| 十牛図● その7 忘牛存人 |
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頌
| 牛に 牛も 紅日三竿 |
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仏道修行の階梯もいよいよ第七段階の忘牛存人位となった。牛とは云うまでもなく、本来の自己とも真の自己とも呼ばれ、皆さんが探している「無字」そのものである。この牛を忘(ぼう)ずる段階であるが、牛を忘ずるとはどういうことであろうか。
私の場合も公案が閑家具であるとわかって、暫く公案工夫が全く馬鹿らしく思う自分がそこにいるという自己意識が相当長い間続いたことを記憶している。これは未だ本物ではないのである。
● 牛に 第六騎牛帰家位の頌では「牛に騎っていりとして家に還らんと欲す。」とあって、家に帰ろうとしているが帰れないという意味が「欲す」の中に含まれていた。それは何故かというと、その牛を眺めている自分がいるからだと申し上げたが、この眺めている自分を粉砕してみると、已に家山に到っていることが本当に手に入ったというのである。一度自己を徹底忘じた体験が如何に大切かを味わっていただきたい。 ● 牛も 求むべき牛(本来の自己)も求める人も全くカラッポで実体が無いことがわかって、その求むべき牛と求める人が全く一つになった境地である。「求心止むとき全体現ず」と云うのであろうか。誰も居ない何にも無い世界が明々白々と現前している。これを「絶学無為の閑道人」にあらずして何と呼ぶのであろうか。 ● 紅日三竿 すっかり大ビマがあいたので、真っ赤に輝く太陽(紅日)が竿を三本継いだ位高く上っても、未だ夢うつつで寝ていることができるということで、まさに天下太平の境涯である。 ● 従って牛を調教する鞭や縄も、すっかり用無しとなってしまって、ペンペン草が生えているような小屋の片隅に放ったらかしにしてある。嘗っては一挙手一投足に鞭をあて縄をしばって修練したが、今はその必要が全く無くなった。だが油断することなかれ。その必要がなくなった自己を意識する自分がいる。 |