【週刊オルフェンズを読み解く】とは?:【週刊オルフェンズを読み解く】第0話 機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを全話読み解く連載記事 - せまひろかん
第3話で注目すべきは「大人」と対峙する「少年少女」の姿が鮮明になったことだろう。
第3話あらすじ
ギャラルホルンとの戦いで無能な指揮を執った大人たちは三日月が容赦なく殺害し、参番組がCGSの実権を握った。CGSは問題の火種となるクーデリアの処遇を決めかねていた。CGSに残った大人たちはギャラルホルンにクーデリアを差し出して金と交換すべきと提案するも、CGS改め鉄華団の実権を握るオルガは答えを出さない。
その最中にギャラルホルンのクランクが決闘を申し込んでくる。オルガはそれを受諾して三日月をバルバトスに搭乗させ出撃させる。
その決闘でクランクは「目的はクーデリアの命だけ、大人の争いに子どもが犠牲になることはない」と宣言する。
結果はクランクが敗北し、三日月に介錯を要求するも最後まで言葉を放つことも許されずに射殺されてしまう。
その戦いを経てクーデリアは自身が何をしなければならないのかを見つけ出し、鉄華団の資金援助を行うと宣言した。
身勝手なる存在
鉄オルで注目すべきは「大人」の身勝手さだろう。この3話でその姿が明確になった。
冒頭でCGS一軍リーダーのグンネルが拘束される。オルガは「碌な指揮をせずに犠牲者を増やした大人と参番組のどちらがCGSの実権を握るに相応しいか」と尋ねる。しかし、グンネルは「拘束を説けば命だけは助けてやる」と言う始末だ。こんな状況に追いやられても、彼は子どもを下に見ている。そこには現実を直視する視線が存在していない。子どもを使い捨ての存在にしか捉えていない。だからこそ自分の置かれた状況を受け入れていないし、直視することもしていないのだ。「ガキが舐めたことをしやがって」程度の認識しかない。
自分が殺されるという可能性を考えていないから、これほど身勝手な言動を行えるのだ。心中では子どもを舐めていた。子どもに何ができると見下していた。しかし、グンネルは三日月に射殺される。死ぬことで、彼は漸く自分の立場を理解できたわけだ。
この身勝手な言動を行う大人はグンネルだけではない。
ギャラルホルンのクランクがいる。彼を「良き大人」と評する人もいるが、私はそう思えない。彼は「少年兵と戦うことはできない」と吐露する心優しき一面を見せているから、表層的には「良き大人」に見えているだけだ。だが、クランクの言動は身勝手と矛盾で成り立っている。
クランクはCGSへ決闘を申し込む。クランクが勝てばクーデリアを貰い、CGSとギャラルホルンの因縁はここで断ち切ると通告した。だがCGSが勝利した場合の報酬を提示していないという矛盾を見せている。自分が勝つという絶対的な自信でもあったのだろうか。
オルガは三日月を出撃させる。三日月は最初から「殺害」を念頭にクランクと戦う。戦いの最中にクランクは「大人の争いに子どもが犠牲になる必要はない。目的はクーデリアの命だけ」とこれまた身勝手かつ矛盾したセリフを放っている。
この言葉から決闘なのに命のやり取りを行う覚悟を持ち合せていない事が察せられる。子ども相手だから手加減してやろうとの考えが見え隠れするほどだ。
こいつは「子どもの事を思いやっている」と見せかけているだけで、実際には自分に酔っているだけなのだ。そうとしか見えてこない。300年前の古めかしい方法で決着をつけると進言するあたりに彼の酔狂さが良くわかる。
鉄オルに登場する大人は身勝手な存在ばかりだ。
特にクランクは少年兵との戦いに躊躇したり、味方に不要な犠牲が出たことへ憤慨するなど気高き軍人の雰囲気を醸している。
しかし、実際には「クーデリアの命が狙いで大人の争いに子どもが犠牲になる必要はない」と言い放っている。その言葉を聞いた三日月は「散々殺しといて」とつぶやいた。この矛盾に満ちた言動に、三日月の殺意はより高まったと推察される。
クーデリアは大人ではない。明らかに三日月やオルガと変わらない「子ども」である。
「大人の争いに子どもが犠牲になる必要はない」なんて、かっこつけた言葉を放っていてるが、それは完全な矛盾でしかない。
ギャラルホルンには火星クリュセ地区独立運動のヒロインを抹殺することで、火星の怒りを地球に向けるとの考えがある。そこにはクーデリアの父も関わっており、これは完全に「大人」の事情でしかない。
大人の身勝手が引き起こしたその火星と地球の軋轢。そこに関わっているとはいえまだ「子ども」であるクーデリア殺害の意思を明確にしている。「大人の争いに子どもが犠牲になることはない」とのセリフと行動が一致していない。その光景にはただ恐怖するばかりだ。一体クランクの考える大人と子どもの境界とは何なのか。それが判明する前に三日月に射殺されるわけだが。
グンネルとクランクの言動には「大人こそ絶対的に正しい存在」であるという認識が見え隠れしているように思える。
子どもは大人(年長者)のいう事を聞くべきとの考えが日本社会に存在しており、それがさも当たり前のように定着している。鉄オルの大人は日本社会の風潮に対するアンチテーゼの面を持っていると考えている。
劇中で大人が子どもを使い捨てにするのも、昨今の日本が抱えるブラック企業問題や社会保障問題に通じているのだ。
「ガキは声を出すな」なんて考えが蔓延しているせいで、こんな矛盾な社会が完成したと思う。
大人が誤った行為を犯したのを目撃して訂正すべきと進言しても「ガキは黙ってろ」と一蹴される。大人、いや上の人間のいう事は絶対という風潮に対抗しているのが劇中での少年少女だ。
過ちをも訂正できない奇怪な上下関係を打破すべく、彼らは行動を始めた。
これはただの「大人への反発」を描いた作品ではない。正しき世界を作り出そうと尽力する少年少女の物語だ。未来ある存在こそが、未来を作るのに相応しいことを視聴者に突き付けている。
それを極端な形で描いているだけなのだ。
大人の世界に首を突っ込んだクーデリアは容赦なく殺害するというのも、身勝手な思考だろう。子どもが大人の世界に進出しては行けないのだろうか。ガキはガキらしくすべきなのだろうか。鉄オルにはそんな問いかけが存在していると見ていいだろう。
抑圧された子どもたちが静かに爆発していく。現実の日本社会でも似た事例が発生しているのでは。
この鬱屈で荒涼とした世界と日本は似ているし、日本のみならず世界的にもこのような殺伐感が発生しているのではと思う。意図したのかは不明だが、現実世界と深刻なほどにリンクしているのだ。
鉄オルは極端な形ではあるが今の社会を映し出す鏡として存在していると考えている。
大人は欺瞞と矛盾抱える存在だ。三日月たちはこれまでの経験でその事実を認識しているのだろう。
格差を少年兵を、彼らの人生を生み出したのは「大人」だ。大人の身勝手さが彼らをこの底辺へと追い詰めた。大人は地位が高いクーデリアの人生すらをも破壊している。
身勝手な大人に少年少女はどう立ち向かって行き、どのような未来を勝ち取るのか。殺伐とした世界に花は咲くのか?
今後の物語から目が離せない。