予言者、ノストラダムス。
私の思春期はこの得体の知れない爺さんに翻弄された。
私は彼をいつ知ったのだろうか。はっきりとは覚えていない。なんとなくムーという雑誌で知ったような、そんな気がする。とにかく彼を知ってからの私は彼の予言をかなり意識するようになってしまった。怖かったのだ。彼の予言は当たると言われていて、しかも1999年7の月に恐怖の大王が来ると言うのだから。
恐怖の大王。恐怖の大王とはなんなのか?いろいろな憶測が飛び交った。でもそれが何なのかはその日が来るまでわからない。ひょっとしたらノストラダムスなんて今の私のように思いついたことを書き散らかしただけの爺さんかもしれない。でも、その影響力は凄まじいものがあった。遠い未来の国籍も違う一人の青年をこれだけビビらせているのだから。
1999年7月某日。この日は星の並びがいつもと違うと言われた日で、たしか星が十字のように配置される珍しい日だったような気がする。ノストラダムスの予言が本当であるなら、この日があの予言の日である可能性が最も高いと言われていた。私はその日、実家にいた。
私は最後の日をどう過ごすか決めていた。自分のやりたいことをやって終わりたい。そう考えていた。自分のやりたいこと。それはバイクに乗ることである。バイクはバイクでも実家にあるのは古びた原付のスクーターが一台で本当はもっとカッコいいバイクが良かったのだが、世界が終わる日に贅沢は言っていられない。このスクーターでいい。そう決めた。免許もあるので乗ること自体に問題はない。ひとっ走りどこか遠くまで走り、行き着いた先で終わりを迎える。それでいい。そう思っていた。
エンジンをかける。
キュキュキュキュ…。
もう一度、エンジンをかける。
キュキュキュキュ…。
エンジンがかからない。
何度セルスターターを押してもエンジンがかからないのだ。セルからキックに切り替える。
ブォン…。もう一度、キック。
ブォン…。ダメだ。エンジンがかからない。
私が苦戦していると家の中からおじいちゃんが出てきて「どれどれ貸してみなさい。」といいながらスクーターのエンジンをかけようとしてくれた。しかし、エンジンはかからなかった。二人で何度もチャレンジした。おじいちゃんと一緒にスクーターの様子を調べたり昼ごはんを一緒に食べながら原因を考えたり、試行錯誤を繰り返しては何回も挑戦した。いつの間にか辺りは夕暮れになっていた。結局、スクーターのエンジンは一度もかからなかった。
そのかわり、私はおじいちゃんと仲良くなった。
ノストラダムスという得体の知れない爺さんのおかげで、私は実のおじいちゃんと心が通い合ったのだ。
そうだったのか。
何かの恐怖を抱えながら、やりたいことに向かって進む。それが叶わなくても、それをやろうとしたことで仲間ができる。そうして日が暮れていく。人生なんて、こんなものかもしれない。すっかり日が沈んだ中で私とおじいちゃんは笑いあった。もし、今日という日が人生そのものであるならば、人生は最高だ。
おじいちゃんも、きっとそう思っているだろう。
あんなに美味しそうな顔でビールを飲んでいたのだから。
・Believe(SOPHIA)