| 十牛図● その2 見 跡 |
|
頌
| 水辺林下 芳草 遼天の |
|
見跡位とは牛の足跡を見つけた段階である。見跡とは一般的には、お経を読んでその意味を理解するとかお釈迦様はじめ歴代の祖師方の教えをいろいろ参究して、その体驗の内容を思想的にわかった段階を云う。すなわち牛の居ることを頭で理解した段階である。 しかし実地の修行においては、無字の拈提を一生懸命やっていくと、初めは自分と無字が別々であったものが、次第に軌道に乗ってきて無字の拈提が深くなり、自分と無字とが一つとなり、この調子でいけば自分も見性(けんしょう)できるに違いないという、一種の確信に似たものが出てくる。そこでなお一層無字の拈提に力が入ってくる。こうした段階が見跡位である。 さて牛の存在が思想的にわかるというのはどういうことかと言えば、色即是空すなわち天地萬物がすべて空であるという道理がわかったということである。この空性がわかると、天地萬物一切が自分だという、この道理もわかる。「天地と我と同根、万物と我と一体」と肇法師も云っているが、しかしこの道理がわかった自分がいる。この自分がいる限り、本当の空性も、「天地と我と一体」の本当の境地もわからない。 そこで色即是空の事実を自分自身で確かめる必要がある。それには只一つ。無字の拈提に全力を捧げ、只自己を忘じて無字ばかりという実践が必要である。この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。この実践と体驗が無い限り、それは観念禅であり思想禅あることを知らねばならない。 この観念禅・思想禅のトリコとなっている段階の人をひっくるめて見跡位の人と云うのである。禅を学問的に研究する人は、それがどんな精細な研究であっても、すべて禅の実践面からすると一括してこの見跡位の人と云う。 それでは廓庵禅師の頌を味わうことにしよう 。 ● 水辺林下 水辺にも林の下にも、至る所に牛の跡が見える。理論的には「色即是空、空即是色」であり、 「天地と我と同根、万物と我と一体」であるが、実践面では無字の拈提に当たって、 一單提一單提が全部牛の足跡である。 ● 芳草 香りの良い草が、そこら中に拡がり繁って風に吹かれているが、それが見えるかどうかと我々にせまっている。 天地万物の一つ一つが、そっくりそのまま眞の事実の丸出しであるが、それがわかるかどうか。 頭では一応わかるが、本当のことはわからんだろうなと云っている趣がある。 ● ムームーと本来の牛を追いかけていくと、その牛は追えば追う程、山又山と奥に入っていってしまう。 無字はそれを外に眺めて追いかけようとすると、どこ迄も遠くに行ってしまう。ここが非常に大切なところであって、 無字を外に眺めて追い求める拈提ではいけない。只々無字に成り切っていく拈提でなければいけない。 ● 遼天の だが一寸待って貰いたい。ムームーと一つ一つの牛の鼻面をつかむ拈提の一つ一つが、そのまま牛 (眞の自己)そのものではないか。それはどこにも蔵(かく)しようがない事実ではないか、と我々に警告している。 実地に着実に修行していくと、初めは何が何だかわからなかったものが、次第に坐禅の足の組み方手の 置き処、姿勢の保ち方から始まって、呼吸の整え方、無字の拈提の仕方がわかってくる。二月三月(ふたつきみつき) 乃至半年一年と続けていくと次第に心も落ち着いて、坐禅工夫の仕方自体が深まりを増してくる。そしてこの工夫を 続けていけば、自分も見性ができるに違いないという確信が湧いてきて、ますます熱心に坐禅に励むようになる。 思想的にも明確となって少々のことでは坐禅に対する信念はゆるがなくなってくる。体驗的には未だ本物の牛を つかまえてはいないが、坐禅修行の軌道は完全に敷かれた。これが見跡位の段階である。 |