| 十牛図● その8 人牛倶忘 |
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頌
紅炉焔上 此に到って |
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十牛図は何度も申し上げている通り、迷っている我々(人)が本来の自己或いは真の自己(牛)を求め、探し、発見し、把え、それを慣らして次第に云うことを聞くようにしていく……という修行の過程を示したものであるが、第八人牛倶忘の段階に来ると、その求めている自分(人)も求める対象の本来の自己(牛)も全く無かったという事実がわかったというのである。 道元禅師が天童如浄禅師のところで「参禅は身心脱落なり」という如浄禅師のお言葉を聞いて大悟し、「身心脱落し来る」とその見解を述べられた事実がそれである。自己を忘じ、他己を忘じ一切を忘じて只一円相のみで中味無し。これが人牛倶忘位である。 そこに至る道筋は「有仏の処に遊ばず、無仏の処も急に走過する」ことが大切である。有仏の処に遊ぶとは、仏とか悟とか有難そうな処に気まゝに遊び楽しむということで、見性とか大悟徹底とか印可証明だとか大事了畢だとかいうことが、一寸でも頭にある間は本物ではないということである。ところがそんな有難そうなものは全く気にかゝらなくなった、というのが無仏の処に当るのであるが、それも頭にあったり、鼻にかけたりしていてはいけない。そこも急に走り過ぎなければいけない。 第七忘牛存人位では自己意識が残るということを申し上げたが、これはこの無仏の処に腰掛けていたからである。こゝを通り過ぎてはじめて「誰もいない、何にも無い世界」が明々瞭々となるのである。 さて有仏と無仏の両端を去ってみると、お釈迦様や文殊様のように先を見透せる方でも、この人の境地を窺い知ることはできない。それは何故かと云うと、こちらに何も無いからである。禅は体験によってこの何も無い世界をはっきり掴むことが基本である。従ってこの体験が無い禅は観念禅であり禅の模型をもてあそんでいるに過ぎない。 それでは本当の体験をした人の生活はどうなるのであろうか。それを実例で見ることにしよう。昔中国に牛頭法融(ごずほうゆう)禅師という方がおられた。大変徳の高い方で近所の人々は心から尊敬し遂に鳥までがその徳を讃(たた)えて花を啣ばんできて供養するようになった。後に四祖破頭(ず)道信禅師に師事して大悟してからは、鳥が花を持って来なくなったということである。人からあの人は立派な人だ、偉い人だと思われる間は本物ではない。本当に悟った人は少しも偉そうに見えなくなるのである。法融禅師の処に鳥が来なくなったのは、法融禅師がどこにも居ない人となったので、鳥に見えなくなってしまったからである。 それでは廓庵(かくあん)禅師の頌を拝見しよう。 ● 盛んに鞭を使い縄でしばりながら、本来の自己を求めて刻苦勉励してきた。 到ってみるとその鞭(むち)も索(なわ)も人も牛も全く中味カラッポだった。 何も無い誰も居ないという世界である。 ● 碧天(へきてん)は青く澄んだ空。それは寥廓(りょうかく)すなわち広々としてカラッとしている。 中味カラッポの真の事実、真の自己の世界を示している。中味カラッポだから信通じ難しで音信の通じようがない。 だが実は中味カラッポ即ち空、と元々通じていたということである。 ● 紅炉焔上 紅炉は溶鉱炉であって、真紅の焔が燃えて真赤に灼けた溶鉱炉は、何を持ってきても溶かしてしまう。 まして況んや雪なぞは一瞬のうちに蒸発してしまって跡方も無い。何を云っているのかというと、空と云う真の事実は溶鉱炉のように燃えており、一切の分別(雪)の入る余地は無いということである。 ● 此に到って この境地に到って漸く仏祖の精神に叶うこととなる。逆に云えばこゝまで来なければ、 本当の禅を修行したことにならないということである。この体験があって始めて生死問題が解決し自己の安心を得ることができるのである。 しかし修行の階梯では未だ第八段階であり、もう一段の修練が必要である。 |