| 十牛図● その5 牧 牛 |
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頌
| 鞭策時々身を離れず。 恐らくは 相 |
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牧牛位とは真牛である本来の自己を、漸く得牛位で手に入れたものを、そこで安心せず必死になってそれを馴らして自分のものにしていく段階で、非常に大切な過程である。 真牛を掴える(得牛)ということは、前回述べたとおり、自分の心の実体が全くカラッポであること(人空)と同時に宇宙万物がそのままで全くカラッポであること(法空)を事実として掴むことであるが、このような悟りを開いたからといって、我々の観念・妄想が直ちに全くなくなるわけではない。何か一つの観念が一寸でも起きると、次から次へとその後に続く想念が出てきてとどまるところを知らない。特に得牛の体験がはっきりしている程、この世界を手に入れたことへの想念が忘れられず、次から次へとこの体験を鼻にかける思いに陥入りがちになる。そしてそれを自慢して、禅を吹聴したり、やたらと人の指導をしたがるような弊に陥入るのである。 このように次から次へと湧き出てくる想念・分別の本質は何か。勿論それはそのままで本来カラッポであって実体が無い。その事実に本当に安住することができれば、その一つ一つが真の自己そのものとなるのであるが、我々人間というものは、悲しいことに自分が体験したことにどうしても執着してそれを放さないという習性を持っている。特にそれが得牛という、普通の人では仲々手に入らない境地を得てみると、俺程すばらしい体験をしたものはいない。もしかするとお釈迦様以上の体験ではないかと、次から次へと思い上った想念が湧いてきてそれに執着し、遂にそれが新たな迷いの基となってしまうのである。 我々は常に主観・客観の二元対立の世界しか見えないが、客観界が現実にあるから「有る」という観念が出てくるのではない。「客観界が有る」と心に認識するから「有る」のであって原因は「心」に在るのが事実である。そこで得牛を体験した自分という心が生ずるため、その高慢さに対する境が生じてそれ相応の客観界が現れる結果となる。本来得牛の世界は、この客観界がカラッポ主観界もカラッポであって、有無の生ずる余地は全く無い。そこで常にこの世界に安住するためには、どうしても牛の鼻に通した綱をしっかり引きつけて、この牛が分別妄想の草を食べようとしたら「駄目、駄目」とどこまでも油断のない訓練調教が必要である。その具体的方法は、どこまでも「ムー」の一本槍である。これが悟後の修行であって、考えようによっては、悟る前の修行より数倍難しい。 それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。 ● 鞭策時々身を離れず。 牧牛位はどこまでも掴えた牛をならしていく血みどろの努力の時である。その為には、鞭も綱も片時も自分の身から離さないようにしなければならない。 ● 恐らくは さもないと、あの牛はきっと勝手に行きたいところへ飛んでいって、塵埃が一杯ある分別の世界に入ってしまうであろう。元居た居心地の良い俗界のみならず、得牛という悟の世界にも入りたがって、容易にそこから出てこなくなってしまう。 ● 相 相将いてとは、本当に真剣になって、飼い馴らしていくと、心が段々と柔らかくなって純粋になってくることである。この過程が非常に大切である。坐禅をして見性が許され、人が仲々体験できない得牛の位にまで来ると、何となく偉くなったような気がして、知らず知らずに慢心となってしまう。それを坐って坐って坐り抜くことによって、訓練調教していくと、心が段々柔くなり顔付きも柔和になり、言葉使いも荒々しいところが無くなってくる。こうならないと坐禅をした甲斐はない。 ● 段々牛がおとなしくなってくると、羈鎖(手綱や鎖)をつけておかなくても、自然にその牛は人についてくるようになる。というわけで、立っても坐っても、泣いても笑っても、ちゃんと本来の牛がどこにもいかないようになってくるのである。 |