ加盟により拠出金支払を停止しているため、実質的に日本が最大の分担金拠出国となっている。)として、ユネスコに財政面から貢献するとともに、ユネスコの管理・運営を司る執行委員会委員国として、ユネスコの管理運営に直接関与している」(外務省公式サイト)
「国際社会復帰の道を開いたユネスコ」というイメージが、日本人にユネスコに対する過剰な期待を抱かせてきたのではないか。それだけに今回の登録が衝撃をもって受け止められたわけだが、世界との温度差があることは間違いない。日本政府が分担金・拠出金の停止をちらつかせることがなければ、たいして記憶されることもなく忘れられたニュースになった可能性が高い。
登録された資料の一つ、マギーフィルム(中国国家档案局公式サイトより)
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」
これはサンフランシスコ平和条約の第11条だ。ユネスコ記憶遺産申請にあたり中国が提出した資料では東京裁判及び南京軍事法廷に準拠していることを強調している。犠牲者数についても東京裁判の20万人説、南京軍事法廷の30万人説の双方が併記されている。これに表だって反論するのは明らかに無理筋だ。そのため日本政府の反論も「一方的な主張」という奥歯に物が挟まったような言い方に終始している。
もし徹底的に反論するならば、サンフランシスコ平和条約そのものに対して物言いをつける必要があり、米国をはじめとする主要国のほとんどは日本の敵にまわるだろう。唯一同調してくれる可能性があるのは中国だけである。「中華人民共和国が準備、立案、調印に参加していないサンフランシスコ平和条約は無効」というのが彼らの立場だ。南京大虐殺に反駁するためには、日中が同盟して戦後国際秩序に挑戦する……という奇怪な光景が必要になってしまう。
冗談はさておき、もし中国と「歴史戦」を戦うとしても、無理筋の戦いをやる必要はないのではないか。歴史は第二次世界大戦だけではないのだ。今夏の安倍談話では、かつて過ちを犯した日本だが、「自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました」と強調している。中国を念頭にこの一文を読むと、法治が軽んじられ南シナ海での挑発行動を繰り返す現状への強烈な皮肉と読める。
無理筋ではなく勝ち筋を選ぶこと。戦後国際秩序の挑戦者ではなく、模範生としてふるまうこと。これがユネスコ記憶遺産という、小さな出来事を大騒ぎに変えてしまった今回の「失敗」から学ぶべき教訓だろう。
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高口康太
翻訳家、フリージャーナリスト 1976年、千葉県生まれ。千葉大学博士課程単位取得退学。独自の切り口で中国と新興国を読むニュースサイト「KINBRICKSNOW」を運営。豊富な中国経験と語学力を生かし、中国の内在的論理を把握した上で展開する中国論で高い評価を得ている。
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