幸福と救い

だめだよ。ぼくは孤独になりたいんだ。来年の春、また会おう。」

➡ スナフキン

 

幸福(Well-being)と救い(Salvation)の違い

生理学的に幸福とは⇒ 不快な緊張を避けること(くつろいで愉快な肉体的快適を得ること)すなわち、⇒ 充分な食料自然の驚異からの保護快適と感じる肉体的活動日常的に必要な物質的欲求の満足最低限のプライベートな空間などが満たされること。

感情的には⇒ 集団に属しているという感情ある程度の特権を有しているという気持ち家族やコミュニティとの良い関係が存在することなど。反対に、不幸とは幸福な状態にないことであり、➡ 緊張・不満足、苦痛を伴う感情・不安・憎しみ・困難・解決不能の葛藤、真理に対する強迫的な追及、悪や死と折り合って行かなければならないという感情である。

幸福感に関係あるのはいわゆるハッピーという感情である。」

 

一方、「救い」とは宗教的文脈によって語られる⇒ 救いは単に幸福でくつろいだ、具体的な生存の仕方に関わるものではなく、神との接触を求め、発見することを意味する宗教的概念である。また、哲学においては⇒ 生命や人生の意味に関する探究を語り、キリスト教の概念では⇒ 救いはこの世で(完全に)得られるようなものではないと言われている。罪や死が絶えず私たちを苦しめ、人生に対する問いに満足のいく回答は得られないからである。

 

そして、宗教や哲学が無数に存在するように、個人個人は独自の方法で救済を求め、見出さなければならない。にもかかわらず、全ての道は、ある共通の特徴を持っている。

➡ 「私は苦痛や死との対決を必要としないような道を一つも知らない。」

 

「救い」について人は、正確に定義することも、想像することもできない。ただ、救済論的道筋を知っているだけである。たぶん人間の生涯においては、ほんの瞬間の至高体験によって直観するのみである。日没を見ているとき、俄雨の中に立っているとき、毎年の祝祭の時など、ほんの数分間、人は突然人生の意味が分かったと信じる時がある。

➡ 「すなわち、目的という立場からは、救いと幸福というのはたがいに矛盾することになる。つまり、幸福への道筋には必ずしも苦痛が含まれてはいない。だから、幸福のためにわれわれは、幸せになるように、そしてまた答えのない問いに頭をぶつけないように駆り立てられているのである幸せな人は愛する者たちにまじって家族の食卓につき、たらふく食べる。」

 

➡ 「救いを求める人は神や悪魔や世界と格闘し、そして、死とすら対決するのである。そして、たとえこれらすべてが、特にその瞬間に絶対必要でないにしてもである。」

ー結婚の深層、A・グッゲンビュール-クレイグ著/樋口和彦・武田典道訳、創元社より)

ダンカンの歌: ポール・サイモン

 

隣の部屋の恋人たちは

まるでギネスに挑戦するかのように

一晩中起きているつもりらしい

僕は眠ろうとしたけど無駄だった

安ホテルの壁はとても薄いから

僕はリンカーン・ダンカン

これは僕自身についての歌だ

 

パパは漁師でママはその友達だった

僕は成り行きに任せ生まれ

クラムチャウダーのような混沌に育つ

そして混乱が頂点に達した時

カナダのメリタイムスを飛び出し

ニューイングランドを目指した

あこがれのニューイングランドへ

 

でも、すぐに信念は揺らいだ

ジーンズの膝はすり切れ

ポケットには1ペニーもない

文無しになってしまった

まるで赤ん坊みたいに無力だ

せめて指輪でもあったら

質屋に持って行けたのに

 

駐車場の大勢の人の中で女の人が

聖書の話をしたり歌ったりしていた

そこで僕は家出して一文無しだと言ったら

彼女は聖霊降臨祭について長々と話した

それで何故か僕を導いてくれるように思えたんだ

 

その日の夜、懐中電灯を持って

彼女のテントを訪ねていった

そこで僕の少年時代が終わり

彼女は僕を森へ連れて行き、こう言った

「森には何かがいて気持ちを楽にしてくれる」

そしてまるで子犬のように二人は友だちになった

 

ああ、なんて素敵な夜だ

まるでエデンの園にいるみたいだ

この時のことは一生忘れない

満点の星空の下でギターを弾き

ギターを弾くための指を与えてくれたことを

神さま感謝した

Sultans Of Swing: Dire Straits

 

肌寒い雨の降る日の夕暮れ

川の南にある公園の辺りから

聞こえる演奏に君は足を止める

4ビートのデキシーランドだ

その音を聞くと何か気分が良くなる

 

店に入ると客は少なかった

雨の日にジャズ聴きに来る奴いないから

でも他の店でこんな演奏聞いたことない

少なくともロンドンの南側では

 

ジョージのギターを聞いてみな

奴は全部のコードが頭に入ってる

リズムに逆らわないし

泣きのギターとかスィングとか嫌いなんだ

それで古いギター一本でやっちまうんだ

 

ハリーは舞台に立てなくても気にしない

彼は昼間働いてるから問題ないんだ

彼はホンキー・トンクが得意なんだけど

それは金曜日のとっておきなのさ

サルタンズ・オブ・スィングで演るためのね

 

若い連中は店の隅で手持無沙汰だ

バギーパンツと厚底のブーツでキメて

酒飲んで騒いでる

奴らラッパのバンドなんか興味ないんだ

ロックンロールじゃないから

サルタンズはクリオールなんかやるからね

 

最後に男が一人マイクの前に立ち

終了のベルと同時に静かに言った

「Goodnight. もう家に帰る時間だよ」

それから早口でもう一言だけ

「演奏はサルタンズ・オブ・スィングでした」

「神」を演じるシステム

「神は我々の生と死の第一義的な要因に直接関わってはいない。神は我々と結婚しないし、夜を共に過ごすこともない。殺人者のピストルに倒れることもなければ、車の後部座席に座り煙草をくゆらすこともない。

 

もちろん我々は、神を演じることはできないが、まるで自分には責任がないかのように装い、人生に降りかかった事柄の受け身的な犠牲者であるかのように振る舞うこともできない。我々一人ひとりは、

 

高尚な聖職者であり、神聖な国家であり、神の御手のもとにある者でもあるのだから。」➡ ウィリアム・S・コフィン(愛する勇気)

 

嗜癖システムの神

支配的立場にいる人々の神に対するイメージは、➡ 「神は全てを支配しコントロールする」というもの。そして彼らは、➡ 「神になることが可能」だと信じている。そのため、システムに住む私たちの生活は➡ 支配という幻想を模倣したものとなっている。

 

⇒ 誰もが他人をコントロールしようとし、

⇒ 政府は規制とコントロールを主な仕事にしている。

⇒ 人間関係は支配 ↔ 被支配のパターンに陥り、

⇒ 自分自身、家族、外界にたいしてのコントロールを失うことを最も恐れている。

 

子育てさえもコントロールを目指している現状では、子供の養育のうちどれが普遍的な『事実』なのか、嗜癖システムのなかにおいてのみ『真実』なのか、私は戸惑うことがあります。思春期の子供の反抗は本当に『正常な』発達段階なのでしょうか。子供たちをコントロールするのをやめたとしても、アイデンティティーの確立のためには反抗が必要なのでしょうか?子育てのアプローチに非支配的な態度を取ったとしたら何が起こるのでしょうか?」

 

⇒神になろうとすれば➡ 嗜癖を招き➡ 過度のストレスがもたらされる。⇒支配の及ばない事柄をコントロールしようとすれば➡ 身体は酷使され➡ 緊張し➡ やがて文字通りの死に至る。

➡ アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会、1993年、誠信書房」より

コントロール幻想による共依存

「コントロール幻想は、他の三つの嗜癖システムの特徴と密接につながっています。それは、危機的方向づけ抑うつストレスです。」

 

この危機的方向づけは、システムのレベルにおいても見ることが出来ます。危機は経済活動を活性化させ、政府が『何か手を打っている』と大衆に信じ込ませるのに役立っています。自らに役割を課すために、危機を創り出すことさえも時には必要とされるのです。」

➡ アン・ウィルソン・シェフ

 

危機的方向づけ

危機によるコントロールを求める人は、日常から危機を引っ張り出す。➡ 子供の学校、仕事、食事など、全てのことがパニックの中で行われる。

嗜癖者とその家族は、自分たちが生きているという幻想を持つために、危機を必要とする。➡ 危機に直面すれば少なくとも何らかの感情を持つことが出来るからである。

抑うつ

自分の世界はコントロール出来る、しなければならないと信じ、それが無理だとわかると、➡ 敗北を体験し、敗北は抑うつを招き、さらにコントロールを得ようと努力し、➡ より惨めな失敗をする。

 

「私と一緒にコントロールの幻想を直視するようになって、その患者は抑うつから早々と立ち直りました。私は平安の祈りを教えたのです。『神よ、私にお与えください。変えられないものを受け容れる平安(おちつき)を、変えられるものを変える勇気を、そして、その二つの違いを見分ける賢さを。』この祈りが、彼女のコントロールの問題を正視させる助けとなったのです。」

 

ストレス

⇒ 「私たちはストレスでいっぱいの生活をしています。明日は、もっとストレスの少ない、ストレスから解放されたシステムの選択について話すつもりなんです。」

➡ 彼は吹き出して、こう言った。「そんなの不可能ですよ!」

ストレスから解放されたもっと住みやすいシステムはお気に入りませんか?」と私は尋ねました。

➡ 「そうですね。」と彼は言いました。

➡ 「どんなシステムにもある種のストレスは必要なのですよ。時にはシステムにとって良いものでもあるのです。」

⇒ 私はびっくりしました。「いったいどうしてそんなことが信じられるんです?」

➡ ストレスは弱者を淘汰し、適者を生存させますからね。」と彼は言いました。

 

⇒ 私はこれ以上言うべき言葉がありませんでした。ただ、「本当に?誰が先に死ぬか統計的にわかってでもいるのですか。」と言うだけでした

➡ アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会、1993年、誠信書房」より

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