禁じられた70年前の戦況報道 「事実書けない、書かない」【報国のペン(1)戦争と西日本新聞】
書きぶりはすこぶる勇ましい。〈日頃の訓練の腕前ふるって見事に撃退、緒戦必勝の凱歌(がいか)をあげた〉。1944年6月17日付の西日本新聞朝刊は、1面トップで後に「八幡空襲」と称されるニュースを報じた。
米軍のB29による初めての本土空襲だった。50機近い大型爆撃機が現在の北九州市に飛来、西日本最大の兵器工場だった小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)などを標的とした。
1面記事には〈我が方の損害は極めて軽微〉と見出しが付けられている。文中でも、10機を撃墜し、犠牲者は地上部隊2人のみだったことになっていた。
だが実際は-。北九州市史によると、造兵廠の女子挺身(ていしん)隊員ら約80人を含め、死者・行方不明者が257人に上ったという。決して「軽微」ではなかった。
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「外電なども相当入っているが、大本営でいっさい外部に出させないようにしている」。終戦時は編集局次長だった星野力(つとむ)記者が残した当時の取材ノートに、こんなメモ書きがある。
41年12月8日の日米開戦以降、軍の最高統帥機関である大本営が許可しない戦況報道は禁じられていた。それでも外国の放送や軍の情報は新聞社に集まっており、星野記者も北九州の街の甚大な被害を把握していたようだ。書けない、書かない。その両方だった。
星野記者は94年に87歳で亡くなるまで、戦中の取材ノートや日記10冊余りを50年近く保存していた。託された長男の大三さん(58)=東京都=は「死ぬ直前、父は覚えたてのワープロでノートを書き写していました。事実を書けなかったことに悔いがあったのでしょう」と述懐する。
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星野メモには、大本営発表と取材内容の違いが分かる記述が数多く見られる。
最たるものは、44年10月20日付の朝刊1面だろう。見出しは〈開戦以来の大戦果〉。フィリピン・ルソン島沖で、空母19隻を含む45隻を撃沈したとする大本営発表を載せている。
一方、18日の取材ノートには「日本連合艦隊は米機動部隊の組織の大きさに驚き、一戦も交えず遁走(とんそう)した」「日本は一大痛棒に違いない」とある。いずれも敵側から得た情報だった。
46年に退社した星野記者は、晩年になって「文化評論」92年12月号に当時の報道について寄稿している。「国民に戦局の報道はひた隠しに隠されたまま、なん百万の兵士が死地に追いやられた。都市は焼かれ、国土は破壊され、たくさんの一般市民の命が奪われた」
行間に悔いがにじむ。
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先の戦争にペンで加担した「報国報道」は、西日本新聞も例外ではなかった。当時を振り返り、これからの報道にどう向き合うべきか、考える糧としたい。
=2015/08/15付 西日本新聞朝刊=