十牛図● その7
忘牛存人
その7 忘牛存人 十牛図 序その7


牛に()って已に家山に到ることを得たり。

牛も()(くう)じ人も也た(かん)なり。

紅日三竿(なお)夢を()す。

鞭縄(べんじょう)空しく(さしお)く草堂の間。

   仏道修行の階梯もいよいよ第七段階の忘牛存人位となった。牛とは云うまでもなく、本来の自己とも真の自己とも呼ばれ、皆さんが探している「無字」そのものである。この牛を忘(ぼう)ずる段階であるが、牛を忘ずるとはどういうことであろうか。

   我々はこの牛を求めて修行を始めたわけである。そしてこの牛を発見し(見牛)、手に入れ(得牛)、この牛ならしをし(牧牛)、漸く少しは云うことを聞く(騎牛帰家)修練を続けてきた。この過程の中では、沢山の公案に参じ、公案が通ったといっては喜び,通らないといっては悩み苦しんできたわけである。

 こうして真の自己(牛)を求め求めて徹底追究していくと、その求める自己が全く無くなって、真の自己ばかりと云いたいが、その真の自己も意識に全く上らない世界に入り行く。まさに眼に礙(さ)ゆる雲の端もない完全に自己を忘じた世界である。

   この世界を譬えて云うと、丁度鉱石の中から純金を採り出したように、全く純粋であり無垢である。全宇宙が純金ばかりで、採り出した鉱石も、掘り出す為の道具も一切無いという状態である。また丁度月が雲を離れて、満天の空に皓々と照り輝いているように、全世界が月ばかりで雲は全く無い世界である。中味カラッポの世界の壮絶さは筆舌に盡くし難いものであって、実体験によってのみ味わえる世界である。ここに至れば、今まで苦労して工夫してきた公案は全く不要なもの(閑家具)となる。

   だがしかし向上更に向上の有る在りであって、この中味カラッポの世界のみであるという自己意識の滓が残るのである。これが存人位といわれるゆえんである。山田耕雲老師も次のようにご自分の体験を延べられておられる。

「私の体験で云いますと、まず見性して一週間位は身体がぶるぶる震えるような感じでしたが、魚が水の中を泳ぐようにさらさら何の障害もなく生活ができて非常に自由で嬉しいものです。しかしそれは長く続かない。十日、一ケ月と経つうちに、やはり自分というものが出てくるのです。それはエゴイスティックな所謂自我意識というより自己意識です。自己を意識する。それが残る。」

   私の場合も公案が閑家具であるとわかって、暫く公案工夫が全く馬鹿らしく思う自分がそこにいるという自己意識が相当長い間続いたことを記憶している。これは未だ本物ではないのである。


   それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。



牛に()って已に家山に到ることを得たり。

   第六騎牛帰家位の頌では「牛に騎っていりとして家に還らんと欲す。」とあって、家に帰ろうとしているが帰れないという意味が「欲す」の中に含まれていた。それは何故かというと、その牛を眺めている自分がいるからだと申し上げたが、この眺めている自分を粉砕してみると、已に家山に到っていることが本当に手に入ったというのである。一度自己を徹底忘じた体験が如何に大切かを味わっていただきたい。

牛も()(くう)じ人も也た(かん)なり。

   求むべき牛(本来の自己)も求める人も全くカラッポで実体が無いことがわかって、その求むべき牛と求める人が全く一つになった境地である。「求心止むとき全体現ず」と云うのであろうか。誰も居ない何にも無い世界が明々白々と現前している。これを「絶学無為の閑道人」にあらずして何と呼ぶのであろうか。

紅日三竿(なお)夢を()す。

   すっかり大ビマがあいたので、真っ赤に輝く太陽(紅日)が竿を三本継いだ位高く上っても、未だ夢うつつで寝ていることができるということで、まさに天下太平の境涯である。

鞭縄(べんじょう)空しく(さしお)く草堂の間。

   従って牛を調教する鞭や縄も、すっかり用無しとなってしまって、ペンペン草が生えているような小屋の片隅に放ったらかしにしてある。嘗っては一挙手一投足に鞭をあて縄をしばって修練したが、今はその必要が全く無くなった。だが油断することなかれ。その必要がなくなった自己を意識する自分がいる。


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