2014.10.15 15:30(4/4ページ)

【軍事のツボ】日本軍がかかわったベトナムの独立戦争

【軍事のツボ】

日本軍がかかわったベトナムの独立戦争

特集:
軍事のツボ

 いずれにしても、一度終わった戦争をまたやれと言われ、士気が上がるはずはない。しかも相手は比較的関係の良好なベトナム人だ。

 掃討作戦が行われる前には、日本側が顔なじみのベトナム人を通じて部隊展開日時や場所を独立勢力に教え、衝突を回避するようなことがたびたび行われた。また、衝突した際も銃を上に向けて撃つなど、互いの犠牲を避けようとした。まともに戦おうとしない日本軍に英軍側も業を煮やし、たびたび督戦してきたという。

 それでも犠牲は避けられず、46年3月までの間の確実な者だけで164人の戦死者を出している。ベトナム側も45年12月までに戦死者818人に及んだとされる。

 10月からはフランス軍増援部隊が順次到着し、日本軍は治安維持任務から解放される。そして武装解除が11月から始まり、46年1月下旬には完了した。そして南部仏印の独立運動は表面上、フランス軍の鎮圧で一旦下火になる。

 そんななか英軍、フランス軍ともに、独立勢力の中に日本人が紛れて指導していることを重視。一刻も早く日本人を本国に帰国させたほうが、独立運動を押さえ込むには有効と考え、離隊・逃亡者の発見と引き揚げに熱心に取り組みんだ。仏印からの引き揚げは46年6月ごろにはほぼ終了してしまったほどだ。

 そうまでしても独立運動を押さえ込むことはできず、46年12月からフランス軍とベトミン軍の間に武力衝突が本格化し、第一次インドシナ戦争へと突入した。結局、仏印の日本軍は英印軍側、独立勢力側のどちらにいても、結果的に独立運動に手を貸したと言うことができるのではないか。(梶川浩伸)