| 十牛図● その1 尋 牛 |
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頌
水 力尽き 但だ聞く |
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十牛図の第一は尋牛位(牛を尋ねる位)で、いよいよ自己の本質・本来の自己(牛)を求めようとする心が起きた段階である。これを初発心(しょほっしん)と云うが、実に尊く美しい心である。この地球上に何十億という人々が生活しているが、自己の本質が完全円満・無限絶対であることを知る人はごく僅かである。ましてこの事実を悟り身につけている人はほとんどないと云っても過言でない。幸い我々は正伝の佛道にめぐり会って、この修行の第一歩を踏み出すことができた。何と美しく尊いことではないだろうか。
さて我々の本質が完全円満・無限絶対である事実をこの地球上で初めて悟ったのはお釈迦様である。 悟ってみると完全円満なる自己(牛)はどこにも行かない。元々身に備わっているのであるから追い求める必要はなかったと宣言されたのである。衆生本来佛とはこの事実を示したものである。 だが現実の我々はどうであろうか。どこが完全円満でどう無限絶対なのか皆目見当がつかない。 どう考えても不完全不十分で五十年か八十年のはかない命の有限相対の存在としか思えない。 それは何故かと云うと、本来の自己とはこれ何者ぞ!と追求しこれに目覚めること(覺)に背を向けて、 自分の外の客観界ばかり追い求めているから、ますます本来の自己と疎遠になってしまう。 この分別妄想の塵に向かうと、次から次へと分別妄想を追いかけて、限りなくその塵にまみれてしまって遂に本来の自己を全く見失ってしまう。坐禅をする人達が正に落ち入る誤りはこれである。何が見えても聞こえてきても頭に浮かんでも、一切相手にせずたゞ「無字」ばかりとなる実践的修練をせず、自分の外に無字があると思って、それを観念的に把えようとして、次から次へと頭に浮かぶ想念を追いかけてとゞまるところをしらない。そして求むべき無字(本来の自己)はどこかへ行ってしまう。從って何年経っても無字を手に入れることができない。 そして自分の古里の家や山(本来の自己)は遠く離れてしまって、もと来た路がわからなくなってしまう。 そこで帰ろうにも帰る路がわからなくなって岐路(わき路)へ入ってしまい、本来の自分とはますます違った方向に行ってしまう。どんなわき路かというと、利害得失の念がますます強くなって、その立場からあれが良くてこれが悪いと、強い批判の心が鋒(ほこさき)のように鋭く起きてくる。 物質的な世界では満足せず、何かしっかりした精神的基盤を確立しようとして、尋牛の位にたどりついたのであるが、坐禅の仕方を間違えると、忽ち岐路に入ってしまって却って坐禅をしない方がよかったという結果になってしまう。從って参禅に当っては正しい師匠を選ぶことが大切であるとともに、常に厳しい自己反省心を持って修行することが不可欠である。 それでは廓庵(かくあん)禅師の頌を味わうこととしよう ● 次から次と出てくる分別妄想の草を追い払おうとして一生懸命牛を追いかけて無字の拈提をする。 足は痛くなる膝もつまってくる。午後になると眠気も出てくる。経行(きんひん)で足をほぐし、 顔を洗って眠気をさます。気を取り直して、再び無字の拈提に挑戦する。 ● 水 どこまで行っても、川の水は広く續き、山並みは遥かに續いて、 これでよいというところに来ない。壁に向かってたゞ坐るだけ。 こんなことをしていて果たして人生問題の解決など出来るのであろうか。 思いは千々に乱れて深い路に入ってしまう。 ● 力尽き 体力も尽き果て、精神も疲れ果ててしまった。どうしてよいかわからない。 これ以上何をどうして求めればよいのであろうか。実地の修行をした人でなければこのような境地はわからない。 しかし実はこゝは大死(だいし)一番底(てい)と云って宝所(ほうじょ)近きにありと云える非常に大切な状態である。 ● 但だ聞く 夕方になる。楓の木で蝉が「ミーン・ ミーン」としきりに鳴いている。この声を聞くとこちらが泣きたくなる。 ああ!これで今日もまた空しく暮れようとしていると。幾度かこのような思いを経験しなければ、眞の自己を見出すことはできない。 |