廓庵禅師 十牛図

提 唱

窪 田 慈 雲



  十牛図はいわゆる牧牛図の一種で、我々の真の自己を牛に譬 えて、その牛を求め、捕まえ、馴らし、遂に求める自 分と牛とが全く一つとなり、それも忘れて只の生活が できる過程を画で示したものである。我々の修行の道程を 具象的に明示しているので、自分の修行を自ら点検し 策励の指標とするのに大変役立つものである。 そこでこの十牛図を参究することにより、常に皆様自 身の修行を自ら点検し、自分が今どの段階にあるかを 反省する指標として役立てて頂きたい。

  十牛図の作者廓庵師遠禅師は、大随元静禅師(1065〜1135)の法嗣で、臨済禅師より第十二代目 の法孫であるというだけで、生年寂年はじめその伝記 ははっきりしていない。十牛図は十枚の図のおの おのにまず廓庵禅師が「頌」をつけ、その後その弟子慈遠 (一説では廓庵自身とも廓庵の友人とも云われる)が 「総序」と頌の一つ一つに「小序」をつけたもの と云われている。

  さて、十牛図には童子と牛が描いてある。ここで 牛とは我々が求めている真の自己のことである。 この真の自己を観念や思想でなく、生きたまま捕まえ たいと切々たる思いの現象界の自分、それを童子で描 いている。この童子は何時も何かを求めている。お金が欲しい、地位が欲 しい、名誉が欲しい。だが人生はお金だけてはない。 地位だけでもない。又名誉だけでもないというわけで、 あの哲学この宗教と求め求めて、少しでも成長しよう 進歩しようと努めるようになる。中にはこの競争に負 けてノイローゼになり自殺まではかる人もいるが、 これは何かを求める心がマイナスに働いただけてあっ て、何時も何かを求める力があることに変わりはない。

  それでは何故人間はこのように何かを求めるのであろうか。禅の立場から云うと、それは人間が本 質において完全円満、無限絶対の実在(これを仏と云 い、本来成仏という)でありながら、現象としては不 完全きわまる、有限相対のはかない、いと罪深き存在 (これを凡夫と云い、衆生と云う)として現われてお り、しかも人間は生まれながらにしては、自分の完全 円満・無限絶対の本性(仏性)を知ることができない という現実から発生しているのである。

  十牛図はこの不完全・有限相対の自己(童子)が、 完全円満・無限絶対の自己の本性(牛)に目覚め、捕 まえ、馴らし、忘れ、完全に人格化する過程を具体的 に示したもので、まさに実践の指針であって、観念思想 の対象ではないことを銘記すべきである。そこで十牛 図の参究は実際に参禅し、足の痛い思いをして坐って、 真の自己を明らめようとする人にとっては極めて有効 であるが、禅理のみを尊重し追究せんとする者に とっては、無用の長物であることを警告しておきたい。

  従って今回の参究では、「総序」の解説は省略し各段階 の「小序」の精神を概説した後で、廓庵禅師自ら作られた 「頌」についてはその一句一句について逐語的に味わうこ ととしたい。



クリックしてください、『尋牛』へ進みます クリックしてください、『見跡』へ進みます クリックしてください、『見牛』へ進みます クリックしてください、『得牛』へ進みます クリックしてください、『牧牛』へ進みます
尋 牛 見 跡 見 牛 得 牛 牧 牛
クリックしてください、『騎牛帰家』へ進みます クリックしてください、『忘牛存人』へ進みます クリックしてください、『人牛倶忘』へ進みます クリックしてください、『返本還源』へ進みます クリックしてください、『入てん垂手』へ進みます
騎牛帰家 忘牛存人 人牛倶忘 返本還源 入てん垂手

『暁鐘』245号[1994年1・2月]〜259号[1996年7・8月]より。なお、図は三宝興隆会会員の横尾龍彦画伯による。


▲最初に戻る ▲日本語版目次へ ▲三宝教団略史へ ▲三宝教団の基本的立場へ ▲禅会とその指導者へ ▲三宝興隆会へ ▲参考文献へ ▲お知らせへ



s a n b o 3 a @ m b p . n i f t y . c o m