【軍事のツボ】
仏印には700~800人の日本兵が残ったと推定されており、大半はベトナムにいた。インドシナ半島東部地域では、1862年にコーチシナ(ベトナム南部)の一部が割譲されたのを皮切りに、フランスの植民地支配が始まる。インドシナ総督が設置され仏印が成立するのは1887年で、フランスがベトナムの独立を承認した1954年まで続いた。
第2次大戦が始まり、フランスにはドイツ軍の占領によって1940年6月ヴィシー政権が成立、ドイツと休戦する。同政権は同年8月に日本軍の北部仏印への進駐を認め、さらに41年7月には南部仏印への進駐も認める。
これによって日本軍は大規模な戦闘なしで、形の上では合法的に仏印に進出し、敗戦までこの地域では米英軍との間に地上戦は行われなかった。
44年にヴィシー政権が崩壊し、仏印のフランス軍が連合国寄りの姿勢を見せ始めたことから、日本軍は45年3月にフランス軍(約5万)の武装解除を目的とした「明号(めいごう)作戦」を実施。これによりフランス植民地政府を解体した。
その後、日本が降伏すると、ベトナム南部には英印軍(インド人で構成された英軍)第?歩兵師団が進駐。同時に独立運動の火の手が上がり、9月にはホー・チ・ミンによってベトナム民主共和国の樹立が宣言された。
ここからが残留日本兵の“出番”となる。日本軍は進駐していたものの直接の統治者ではなかったことなどから、おおむねベトナム人と友好的な関係を築いており、接触の機会が多かった。そのためベトナム独立に共感したり、荒廃した日本へ帰るよりも現地で一旗揚げたいと考えたりする者がいた。また捕虜になることや戦犯に問われることを恐れたなどから、残留して独立勢力に協力する者が続出した。