2017年03月01日 (水)
就職活動は、長い道のりです。
非常に困難な道のりです。
自己分析、業界・企業研究、説明会への参加、エントリーシート、面接と、やるべきことはたくさんあります。
しかし道が困難であればあるほど、手に入る自信も大きなものになります。
このブログでは、第一志望の企業の内定を獲得するためのキッカケを提供していきたいと思います。
2012年2月29日
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2012年06月30日 (土)
「芸能界で何十年もトップを張っている人だって危機感を持っている。いや、危機感を持っているからこそ、今もトップなんだと思う」という言葉が、胸に響きました。
ユーロで圧倒的な前評判のドイツが、イタリアに負けた直後だからかも知れません(笑)。
しかし、第一線で体を張り続けている人には、何か必ずその理由があると思います。

何よりも大切なのは、自分を信じること。
内藤剛志
1955年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部時代から映画の自主制作に加わり、俳優の道を歩み始める。中退後の80年、大森一樹監督『ヒポクラテスたち』で映画デビュー。その後、ドラマ、映画などで活躍。世間的に認知されるきっかけは94年のドラマ『家なき子』。95年1月~01年1月まで25クール連続でドラマ28作品に出演するなど、ドラマに欠かせない存在に。CMや情報番組の司会でも活躍。07年6月から『水戸黄門』で2代目風車の弥七を演じている。
高校を出た後、ミュージシャンを目指していた時期もあったんです。でも、1年で見切りをつけた。実力不足を感じたのと、表現手段として言葉への興味が強くなったから。それで大学で映画を学ぼうと思った。みんな映画好き。こだわりが似た連中が集まるのに時間はかかりませんでした。5月にはもう自主制作の映画を撮り始めてた。実は、僕が演じる立場になったのは偶然でしてね。だから今も思っているのは、僕はカテゴリーは芸能人かもしれませんが、「俳優部」の感覚なんです。ほかに、演出部や照明部や撮影部、録音部などがある。いろんな部が集まって、みんなで作っていくんです。
それから劇団にも通ったりして、漠然と待ったのは、ひとまず10年くらいはやろう、という意識でした。僕の長所はあきらめないことで、短所はしつこいこと(笑)。目指しだのは、アーティスティックというか、職人というか、そういう俳優でした。お金のことはあまり気にしなかったですね。お金には興味がない、なんてきれいごとは言わないですけど。事実、お金は評価の証でもある。でも、お金だけで動くことはなかったし、それは優先順位の1番ではあり得なかった。やりたい、やるべきだ、と思ったら、お金度外視で仕事してきたし、今後もそうだと思う。
役者で食べていくことに、不安がなかったわけではありません。でも、考えても迷うだけでしょう。だから、自分を疑わないでいようと思ってた。そして幸運にも仕事に恵まれました。才能があるとは思っていなかったけれど、実際に声がかかれば、あるのかもしれないと思うようになって。少なくとも、才能の芽だけは自分で摘むまいと考えて。20代中盤からは、台本の前のほうに名前が出るようにもなった。ところが、30歳を過ぎた頃、急に仕事が減っていったんです。次々新しい才能が入ってきますし、主役級は限られた人数しか必要ないわけですから。
やっと来た仕事の台本をもらうと、めくってもめくっても自分のセリフが出てこない。そんなことが増えていきました。俳優として大きな転機になったのは、このときですね。初めて技術を磨こうと思ったんです。それまでは、俳優は感情で演じればいいんだと思ってた。でも、感情を伝えるには技術が必要なんです。それからは、ありとあらゆる仕事を受けました。どんな役でもよかった。そして、世のなかに溢れるもののすべてを、演じることの参考にしました。午前中に医者を演じ、午後は犯人、夜は会社員・…髪形も、服装も、すべて演じ分ける。大事なのは、意識なんです。どうやるか、じゃない。やるかやらないか。それだけなんです。
人生では必ず失敗する。問われるのは、その後
39歳で『家なき子』に出てからは、仕事が次々に飛び込むようになりました。25クール連続、6年間でドラマ28作品に出させてもらったこともある。それをブレイクという言葉で表現するのなら、背景にあったのは間違いなく技術を磨いた日々にあったと思う。
仕事が減ったときも、辞めようとは思いませんでした。どういうわけか、妙な自信が自分のなかにありました。なんとかなるだろう、と。もちろん不安はあります。不安は人をつぶすこともある。ただ、不安に押しつぶされるなら、そんな人は魅力がないでしょう。でも、不安を持たない人もまた、魅力がないと僕は思う。芸能界で何十年もトップを張っている人だって危機感を持っている。いや、危機感を持っているからこそ、今もトップなんだと思う。これでいいのか、と常に客観的に自分を見られない人は、成長が止まってしまう。不安を持つというのは、客観的に自分を見られているということです。不安は、うまく付き合えばいいんです。
失敗も同じ。失敗してつぶれていく人もいる。それがあるから失敗が怖くて仕方がない人もいる。失敗は怖いですよ。僕だって怖い。でもね、失敗しない人生なんてないんです。絶対に失敗するんです。問われるのは、その後、どうするか、ということ。それを乗り越えて、ちゃんと戻ってこられるか。それこそが問われるんです。覚悟すべきはそのこと。失敗そのものじゃない。大丈夫。失敗したって、ちゃんと戻れる。それを知っておいてほしい。
僕は演じるとき、いつもザラっとしたものを大事にしています。自分にとってはあんまり気持ちよくないものをひとつだけ残しておく。いやだな、このセリフ、と思ってもそのままにする。そうすることで気持ちを高め、演じる自分を自覚する。スーっと流れてしまわないようにするんです。そもそも生きていくうえで、すべてが居心地いいなんてありえない。だから、特に仕事のうえでは、全部気持ちのいいところに自分を置かないようにするんです。それは実はけっこう危険なことだから。ましてや環境が良くないと、まわりに文句を言ったところで何も始まらない。他人はコントロールできないんだから。
ベテランになるとラクになるんだろう、なんて思う人もいるかもしれません。でも、それは違う。だって、同じ役、同じセリフは二度とないんです。もっと言えば、同じ瞬間は二度と来ないんですから。いつも新しい挑戦なんです。これは社会に出て行くすべての人に同じことだと思う。ずっと戦いです。でも、だから面白いんだと思う。
僕が何よりも大事にしてほしいのは、自分を信じることです。人にはすごい可能性があるんだ、と。世界的な芸術家だって、同じ人間です。ひらめきの天才にかなわないと思ったなら、繰り返すことだけは負けない、と思えばいい。自分にできる、天才とは違う方法でいつか抜いてやる、と考えればいい。結局、確実なものなんて何ひとつないんです。だから自分を信じること。できないことなんてないと思うこと。これ、本当なんだから。それでももし心配になったら、思い出してほしい。これまでちゃんと生きてきたことを。頑張ってここまできたんだということを。大丈夫。きっと、やれるから。

ユーロで圧倒的な前評判のドイツが、イタリアに負けた直後だからかも知れません(笑)。
しかし、第一線で体を張り続けている人には、何か必ずその理由があると思います。
何よりも大切なのは、自分を信じること。
内藤剛志
1955年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部時代から映画の自主制作に加わり、俳優の道を歩み始める。中退後の80年、大森一樹監督『ヒポクラテスたち』で映画デビュー。その後、ドラマ、映画などで活躍。世間的に認知されるきっかけは94年のドラマ『家なき子』。95年1月~01年1月まで25クール連続でドラマ28作品に出演するなど、ドラマに欠かせない存在に。CMや情報番組の司会でも活躍。07年6月から『水戸黄門』で2代目風車の弥七を演じている。
高校を出た後、ミュージシャンを目指していた時期もあったんです。でも、1年で見切りをつけた。実力不足を感じたのと、表現手段として言葉への興味が強くなったから。それで大学で映画を学ぼうと思った。みんな映画好き。こだわりが似た連中が集まるのに時間はかかりませんでした。5月にはもう自主制作の映画を撮り始めてた。実は、僕が演じる立場になったのは偶然でしてね。だから今も思っているのは、僕はカテゴリーは芸能人かもしれませんが、「俳優部」の感覚なんです。ほかに、演出部や照明部や撮影部、録音部などがある。いろんな部が集まって、みんなで作っていくんです。
それから劇団にも通ったりして、漠然と待ったのは、ひとまず10年くらいはやろう、という意識でした。僕の長所はあきらめないことで、短所はしつこいこと(笑)。目指しだのは、アーティスティックというか、職人というか、そういう俳優でした。お金のことはあまり気にしなかったですね。お金には興味がない、なんてきれいごとは言わないですけど。事実、お金は評価の証でもある。でも、お金だけで動くことはなかったし、それは優先順位の1番ではあり得なかった。やりたい、やるべきだ、と思ったら、お金度外視で仕事してきたし、今後もそうだと思う。
役者で食べていくことに、不安がなかったわけではありません。でも、考えても迷うだけでしょう。だから、自分を疑わないでいようと思ってた。そして幸運にも仕事に恵まれました。才能があるとは思っていなかったけれど、実際に声がかかれば、あるのかもしれないと思うようになって。少なくとも、才能の芽だけは自分で摘むまいと考えて。20代中盤からは、台本の前のほうに名前が出るようにもなった。ところが、30歳を過ぎた頃、急に仕事が減っていったんです。次々新しい才能が入ってきますし、主役級は限られた人数しか必要ないわけですから。
やっと来た仕事の台本をもらうと、めくってもめくっても自分のセリフが出てこない。そんなことが増えていきました。俳優として大きな転機になったのは、このときですね。初めて技術を磨こうと思ったんです。それまでは、俳優は感情で演じればいいんだと思ってた。でも、感情を伝えるには技術が必要なんです。それからは、ありとあらゆる仕事を受けました。どんな役でもよかった。そして、世のなかに溢れるもののすべてを、演じることの参考にしました。午前中に医者を演じ、午後は犯人、夜は会社員・…髪形も、服装も、すべて演じ分ける。大事なのは、意識なんです。どうやるか、じゃない。やるかやらないか。それだけなんです。
人生では必ず失敗する。問われるのは、その後
39歳で『家なき子』に出てからは、仕事が次々に飛び込むようになりました。25クール連続、6年間でドラマ28作品に出させてもらったこともある。それをブレイクという言葉で表現するのなら、背景にあったのは間違いなく技術を磨いた日々にあったと思う。
仕事が減ったときも、辞めようとは思いませんでした。どういうわけか、妙な自信が自分のなかにありました。なんとかなるだろう、と。もちろん不安はあります。不安は人をつぶすこともある。ただ、不安に押しつぶされるなら、そんな人は魅力がないでしょう。でも、不安を持たない人もまた、魅力がないと僕は思う。芸能界で何十年もトップを張っている人だって危機感を持っている。いや、危機感を持っているからこそ、今もトップなんだと思う。これでいいのか、と常に客観的に自分を見られない人は、成長が止まってしまう。不安を持つというのは、客観的に自分を見られているということです。不安は、うまく付き合えばいいんです。
失敗も同じ。失敗してつぶれていく人もいる。それがあるから失敗が怖くて仕方がない人もいる。失敗は怖いですよ。僕だって怖い。でもね、失敗しない人生なんてないんです。絶対に失敗するんです。問われるのは、その後、どうするか、ということ。それを乗り越えて、ちゃんと戻ってこられるか。それこそが問われるんです。覚悟すべきはそのこと。失敗そのものじゃない。大丈夫。失敗したって、ちゃんと戻れる。それを知っておいてほしい。
僕は演じるとき、いつもザラっとしたものを大事にしています。自分にとってはあんまり気持ちよくないものをひとつだけ残しておく。いやだな、このセリフ、と思ってもそのままにする。そうすることで気持ちを高め、演じる自分を自覚する。スーっと流れてしまわないようにするんです。そもそも生きていくうえで、すべてが居心地いいなんてありえない。だから、特に仕事のうえでは、全部気持ちのいいところに自分を置かないようにするんです。それは実はけっこう危険なことだから。ましてや環境が良くないと、まわりに文句を言ったところで何も始まらない。他人はコントロールできないんだから。
ベテランになるとラクになるんだろう、なんて思う人もいるかもしれません。でも、それは違う。だって、同じ役、同じセリフは二度とないんです。もっと言えば、同じ瞬間は二度と来ないんですから。いつも新しい挑戦なんです。これは社会に出て行くすべての人に同じことだと思う。ずっと戦いです。でも、だから面白いんだと思う。
僕が何よりも大事にしてほしいのは、自分を信じることです。人にはすごい可能性があるんだ、と。世界的な芸術家だって、同じ人間です。ひらめきの天才にかなわないと思ったなら、繰り返すことだけは負けない、と思えばいい。自分にできる、天才とは違う方法でいつか抜いてやる、と考えればいい。結局、確実なものなんて何ひとつないんです。だから自分を信じること。できないことなんてないと思うこと。これ、本当なんだから。それでももし心配になったら、思い出してほしい。これまでちゃんと生きてきたことを。頑張ってここまできたんだということを。大丈夫。きっと、やれるから。
2012年06月29日 (金)
今、テレビでも大活躍の高田延彦氏。
格闘家ならではの熱い言葉が、就職活動の応援歌になっています。

今日を懸命に生きた
積み重ねが、未来なんです。
高田延彦
1962年、神奈川県生まれ。1980年、新日本プロレス入門。数々の名勝負を繰り広げ、2002年11月引退。現在は、高田道場主宰として後進の育成を行っている。子ども向けレスリング・ボクシング教室「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」を定期的に開催中。最近では、映画『シムソンズ』、大河ドラマ『風林火山』、TBS「パパとムスメの7日間」に出演するなど、枠を広げた活動を積極的に行っている。2008年には、自身初となるNHK朝の連続ドラマ『瞳』へ出演する。「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」開催情報4月20日(日)中京女子大学(愛知県)にて開催。
現役時代、戦う相手は世界最高峰のファイターでした。怖さはもちろんありますよ。特に試合が決まって、対戦相手が決まる直前が最も緊張する。でも、決まったら、違うスイッチが入るんです。そして、恐怖心を逆に自信に変えていく作業に入る。練習です。相手によっては、恐怖心はなかなか消えないこともある。でも、何ヵ月もかけて恐怖が捨て去れるまで練習する。今にも戦いたい。そう思えるまで。どんなファイターにも恐怖心は必ずあります。だからみんな、練習する。懸命にやる。世界一強いと言われる人もね。
小学校で憧れ、中学で入ると決め、17歳でようやく入門できたのが、プロレスの世界でした。練習の厳しさは相当に覚悟したつもりでしたが、実際にはそれをはるかに上回る厳しさでした。今も初めて練習した日のことを覚えています。すぐに辞めようと思いました。30キロも体重が上回る先輩に倒され、つぶされる。普通の練習ですら、このままでは殺される、と思いました。
練習所や合宿所の空気に、慣れるまでに時間がかかったのもつらかった。社会に出るというのは、何もかもが異次元なんです。得体の知れない世界だし、居心地もすこぶる悪い。これに慣れるには、どうしても時間がかかる。いつでも辞められたし、逃げるチャンスもあった。でも、そうはしませんでした。憧れていたアントニオ猪木さんのすぐ近くでプロレスができるチャンスを神様がくれた。この場所にしがみついて、とにかく頑張るべきだと思った。昔の人はいいことを言っていると思いました。石の上にも3年。まさにその通りでした。3年は頑張らないとわからないことがたくさんありましたから。
毎日が濃密でしたね。猪木さんの付き人もし、雑用もし、練習もする。落ち込んでる暇なんてなかった。若い頃に身につけたものは、身体に染みこんでいくんです。そして、後で大いに役に立った。もちろん楽しい、うれしいこともあります。いろんなものがかみあって、すごくいい一瞬が得られたりすることもある。でも、楽しいこと、幸せなことというのは、基本的には連続しないものなんです。95%は苦しいことがほとんど。でも、だからこそ一瞬でもいいことがあれば、喜びは大きいんですね。わずかな喜びでも次への大きなエネルギーにできるんです。
大きな試合で勝ったり、イベントがうまくいったりすると思い切り喜ぶようにしていました。でも、翌ロには切り替える。もう、それは過去のものだから。過去をいつまでも喜んでも仕方がありません。やるべきは、次の喜びのために走り出すことなんですから。20代は、人生の土台を築く本当に大事な時期。未来のことは、ほとんど考えたことがなかったですね。現役時代に頭にあったのは、40歳で辞めざるを得ないような生き方をしたいということだけ。もうこれ以上はできない。引退せざるを得ない。そう自分で思いたい、と。
ほかのことは考えませんでした。だって、未来のことなんて誰にもわからないでしょう。考えたところで、わかるはずはない。大事なことは、それをポジティブに受け止めることです。未来を考えるより大事なことは、今を考えること。今日をベストに生きた積み重ねが、未来なんです。先の計算をしたところで、その通りになるはずがない。明日、死ぬかもしれない。何が起こるかわからない。それは否定できない。だったら今をベストに生きるしかない。
総合格闘技にしても、今いろんな仕事をさせていただいていることも、こうなろうと思ってできたことではありません。目の前のやるべきこと、やりたいことを一つひとつやってきた先にそれはあった。なかには、恐いもの見たさで挑んだものもある。やってうまくいかなかったものもある。でも、やらなければわからないことがたくさんありました。トライして踏み込んで気づくすばらしさもあった。
懸命に頑張ったのに、結果が伴わない。そういうこともあります。自分自身の人生を振り返ってみても、あるいは世界最高峰のファイターたちも、みんなベストを尽くしてやってきたのに、結果が出ないこともあった。資質も努力も信念も、両者ともに遜色ない。でも結果が変わる。それはまさに紙一重の差だったりする。運かもしれない。勢いかもしれない。神様の微笑みかもしれない。でも、そういうことはある。
では、負けたから敗者なのかといえば、そうではないんです。重要なのは、勝負の直前までどれだけ魂を込めて日々を送れたか、ということです。自分が納得できるだけの練習をやることができ、強い自信が築けたかどうか。それがあるなら、きっとその先にプラスになる。間違いなく次に活きる。
よく子どもたちに「夢を持て」と言いますよね。多くの子どもは、サッカー選手や野球選手に憧れたりする。実際、夢を果たす子もいる。では、なれなかった子は脱落者なのか。勝者になれないのかといえば、それは絶対に違う。一途に夢を追いかけた過程は、次の夢や目標へとシフトチェンジしたときに反映されていくと思う。最初の夢を果たすことだけが重要ではありません。その夢に向かう時間を有意義に、有効に、懸命に生きたか。そうなら、ちゃんと次につながっていくんです。
これから社会に出る人は、40代、50代まで最もアグレッシブに生きていける年代に入ります。そして今は、実は最も大事な時期です。なぜなら、いい40代、50代のための土台を作る時期だから。ここで腐ったら、人生そのものが腐りかねない。つながっているからです。そして、この時代には二度と戻れません。絶対に引き返せないんです。
心身両面を充実させること。学生時代に培ってきたものをうまくシフトチェンジさせ、新しい夢や目標を持って日々を過ごすこと。ただし目一杯頑張っちゃダメですよ。時には上司と飲み、友だちとバカをやり、恋人と楽しく過ごす。そういう時間も上手に使う。。“濃い日々”をこそ、送ってほしいんです。

格闘家ならではの熱い言葉が、就職活動の応援歌になっています。
今日を懸命に生きた
積み重ねが、未来なんです。
高田延彦
1962年、神奈川県生まれ。1980年、新日本プロレス入門。数々の名勝負を繰り広げ、2002年11月引退。現在は、高田道場主宰として後進の育成を行っている。子ども向けレスリング・ボクシング教室「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」を定期的に開催中。最近では、映画『シムソンズ』、大河ドラマ『風林火山』、TBS「パパとムスメの7日間」に出演するなど、枠を広げた活動を積極的に行っている。2008年には、自身初となるNHK朝の連続ドラマ『瞳』へ出演する。「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」開催情報4月20日(日)中京女子大学(愛知県)にて開催。
現役時代、戦う相手は世界最高峰のファイターでした。怖さはもちろんありますよ。特に試合が決まって、対戦相手が決まる直前が最も緊張する。でも、決まったら、違うスイッチが入るんです。そして、恐怖心を逆に自信に変えていく作業に入る。練習です。相手によっては、恐怖心はなかなか消えないこともある。でも、何ヵ月もかけて恐怖が捨て去れるまで練習する。今にも戦いたい。そう思えるまで。どんなファイターにも恐怖心は必ずあります。だからみんな、練習する。懸命にやる。世界一強いと言われる人もね。
小学校で憧れ、中学で入ると決め、17歳でようやく入門できたのが、プロレスの世界でした。練習の厳しさは相当に覚悟したつもりでしたが、実際にはそれをはるかに上回る厳しさでした。今も初めて練習した日のことを覚えています。すぐに辞めようと思いました。30キロも体重が上回る先輩に倒され、つぶされる。普通の練習ですら、このままでは殺される、と思いました。
練習所や合宿所の空気に、慣れるまでに時間がかかったのもつらかった。社会に出るというのは、何もかもが異次元なんです。得体の知れない世界だし、居心地もすこぶる悪い。これに慣れるには、どうしても時間がかかる。いつでも辞められたし、逃げるチャンスもあった。でも、そうはしませんでした。憧れていたアントニオ猪木さんのすぐ近くでプロレスができるチャンスを神様がくれた。この場所にしがみついて、とにかく頑張るべきだと思った。昔の人はいいことを言っていると思いました。石の上にも3年。まさにその通りでした。3年は頑張らないとわからないことがたくさんありましたから。
毎日が濃密でしたね。猪木さんの付き人もし、雑用もし、練習もする。落ち込んでる暇なんてなかった。若い頃に身につけたものは、身体に染みこんでいくんです。そして、後で大いに役に立った。もちろん楽しい、うれしいこともあります。いろんなものがかみあって、すごくいい一瞬が得られたりすることもある。でも、楽しいこと、幸せなことというのは、基本的には連続しないものなんです。95%は苦しいことがほとんど。でも、だからこそ一瞬でもいいことがあれば、喜びは大きいんですね。わずかな喜びでも次への大きなエネルギーにできるんです。
大きな試合で勝ったり、イベントがうまくいったりすると思い切り喜ぶようにしていました。でも、翌ロには切り替える。もう、それは過去のものだから。過去をいつまでも喜んでも仕方がありません。やるべきは、次の喜びのために走り出すことなんですから。20代は、人生の土台を築く本当に大事な時期。未来のことは、ほとんど考えたことがなかったですね。現役時代に頭にあったのは、40歳で辞めざるを得ないような生き方をしたいということだけ。もうこれ以上はできない。引退せざるを得ない。そう自分で思いたい、と。
ほかのことは考えませんでした。だって、未来のことなんて誰にもわからないでしょう。考えたところで、わかるはずはない。大事なことは、それをポジティブに受け止めることです。未来を考えるより大事なことは、今を考えること。今日をベストに生きた積み重ねが、未来なんです。先の計算をしたところで、その通りになるはずがない。明日、死ぬかもしれない。何が起こるかわからない。それは否定できない。だったら今をベストに生きるしかない。
総合格闘技にしても、今いろんな仕事をさせていただいていることも、こうなろうと思ってできたことではありません。目の前のやるべきこと、やりたいことを一つひとつやってきた先にそれはあった。なかには、恐いもの見たさで挑んだものもある。やってうまくいかなかったものもある。でも、やらなければわからないことがたくさんありました。トライして踏み込んで気づくすばらしさもあった。
懸命に頑張ったのに、結果が伴わない。そういうこともあります。自分自身の人生を振り返ってみても、あるいは世界最高峰のファイターたちも、みんなベストを尽くしてやってきたのに、結果が出ないこともあった。資質も努力も信念も、両者ともに遜色ない。でも結果が変わる。それはまさに紙一重の差だったりする。運かもしれない。勢いかもしれない。神様の微笑みかもしれない。でも、そういうことはある。
では、負けたから敗者なのかといえば、そうではないんです。重要なのは、勝負の直前までどれだけ魂を込めて日々を送れたか、ということです。自分が納得できるだけの練習をやることができ、強い自信が築けたかどうか。それがあるなら、きっとその先にプラスになる。間違いなく次に活きる。
よく子どもたちに「夢を持て」と言いますよね。多くの子どもは、サッカー選手や野球選手に憧れたりする。実際、夢を果たす子もいる。では、なれなかった子は脱落者なのか。勝者になれないのかといえば、それは絶対に違う。一途に夢を追いかけた過程は、次の夢や目標へとシフトチェンジしたときに反映されていくと思う。最初の夢を果たすことだけが重要ではありません。その夢に向かう時間を有意義に、有効に、懸命に生きたか。そうなら、ちゃんと次につながっていくんです。
これから社会に出る人は、40代、50代まで最もアグレッシブに生きていける年代に入ります。そして今は、実は最も大事な時期です。なぜなら、いい40代、50代のための土台を作る時期だから。ここで腐ったら、人生そのものが腐りかねない。つながっているからです。そして、この時代には二度と戻れません。絶対に引き返せないんです。
心身両面を充実させること。学生時代に培ってきたものをうまくシフトチェンジさせ、新しい夢や目標を持って日々を過ごすこと。ただし目一杯頑張っちゃダメですよ。時には上司と飲み、友だちとバカをやり、恋人と楽しく過ごす。そういう時間も上手に使う。。“濃い日々”をこそ、送ってほしいんです。
覚悟の言葉 ~悩める奴らよでてこいや! ~ (ワニブックスPLUS新書)
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高田 延彦
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2012年06月29日 (金)
かつて、ソニーのトップを努めた出井伸之氏の「仕事論」です。
出井氏が社長になった時、確か8人飛びとか言われた抜擢で、華やかさがイメージされていますが、実は係長試験に落ちたり、戦略部門への誘いを断り現場に張り付いていたとは新鮮ですね。
やはりリーダーとして活躍するためには、真の力を溜め込む期間が必要であり、内部環境と外部環境を把握しながら冷徹にそれを狙って動ける人間が本質的な勝利を収めるのだと思います。

花形には行かない。
あえて、日陰を選ぶ。
出井伸之
1937年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。60年、ソニー入社。外国部に配属。2度のスイス赴任の後、68年にフランス赴任、ソニーフランス設立に従事。オーディオ事業本部長、89年取締役を経て、95年から2005年まで社長、会長兼グループCEO。06年、クオンタムリープ設立。ソニーアドバイザリーボード議長、アクセンチュア取締役、百度(Baidu)取締役も務める。多彩な趣味でも知られ、ゴルフ、オペラ、ワインなどを究める。近著に「日本進化論」。
報道などで聞くところによれば、また安定志向が高まっているようですね。勤めた会社にできれば一生いたい、と。僕は今もグローバルビジネスの世界に身を置いていますが、これは驚くべきことです。今は大企業でも、30年後に何社残っているか、というのが、世界のまっとうな感覚だから。しかも今は時代の変革期。かつての花形産業が廃れ、日本一の人気を誇った会社が再生を余儀なくされるような事態が、最も起こりやすい時代にこれから入っていくんです。安定志向が悪いとは言わない。でも、世界の感覚と大きくずれていることは知っておいたほうがいい。
そもそも日本の大企業というのは、多くはグローバル企業でもある。売上高の半分以上は海外、という企業も少なくない。これから生き残ろうとすれば、グローバルのルールで戦わねばならない。ホールディングカンパニーは日本に置かれないかもしれない。外国で採用された優秀な人たちが第一線を、経営を担うかもしれない。日本市場は注目されないかもしれない。そういう動きはもうすでに顕著になりつつある。大企業で働くには、グローバル企業で働く能力が必要になるんです。
だから、むしろ大切なのは、一人ベンチャーのような意識です。安定志向の逆なんです。会社は自分を成長させるプラットフォームとして使う。実際、僕はそう思ってた。だから、表の会社の仕事とは別に、バックグラウンドで自分の仕事を常に持っていました。例えば、20代の僕には北欧で営業するミッションがあった。これは表の仕事。一方で自分の仕事は、この先10年ヨーロッパが本質的にどう変化していくか、EUが何をもたらすかを調べること。フィナンシャルタイムズを丹念に見て、ヨーロッパ内の会社の統合の記事を集める。各国の特色を追いかける。誰に言われたわけでもない。こういう自分の仕事こそ、後に生きるんです。実際、ソニー・エリクソン誕生をすばやく決断できたのは、ヨーロッパについての知識という財産があったからでした。
自分のキャリアを作るのは、実は自分しかいないんです。歯車になんかなったら、おしまい。あくまで自分を中心に考えていくことが大切。それこそ会社から与えられたことにただ文句を言っているなんて、三流のやることです。
出世の早さ遅さなんて人生では誤差の範囲
僕は大学でヨーロッパ経済を学び、ヨーロッパで伸びそうなメーカーに行こうと思っていました。当時のソニーはまだ小さな会社で、本社はまだ木造の建物でした。調べてみると、人材はいない。経営戦略はアメリカに向いているという。でも、僕はチャンスだと思った。逆張りで発想したんです。
社長になったとき、多くの人は僕が花形の道を歩んできたと思ったようです。でも違う。むしろ逆です。僕の経歴は花形でも王道でもない。だから、もし社長を目指したいという人がいれば、こう言いますね。人の嫌がることをやりなさい、と。そういうところで地道に働く。人の3倍働く仕事を選ぶ。
僕は、そういうことを自然にやっていたんです。会社は、どれだけほかと違うことをやるかが勝負。みんながやりたがることだけをやっていたら、会社は沈むしかない。新しいこと、嫌なことに誰かが挑まないといけない。10年間ずっと花形にいた人と、修羅場に揉まれた人と、どっちが力がついているか。
配属や異動は思い通りにはならないと思っているかもしれませんが、人事はよく見ています。僕はまずヨーロッパで活躍することを目標のベースに、ひとつの部門を3年、そこでとことんノウハウを吸収して次に行く、と常に考えていました。こういう意志は、人事にも自然に伝わっていくんです。
ソニーの4代目社長になった岩間和夫社長さんは、僕のことをとても買ってくれた人でした。彼が社長のとき、本社の戦略部門に来いと言われたことがあったんです。でも、僕は断わった。まわりからはずいぶん怒られましたけどね(笑)。実は自分は戦略部門に向いていると思っていました。実際、いつもソニーという会社が数年後にどうなっていくかを自分で考えていた。でも、若い頃に戦略部門なんて行ったら威張っちゃってロクなことにならないと思ったんです。むしろコストと値付けに関わる現場にいるべきだと。それがメーカーの本質だと思ったから。
事業部長になったのは、当時不況業種の指定を受けていたオーディオ事業部でした。調子の悪い部門に配属になるとガッカリする人もいる。でも、僕は違った。むしろ思い切ってやれるんです。花形部門は、社内のしがらみも多い。しかも、90点の人が95点の人に怒られるような世界。トップになんてなかなかなれない。それより小さな部門でもトップのほうが、自信もつく。
実際、僕は大胆な改革と再生に挑みました。すると、次から次に社内の事業再生の話が僕に持ち込まれた。大変な仕事ですよ、再生は。でも僕は自分なりに一生懸命にやった。これが、ものすごく貴重な経験になったんです。
社長になるなんて、実は思ったこともなかった。出世も遅かったんですよ。係長試験には落ちてるし、課長昇進は上司に忘れられていたし(笑)。でも、僕はまったく気にしていませんでした。そんなものは、長い人生のなかでは誤差みたいなものだから。それよりも、やるべきことをきちんとやるべきだと思ってた。自分で目標を持ち、常に成長を心がける。人と同じでなく、できるだけ違う視点で物事を考える。自分の利益のためではなく、会社の利益のために発想し、発言する。そしてもちろんよく遊ぶ。20代、30代は、よく六本木に出没していましたからね(笑)。
経営者は、オーケストラの指揮者に似ています。でも、譜面はない。あちこちの声に耳を澄まし、自分でタクトを振らないといけない。それができるだけの、力がいるんです。苦手なこと、嫌なこと、アンビシャスなことにあえて挑むことです。それは結果的に、大きな力をもたらしてくれます。

出井氏が社長になった時、確か8人飛びとか言われた抜擢で、華やかさがイメージされていますが、実は係長試験に落ちたり、戦略部門への誘いを断り現場に張り付いていたとは新鮮ですね。
やはりリーダーとして活躍するためには、真の力を溜め込む期間が必要であり、内部環境と外部環境を把握しながら冷徹にそれを狙って動ける人間が本質的な勝利を収めるのだと思います。
花形には行かない。
あえて、日陰を選ぶ。
出井伸之
1937年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。60年、ソニー入社。外国部に配属。2度のスイス赴任の後、68年にフランス赴任、ソニーフランス設立に従事。オーディオ事業本部長、89年取締役を経て、95年から2005年まで社長、会長兼グループCEO。06年、クオンタムリープ設立。ソニーアドバイザリーボード議長、アクセンチュア取締役、百度(Baidu)取締役も務める。多彩な趣味でも知られ、ゴルフ、オペラ、ワインなどを究める。近著に「日本進化論」。
報道などで聞くところによれば、また安定志向が高まっているようですね。勤めた会社にできれば一生いたい、と。僕は今もグローバルビジネスの世界に身を置いていますが、これは驚くべきことです。今は大企業でも、30年後に何社残っているか、というのが、世界のまっとうな感覚だから。しかも今は時代の変革期。かつての花形産業が廃れ、日本一の人気を誇った会社が再生を余儀なくされるような事態が、最も起こりやすい時代にこれから入っていくんです。安定志向が悪いとは言わない。でも、世界の感覚と大きくずれていることは知っておいたほうがいい。
そもそも日本の大企業というのは、多くはグローバル企業でもある。売上高の半分以上は海外、という企業も少なくない。これから生き残ろうとすれば、グローバルのルールで戦わねばならない。ホールディングカンパニーは日本に置かれないかもしれない。外国で採用された優秀な人たちが第一線を、経営を担うかもしれない。日本市場は注目されないかもしれない。そういう動きはもうすでに顕著になりつつある。大企業で働くには、グローバル企業で働く能力が必要になるんです。
だから、むしろ大切なのは、一人ベンチャーのような意識です。安定志向の逆なんです。会社は自分を成長させるプラットフォームとして使う。実際、僕はそう思ってた。だから、表の会社の仕事とは別に、バックグラウンドで自分の仕事を常に持っていました。例えば、20代の僕には北欧で営業するミッションがあった。これは表の仕事。一方で自分の仕事は、この先10年ヨーロッパが本質的にどう変化していくか、EUが何をもたらすかを調べること。フィナンシャルタイムズを丹念に見て、ヨーロッパ内の会社の統合の記事を集める。各国の特色を追いかける。誰に言われたわけでもない。こういう自分の仕事こそ、後に生きるんです。実際、ソニー・エリクソン誕生をすばやく決断できたのは、ヨーロッパについての知識という財産があったからでした。
自分のキャリアを作るのは、実は自分しかいないんです。歯車になんかなったら、おしまい。あくまで自分を中心に考えていくことが大切。それこそ会社から与えられたことにただ文句を言っているなんて、三流のやることです。
出世の早さ遅さなんて人生では誤差の範囲
僕は大学でヨーロッパ経済を学び、ヨーロッパで伸びそうなメーカーに行こうと思っていました。当時のソニーはまだ小さな会社で、本社はまだ木造の建物でした。調べてみると、人材はいない。経営戦略はアメリカに向いているという。でも、僕はチャンスだと思った。逆張りで発想したんです。
社長になったとき、多くの人は僕が花形の道を歩んできたと思ったようです。でも違う。むしろ逆です。僕の経歴は花形でも王道でもない。だから、もし社長を目指したいという人がいれば、こう言いますね。人の嫌がることをやりなさい、と。そういうところで地道に働く。人の3倍働く仕事を選ぶ。
僕は、そういうことを自然にやっていたんです。会社は、どれだけほかと違うことをやるかが勝負。みんながやりたがることだけをやっていたら、会社は沈むしかない。新しいこと、嫌なことに誰かが挑まないといけない。10年間ずっと花形にいた人と、修羅場に揉まれた人と、どっちが力がついているか。
配属や異動は思い通りにはならないと思っているかもしれませんが、人事はよく見ています。僕はまずヨーロッパで活躍することを目標のベースに、ひとつの部門を3年、そこでとことんノウハウを吸収して次に行く、と常に考えていました。こういう意志は、人事にも自然に伝わっていくんです。
ソニーの4代目社長になった岩間和夫社長さんは、僕のことをとても買ってくれた人でした。彼が社長のとき、本社の戦略部門に来いと言われたことがあったんです。でも、僕は断わった。まわりからはずいぶん怒られましたけどね(笑)。実は自分は戦略部門に向いていると思っていました。実際、いつもソニーという会社が数年後にどうなっていくかを自分で考えていた。でも、若い頃に戦略部門なんて行ったら威張っちゃってロクなことにならないと思ったんです。むしろコストと値付けに関わる現場にいるべきだと。それがメーカーの本質だと思ったから。
事業部長になったのは、当時不況業種の指定を受けていたオーディオ事業部でした。調子の悪い部門に配属になるとガッカリする人もいる。でも、僕は違った。むしろ思い切ってやれるんです。花形部門は、社内のしがらみも多い。しかも、90点の人が95点の人に怒られるような世界。トップになんてなかなかなれない。それより小さな部門でもトップのほうが、自信もつく。
実際、僕は大胆な改革と再生に挑みました。すると、次から次に社内の事業再生の話が僕に持ち込まれた。大変な仕事ですよ、再生は。でも僕は自分なりに一生懸命にやった。これが、ものすごく貴重な経験になったんです。
社長になるなんて、実は思ったこともなかった。出世も遅かったんですよ。係長試験には落ちてるし、課長昇進は上司に忘れられていたし(笑)。でも、僕はまったく気にしていませんでした。そんなものは、長い人生のなかでは誤差みたいなものだから。それよりも、やるべきことをきちんとやるべきだと思ってた。自分で目標を持ち、常に成長を心がける。人と同じでなく、できるだけ違う視点で物事を考える。自分の利益のためではなく、会社の利益のために発想し、発言する。そしてもちろんよく遊ぶ。20代、30代は、よく六本木に出没していましたからね(笑)。
経営者は、オーケストラの指揮者に似ています。でも、譜面はない。あちこちの声に耳を澄まし、自分でタクトを振らないといけない。それができるだけの、力がいるんです。苦手なこと、嫌なこと、アンビシャスなことにあえて挑むことです。それは結果的に、大きな力をもたらしてくれます。
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2012年06月28日 (木)
今回は、『宣伝会議』編集長の田中里沙さんです。
仕事というものとの向き合い方について、自分の経験に裏付けされたメッセージ満載です。
好むと好まざるに関わらず、仕事は人生の中で占める割合が大きいので、仕事がうまくいくかどうかは人生の幸せと直結するほど重要ですね。

お天道様はどこかで見ている。
本当だと思いました。
田中里沙
1966年、三重県生まれ。学習院大学文学部卒業後、広告会社に入社。93年、同社が経営を引き継いだ、株式会社宣伝会議に転籍。「宣伝会議」編集部を経て、95年に副編集長、96年から編集長。03年からは「環境会議」「人間会議」編集長を兼任。07年から編集室長。企業の広告賞審査員、日本広報協会広報アドバイザー、各種コンクールなどの審査員、政府系委員会の委員など多数歴任。情報系テレビ番組のコメンテーターとしてもお馴染み。5歳児の母。
就活はものすごく楽しかったですね。さまざまな会社を訪問できて、中にも入れるチャンスなんて、なかなかないじゃないですか。業界を知れば、新しい発見になる。だから30社は受けました。景気も良く、企業が採用に積極的な時代もあって、銀行、百貨店など4つの大企業から内定をもらいました。でも、行かなかった。
大学時代、夏休みにインターンシップで行った広告会社がありました。社員100名程度ながら、社員の人が生き生きしていて印象的でした。就職が決まり、挨拶に行ったら、「うちにきませんか?」と声をかけられて。多岐にわたる業種、会社がお客様なので、いろんな人に会える。まるで、就活みたいに毎日いろんな発見ができるんじゃないか。そう思ったんです。
子どもの頃から、趣味も特技もありませんでした。自分はこれがやりたい、なんて描けなくて。だから、たくさんの情報が幅広く入ってくる仕事に就けば、これからの人生にプラスになるんじゃないかと思いました。未来はまったく未知数の会社だし、それならウルトラCもあるかもしれないし(笑)。完璧にできあかっている会社よりも、企業の成長と、自分の成長が一致して進む環境は、人生において貴重なことではないかという思いがありました。
入社して最初に担当したのは、制作のお手伝い。2年目には総務系の部門に配属になりました。広告会社に入ったのに総務?とは思いませんでしたね。会社の中枢にいて、どんな人が経営に関わってくるのか、見るのも面白かったから。それこそお茶を出しながら、「ふーん、こういう人たちが会社幹部なんだ」なんて思ったり。役員に頼まれて本を買いに行くと、「経営陣って、こんな本を読むんだ」と感心したり。
それから入社4年目になって、当時「宣伝会議」を発行していた会社の経営を、私がいた広告会社が引き受けることになったんです。そして後に、私はそこに転籍することになります。これも、偶然のストーリーがありましてね。いきなり始まった編集の仕事。驚くような忙しさが私にも伝わってきて、当時の「宣伝会議」編集長にお茶を出したりして「何かお手伝いしましょうか」と申し出たら、次から次へと仕事が(笑)。結局、そのまま編集部へ。
転籍はひとつの決断でしたが、「やってみないか」と声をかけていただいたことが私には大切なことでした。自分より人生経験の長い人がそう言うのだから、まずは素直に聞いてみようと。人の期待に応えることに生き甲斐を感じる方だったので。そうすることで相手も発展するし、自分も発展できる。多くの人のプラスになるなら、それは幸せなことだ、と思って。
あれもこれも、なんて無理。優先順位をつける
編集部でも最初はアシスタントから始まり、半年ほどで初めて自分の企画を担当したんです。企画は“広告の仕事を支える職人さん”。楽しかったですね。名刺1枚で誰にでも会いに行ける。特別な場所にも入れる。メディアってすごいと思いました。
でも企画がどんどん浮かぶわけではない。だから、取材に行ったりすると、いろんな人から教えてもらっていました。こんなことを考えているんですけど、とか、この構成で欠けてるところはないですか、とか。今考えると、なんとも図々しい編集者でした(笑)。でも、大量の資料を貸してくださる方もいらっしゃったりして。本当にたくさんの方に可愛がっていただきました。ある方とは、15年後にテレビ番組の審査委員席でご一緒しまして。「あの頃はどうなるかと心配していたけれど、よく今日まで成長したね」と言っていただいて。このときは、本当にうれしかった。
思い返せば仕事の基本は、取材で教わった気がします。例えば、有名な宣伝部長、デザイナーやコピーライターの方。最先端のマーケター、クリエイターだし、きっと気むずかしい方が出てくるんだろうな、なんて最初は思っていたんです。ところが、むしろみなさん、自分よりも、人のことが優先なんです。どうすれば人を喜ばせることができるか。どうすれば人を幸せにできるか。ご一緒して、こういう意識こそ仕事の基本だと思うようになりました。
会社の上司や先輩からも、たくさんの貴重なことを学びました。会社にいる時間が一番長い。だから、この時間をいかに過ごすかで人生の充実感は変わる。“今こんな仕事をやっていて大丈夫なのか”と迷うより、とにかく目の前の仕事を確実にこなすことが自分の将来の資産になると信じる。
とはいえ、きっちりプライベートも遊んでいたんですよ(笑)。アフター5は大忙し。だから、早く仕事を終えないといけなくて。一生懸命早くやっていたら、早く終わるからとどんどん仕事がやってきてしまって(笑)。でも、せっかく与えてもらったのだからと頑張っているうちに、副編集長に、さらには編集長に、とポジションも上がっていったんです。昔から、お天道様はどこかで見ている、といつも思っていました。頑張っていれば見てくれている人がいると。それは本当でした。
あまり考えすぎないことも、重要だと思っています。例えば女性は、結婚や出産のことを想像して、直面してもいない不安について、早くから考えてしまったりする。でも、考えたところでどうなるわけでもありません。そのときになって、選択すればいいんです。
あとは優先順位を付けること。あれもこれもそれも、なんてことは無理。人はトータルでバランスを取っています。なのに、自分には何かが足りない、なんてつい思ってしまう。他人の芝生は永遠に青く見えるもの。自分で価値の基準を作ることが大切です。
そしてもうひとつ、仕事の悩みは仕事で解決すること。仕事でうまくいかないからと、趣味や恋愛に逃げると、こっちにも悪影響が及びます。それぞれを、それぞれの枠組みの中で解決する。そうすると、軸はぶれずに、いろんな顔を持つ、幅のある人になれるんです。

仕事というものとの向き合い方について、自分の経験に裏付けされたメッセージ満載です。
好むと好まざるに関わらず、仕事は人生の中で占める割合が大きいので、仕事がうまくいくかどうかは人生の幸せと直結するほど重要ですね。
お天道様はどこかで見ている。
本当だと思いました。
田中里沙
1966年、三重県生まれ。学習院大学文学部卒業後、広告会社に入社。93年、同社が経営を引き継いだ、株式会社宣伝会議に転籍。「宣伝会議」編集部を経て、95年に副編集長、96年から編集長。03年からは「環境会議」「人間会議」編集長を兼任。07年から編集室長。企業の広告賞審査員、日本広報協会広報アドバイザー、各種コンクールなどの審査員、政府系委員会の委員など多数歴任。情報系テレビ番組のコメンテーターとしてもお馴染み。5歳児の母。
就活はものすごく楽しかったですね。さまざまな会社を訪問できて、中にも入れるチャンスなんて、なかなかないじゃないですか。業界を知れば、新しい発見になる。だから30社は受けました。景気も良く、企業が採用に積極的な時代もあって、銀行、百貨店など4つの大企業から内定をもらいました。でも、行かなかった。
大学時代、夏休みにインターンシップで行った広告会社がありました。社員100名程度ながら、社員の人が生き生きしていて印象的でした。就職が決まり、挨拶に行ったら、「うちにきませんか?」と声をかけられて。多岐にわたる業種、会社がお客様なので、いろんな人に会える。まるで、就活みたいに毎日いろんな発見ができるんじゃないか。そう思ったんです。
子どもの頃から、趣味も特技もありませんでした。自分はこれがやりたい、なんて描けなくて。だから、たくさんの情報が幅広く入ってくる仕事に就けば、これからの人生にプラスになるんじゃないかと思いました。未来はまったく未知数の会社だし、それならウルトラCもあるかもしれないし(笑)。完璧にできあかっている会社よりも、企業の成長と、自分の成長が一致して進む環境は、人生において貴重なことではないかという思いがありました。
入社して最初に担当したのは、制作のお手伝い。2年目には総務系の部門に配属になりました。広告会社に入ったのに総務?とは思いませんでしたね。会社の中枢にいて、どんな人が経営に関わってくるのか、見るのも面白かったから。それこそお茶を出しながら、「ふーん、こういう人たちが会社幹部なんだ」なんて思ったり。役員に頼まれて本を買いに行くと、「経営陣って、こんな本を読むんだ」と感心したり。
それから入社4年目になって、当時「宣伝会議」を発行していた会社の経営を、私がいた広告会社が引き受けることになったんです。そして後に、私はそこに転籍することになります。これも、偶然のストーリーがありましてね。いきなり始まった編集の仕事。驚くような忙しさが私にも伝わってきて、当時の「宣伝会議」編集長にお茶を出したりして「何かお手伝いしましょうか」と申し出たら、次から次へと仕事が(笑)。結局、そのまま編集部へ。
転籍はひとつの決断でしたが、「やってみないか」と声をかけていただいたことが私には大切なことでした。自分より人生経験の長い人がそう言うのだから、まずは素直に聞いてみようと。人の期待に応えることに生き甲斐を感じる方だったので。そうすることで相手も発展するし、自分も発展できる。多くの人のプラスになるなら、それは幸せなことだ、と思って。
あれもこれも、なんて無理。優先順位をつける
編集部でも最初はアシスタントから始まり、半年ほどで初めて自分の企画を担当したんです。企画は“広告の仕事を支える職人さん”。楽しかったですね。名刺1枚で誰にでも会いに行ける。特別な場所にも入れる。メディアってすごいと思いました。
でも企画がどんどん浮かぶわけではない。だから、取材に行ったりすると、いろんな人から教えてもらっていました。こんなことを考えているんですけど、とか、この構成で欠けてるところはないですか、とか。今考えると、なんとも図々しい編集者でした(笑)。でも、大量の資料を貸してくださる方もいらっしゃったりして。本当にたくさんの方に可愛がっていただきました。ある方とは、15年後にテレビ番組の審査委員席でご一緒しまして。「あの頃はどうなるかと心配していたけれど、よく今日まで成長したね」と言っていただいて。このときは、本当にうれしかった。
思い返せば仕事の基本は、取材で教わった気がします。例えば、有名な宣伝部長、デザイナーやコピーライターの方。最先端のマーケター、クリエイターだし、きっと気むずかしい方が出てくるんだろうな、なんて最初は思っていたんです。ところが、むしろみなさん、自分よりも、人のことが優先なんです。どうすれば人を喜ばせることができるか。どうすれば人を幸せにできるか。ご一緒して、こういう意識こそ仕事の基本だと思うようになりました。
会社の上司や先輩からも、たくさんの貴重なことを学びました。会社にいる時間が一番長い。だから、この時間をいかに過ごすかで人生の充実感は変わる。“今こんな仕事をやっていて大丈夫なのか”と迷うより、とにかく目の前の仕事を確実にこなすことが自分の将来の資産になると信じる。
とはいえ、きっちりプライベートも遊んでいたんですよ(笑)。アフター5は大忙し。だから、早く仕事を終えないといけなくて。一生懸命早くやっていたら、早く終わるからとどんどん仕事がやってきてしまって(笑)。でも、せっかく与えてもらったのだからと頑張っているうちに、副編集長に、さらには編集長に、とポジションも上がっていったんです。昔から、お天道様はどこかで見ている、といつも思っていました。頑張っていれば見てくれている人がいると。それは本当でした。
あまり考えすぎないことも、重要だと思っています。例えば女性は、結婚や出産のことを想像して、直面してもいない不安について、早くから考えてしまったりする。でも、考えたところでどうなるわけでもありません。そのときになって、選択すればいいんです。
あとは優先順位を付けること。あれもこれもそれも、なんてことは無理。人はトータルでバランスを取っています。なのに、自分には何かが足りない、なんてつい思ってしまう。他人の芝生は永遠に青く見えるもの。自分で価値の基準を作ることが大切です。
そしてもうひとつ、仕事の悩みは仕事で解決すること。仕事でうまくいかないからと、趣味や恋愛に逃げると、こっちにも悪影響が及びます。それぞれを、それぞれの枠組みの中で解決する。そうすると、軸はぶれずに、いろんな顔を持つ、幅のある人になれるんです。