清水エスパルス、J2降格。
1993年、日本に初のプロサッカーリーグであるJリーグが誕生した。その、栄えある初年度の所属チームは以下の10チーム。
鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)
浦和レッドダイヤモンズ
ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)
横浜マリノス(現横浜F・マリノス)
横浜フリューゲルス(現在は消滅)
清水エスパルス
名古屋グランパスエイト
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島
これらの10チームは、いつしか「オリジナル10」と呼ばれるようになり、日本のサッカーの歴史において、特別な存在として扱われるようになった。
そして昨日、そのオリジナル10の一角である清水エスパルスのJ2降格が決まった。これにより、オリジナル10でJ2降格を経験していないのは、鹿島アントラーズ、横浜F・マリノス、名古屋グランパスエイトの3チームのみとなった。
王国のチーム。
Jリーグ開幕当初、唯一母体企業を持たないチームが清水エスパルスだった。
この時期、静岡県では日本リーグに所属していた本田技研とヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)のJリーグ入りが有力視されていた。だが、本田技研はJリーグ加盟を早々に見送る。という事で、ヤマハがJリーグに加盟するものと思われていた。
ヤマハは、1992年には日本リーグで無敗優勝を成し遂げるなど実績も申し分なく、親会社のバックアップによる豊富な資金力もあった。だが、唯一足りなかったのが「Jリーグ規格を満たすスタジアム」だった。
これを解消するために、ヤマハはホームを浜松に移してJリーグに参加する計画を考えていたが、浜松市にはヤマハのライバルのスズキの本社が存在することもあり、浜松市の「特定の企業のために公共施設を改修・建設することは出来ない」との決定を受け、初年度からのJリーグ入りを断念する。
だが、せっかくプロサッカーリーグが発足するというのに、日本におけるサッカー王国静岡にチームがないなどという事態は許されなかった。そこで名乗りを上げたのが、当時静岡県リーグに所属していた「清水FC」だった。
清水FCは、元々Jリーグ加盟を念頭に発足したチームだ。かつて、同名のチームで小学生時代に全国大会に出場したOBの手によって結成された。
彼らは、内外に清水市がサッカーの町であることをアピールし、川淵三郎チェアマンを説得する。一時は、ヤマハと合併して新たなチームを作ることを提案されるも、これはヤマハ側から拒否される。結局、清水FCの「市民クラブ」の理念に押される形で、Jリーグ加盟が認められた。
これが、Jリーグ発足時、唯一の母体企業を持たないクラブチーム、清水エスパルスの誕生の経緯だ。
エスパルスの思い出。
清水エスパルスは、Jリーグ加盟を見送ったチームなどから選手を集め、監督には元ブラジル代表GKだったエメルソン・レオンを迎えた。そうして臨んだJリーグ開幕前年度のプレ大会である第1回目のナビスコカップでは、見事決勝まで勝ち進み、ヴェルディ川崎に敗れはしたものの準優勝という成績を残す。
当時のJリーグのチームは、今のように格差が拡大してない時代だったので、全てのチームが優勝を狙って大型補強を敢行していた。
エスパルスもその例に漏れず、監督にあのロベルト・リベリーノやオズワルド・アルディレスなどの現役時代には名選手として活躍した監督を迎えたり、選手も清水三羽烏(長谷川健太、大榎克己、堀池巧)をはじめとする日本代表クラスの選手たちや、元ブラジル代表のロナウド(DFの方)、ジャウミーニャ、ミランジーニャ、トニーニョや、元イタリア代表のダニエレ・マッサーロなどの外国人選手の補強を行ったこともあった。
代表クラスの選手だけでなく、GKコーチとして来日したにも関わらず、現役として大活躍したシジマールや、エドゥー、三渡洲アデミールなど人気選手を抱え、成績も好調に推移し、特に延長戦やカップ戦に強いチームとしてその名を轟かせた。
だが、1997年末には経営危機に陥り、鈴与の支援を得て株式会社清水エスパルスとして再スタートを切る。
個人的によく覚えているのは、1999年の2ndステージ優勝を決めた試合だ。
当時、自分はまだ東京に住んでおり、月に1回はJリーグの試合を見に行っていた。あの頃は蒲田に住んでいたので、よく国立での試合(鹿島アントラーズがスタジアム改修のため国立でホームゲームを行っていた)や、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)での試合を見に行っていた
あの日は、2位マリノスと首位エスパルスの直接対決で、エスパルスが勝てば優勝という試合だった。このシーズンのエスパルスは抜群の安定度を見せていて、1stステージこそ3位に終わったが、2ndステージは第8節で首位に立つと、そこから一度もその座を譲っていなかった。
自分は、ひょっとしたらステージ優勝の瞬間が見られるかもしれないという、ただそれだけの理由で足を運んだ。
新横浜駅に着くと、オレンジ色のユニフォームを着た集団がそこかしこにいた。さすが、ステージ優勝がかかっていると、アウェーからも沢山のサポーターが来るもんだなぁなどと感心しながらスタジアムに向かったのを覚えている。
試合は、今では現役時代の雑な野性的なプレースタイルとは裏腹に真面目な解説をするようになった安永聡太郎の決勝ゴールでエスパルスが勝利し、見事に優勝を飾った。
静岡ダービーとなったチャンピオンシップでは、第1戦は中山の粘りのゴールなどでジュビロの勝利。第2戦は澤登正朗の素晴らしいFKなどでエスパルスが勝利し、PK戦の末ジュビロがチャンピオンになった。
だが、このシーズンはエスパルスが圧倒的な安定度を見せ、年間勝点では2位のジュビロ(実際には勝点で2位になるのは柏レイソルだった)を大きく引き離していた。それでも、年間勝ち点1位のチームがチャンピオンシップで敗れればタイトルを獲得できないという状況がこの数年間続いていて、やがてチャンピオンシップは廃止の方向に向かう事になる。
簡単ではない「名門の再建」
2000年以降、エスパルスの成績は徐々に落ち始める。
チームもユースから大量に昇格させた選手が思ったほどの活躍を見せず、スカウティングも思うように行かずにハズレを引くことが多かった。たまにアラウージョのよう当たりを引くこともあったが、使いこなせずに放出してしまう事態に陥っていた。
それでも久米一正がGMに就任し、長谷川健太を監督に招聘すると、1年目こそ残留争いに巻き込まれたものの、その後数年間は上位でシーズンを終えるまでに持ち直した。
だが、2010年をもって長谷川体制に終止符を打ち、新監督としてアフシン・ゴトビを迎えるも、成績は長谷川体制時の4位を超えることは出来ず、2014年のシーズン途中に成績不振を理由に解任、大榎克己が新監督として就任する。
そうして迎えた2015年シーズンだが、1stステージは最下位に終わる。途中で大分トリニータの監督を解任された田坂和昭がコーチに就任した時に、「ああ、大榎が駄目だった時には監督を田坂にするんだろうな」と思った人は多かったと思う。実際、その通りになり、結局その後1勝も出来ずにJ2降格が決定した。
正直言って、エスパルスをこれから待ち受けるのは茨の道だと思う。
エスパルスが来シーズン以降の予算配分をどう考えているのかはわからない。1年でのJ1復帰を確実なものにする為に、今シーズンと同規模の予算を用意できれば、なんとかなるかもしれないが、もし大幅に予算を縮小するという事になれば、J1に戻ってくるのは相当先になるのではないか。
J2に降格してしまったチームが、1年で復帰できなかった場合、予算が潤沢な千葉や京都のようなチームであってもJ2に定着してしまうことがある。エスパルスもそうなってしまうのではないか。自分はそれを心配している。
もし、ジュビロが今シーズンの昇格に失敗すれば、日本が誇るサッカー王国静岡に、J1のチームが無いという、いまだかつて無い事態が発生することになる。あるいは、J2で静岡ダービーが実現することになるのか…
いずれにせよ、サッカー王国静岡にとっては、危機的な状況であることは間違いない。