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【社会】

戦地ラバウル 紙も自給 原料はバナナの茎 大戦末期に代用紙

最後の連合艦隊司令長官、小沢治三郎中将の遺族宅で見つかった書簡を囲む娘の大穂孝子さん(中)ら=東京都世田谷区で

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 太平洋戦争末期、海軍航空隊のあった南太平洋のニューブリテン島のラバウルでバナナの茎などを原料に大量生産された代用紙を活用した海軍最高幹部間の連絡書簡が、最後の連合艦隊司令長官、小沢治三郎中将の遺族宅(東京都世田谷区)で見つかった。代用紙の生産自体は、ラバウルにいた別の海軍最高幹部が戦後著した回想録などに記述があるものの、実物が確認されたのは極めて珍しいという。 (編集委員・吉原康和)

 見つかった書簡は、幅約三十センチ、長さ約九十センチで、ところどころ和紙で継ぎはぎされた跡があるものの、保存状態は良好。

 一九四五年一月二十三日の日付で、ラバウルの南東方面艦隊司令長官、草鹿任一(くさかじんいち)中将から、国内にいた当時、海軍軍令部次長の小沢、海軍次官の井上成美(しげよし)の両中将連名宛て。三人は海軍兵学校の同期だった。

 二〇一三年春、小沢中将の次女、大穂(おおほ)孝子さん(83)が掃除をしていた自宅天井裏から見つけた。全文約六百五十字で、家族と書家らが今月上旬に解読したという。

 書簡は冒頭、「ラバウルで斯様(かよう)な紙が毎日二千枚出来ます。将来少くとも一万枚は出来る様に努力中なり」と代用紙の量産に成功している様子を知らせている。

 当時、米軍の空襲で補給路が遮断されていたラバウルでは、生活物資の自給自足体制の確立が急務で、その一環で代用紙の生産が始まった。原料はバナナの茎とオクラの根で、オクラの根から紙すき用ののりを採取した。現地の部隊に配る用紙などに使っていた。

 草鹿中将は、五八年に出版された回想録「ラバウル戦線異状なし」(光和堂)の中で、「美濃紙大のものが、一日およそ二千枚ほど出来るようになっていた」と記し、紙質も「ちょっと土佐紙を思わせる」ような高品質の出来栄えだったと述懐している。

 国内から航空便が届いた際、部下の参謀長から手紙を書くように勧められて「早速現地製の紙に手紙を書いて…」との記述もあり、今回見つかった書簡は生産初期の段階での代用紙の活用例とみられる。

 今年は小沢中将の没後五十年。次女の大穂さんら約百人が参列して「没後五十年 最後の連合艦隊司令長官小沢提督を語る会」が十一月一日、東京都渋谷区の水交会で開かれ、小沢中将の乗艦時の将旗や勲章などの遺品とともに連絡書簡も展示される。

◆リーダーシップ発揮

 日本海軍戦史戦略研究所所長の工藤美知尋氏の話 戦争末期、生活関連物資が窮乏する中、草鹿中将は「イモ提督」と呼ばれるほど、ラバウルでの自給自足体制確立にリーダーシップを発揮したが、現地で調達した紙を使った書簡が現存していたのは驚きだ。書簡は海軍兵学校同期の最高幹部にちょっぴり自慢を込めて代用紙量産化の成果を披露したのだろう。

 <小沢治三郎(おざわ・じさぶろう)> 宮崎県出身。海軍軍人で、最終階級は中将。海軍兵学校37期。南遣艦隊司令長官、第三艦隊司令長官などを歴任後、1945年5月から連合艦隊司令長官を務めた。その風貌から「鬼ガワラ」とも評されたが、空母を基幹とした機動部隊を創設するなど、国内外から「名提督」との評価が高い。66年、死去。80歳。

 

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