いま一度、人間関係を理系視点で捉えてみる
みなさまこんばんは。
今週もようやく終わりました。
今週は仕事上、神経をすり減らすことやこちらからケンカを売ったことなどもありまして、精神的にぐったりです。
人間関係はよく「辛いもの」と言われます。
ただただ降りかかるものを耐えるだけ、というイメージがありませんか?
あるいは、よい意味での人間関係においても、何をどう捉え、どう努力したらよいか、普通はわかりませんよね。
今週もようやく終わりました。
今週は仕事上、神経をすり減らすことやこちらからケンカを売ったことなどもありまして、精神的にぐったりです。
人間関係はよく「辛いもの」と言われます。
ただただ降りかかるものを耐えるだけ、というイメージがありませんか?
あるいは、よい意味での人間関係においても、何をどう捉え、どう努力したらよいか、普通はわかりませんよね。
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そんな人間関係の謎に挑戦し、理系的な視点で風穴を開けようと試みたのが2014年5月11日の記事「微分型コミュニケーションと積分型コミュニケーション」(←クリック)です。
人間のタイプを「微分型」と「積分型」に大別しました。
微分型とは、瞬発的な会話の勢いやインスピレーションに重きを置き、相手を感化させるタイプです。
それに対し、積分型とは、瞬発さはないですが、相手の考えや自分の考えをたくさん格納して、いろんな角度から熟考することにより、相手を感化させるタイプです。
ダムに喩えれば、微分型は放水の勢いや流れ方を重視するものであり、積分型は貯水量を増やし貯めた水を処理したりすることを重視するタイプです。
人間誰しもこの両方の機能を持っていますが、通常、どちらかの型に偏っている場合が多いと思います。
「自分は微分型だ」とか、「あの人は積分型だ」などとなります。
稀に両方の型が発達している人もいれば、あるいは両方ともあまりないタイプの人もいることでしょう。
どっちかが優れているということではないし、両方弱くても構わないのです。
どちらかが劣っている、あるいは両方劣っているとしても、人間の良し悪しを決めることではありません。
大事なことは、自分はどの型であり、パートナーはどの型であるかを意識すれば、よりよいコミュニケーションができるのではないか、そしてコミュニケーションが発展して何か新しい物を生み出さないか、と考えたのです。
この考え方は暮らしでも仕事でも生きると思うんです。
さて、前置きが長くなりました。
以前の記事のおさらいだけで今日の記事を終わらせるのはイージー過ぎます(笑)から、今日はもう一つの理系的捉え方を提案します。
「微分型vs積分型」という軸とは別の軸で人間を類別することの一つとして、次のAとBの型に分けられると思います。
A: 自分が嫌だということを人にはやらせない人
B: 自分が嫌だということでも人にやらせる人
なにもAが善人でBが悪人とかの意味ではありません。
良い悪いではなく、AとBを解析してみましょう。
自分が嫌なことを人にやらせるということはそれだけ自分にも負の見返りが予想されます。
Aは、その見返りを極力排除するという考え方。
Bは、その見返りを覚悟してまでも、別のなにがしかの正(プラス)の効果を期待していると言えるでしょう。
ここで、人間というものの本質として、よいことよりも悪いことの方が多いことは望まない、と仮定します。
稀には悪いことが上回ってもよいという人もいるかもしれませんが、ここでは考えないことにします。
この仮定に立脚するならば、Bのタイプの人は別の何かよいことを人から受けていると言ってよいでしょう。
Aのタイプの人は、自分の嫌なことを人にもやらせないことを厳守することで、人からも嫌なことをやらされないことで、悪いことがよいことを上回らないようにしているのでしょう。
Aタイプの人は閉じた系の中の人間と関わり合い、「よしとする」もののみをやり取りするコミュニケ―ションを行っている人だと思います。
これに対しBタイプの人は、閉じている系の中にいる人と関わる場合は、人に嫌なこともさせる代りに人からも善意を得る別の作用もその人に与えているのでしょう。
つまり、異種の事柄でプラスマイマスゼロにしているのでしょう。
あるいはBタイプの人は、自分のプラスマイナスを保つことを、閉じた系以外の人とのやりとりでも行っているのでしょう。
ある一人の人との間ではギブアンドテイクが成り立っていなくてもいいので、何人もの人の中でのプラスマイナスが保たれればいいのです。
さらに言うと、その全体の中でさえ現在プラスマイナスが保たれていなくてもいいのです。
昔はプラス過剰だったから、これからはマイマス過剰でもいいとか。
さらには弟はプラス過剰だから俺はマイナス過剰でいい、とか。
さらには、先祖様はいい思いばかりしたので、自分はマイナスの人生でもいいとか。
ここで、人に嫌なことをやらせることによる負の見返りと、人生の不運がごっちゃになっているようにも見えるでしょう。
でもそれでもいいと思います。
要は、自分の嫌なことや不運なことを避けることをどのレベルまで広げて精算するか、です。
「どのレベル」には社会の広さや時間の長さも含まれます。
自分はこの世に生まれて何をすべきかによって、関わるべき人はどこまでであるか、そしてどんな人にどんな風にしかけるのかを決めること。
それが人の生きる道だと言えそうです。
そしてそれは数学や物理学の視点で捉えるとより理解しやすいのではないかと思います。
茨城フラワーパーク。十月桜です。
そんな人間関係の謎に挑戦し、理系的な視点で風穴を開けようと試みたのが2014年5月11日の記事「微分型コミュニケーションと積分型コミュニケーション」(←クリック)です。
人間のタイプを「微分型」と「積分型」に大別しました。
微分型とは、瞬発的な会話の勢いやインスピレーションに重きを置き、相手を感化させるタイプです。
それに対し、積分型とは、瞬発さはないですが、相手の考えや自分の考えをたくさん格納して、いろんな角度から熟考することにより、相手を感化させるタイプです。
ダムに喩えれば、微分型は放水の勢いや流れ方を重視するものであり、積分型は貯水量を増やし貯めた水を処理したりすることを重視するタイプです。
人間誰しもこの両方の機能を持っていますが、通常、どちらかの型に偏っている場合が多いと思います。
「自分は微分型だ」とか、「あの人は積分型だ」などとなります。
稀に両方の型が発達している人もいれば、あるいは両方ともあまりないタイプの人もいることでしょう。
どっちかが優れているということではないし、両方弱くても構わないのです。
どちらかが劣っている、あるいは両方劣っているとしても、人間の良し悪しを決めることではありません。
大事なことは、自分はどの型であり、パートナーはどの型であるかを意識すれば、よりよいコミュニケーションができるのではないか、そしてコミュニケーションが発展して何か新しい物を生み出さないか、と考えたのです。
この考え方は暮らしでも仕事でも生きると思うんです。
さて、前置きが長くなりました。
以前の記事のおさらいだけで今日の記事を終わらせるのはイージー過ぎます(笑)から、今日はもう一つの理系的捉え方を提案します。
「微分型vs積分型」という軸とは別の軸で人間を類別することの一つとして、次のAとBの型に分けられると思います。
A: 自分が嫌だということを人にはやらせない人
B: 自分が嫌だということでも人にやらせる人
なにもAが善人でBが悪人とかの意味ではありません。
良い悪いではなく、AとBを解析してみましょう。
自分が嫌なことを人にやらせるということはそれだけ自分にも負の見返りが予想されます。
Aは、その見返りを極力排除するという考え方。
Bは、その見返りを覚悟してまでも、別のなにがしかの正(プラス)の効果を期待していると言えるでしょう。
ここで、人間というものの本質として、よいことよりも悪いことの方が多いことは望まない、と仮定します。
稀には悪いことが上回ってもよいという人もいるかもしれませんが、ここでは考えないことにします。
この仮定に立脚するならば、Bのタイプの人は別の何かよいことを人から受けていると言ってよいでしょう。
Aのタイプの人は、自分の嫌なことを人にもやらせないことを厳守することで、人からも嫌なことをやらされないことで、悪いことがよいことを上回らないようにしているのでしょう。
Aタイプの人は閉じた系の中の人間と関わり合い、「よしとする」もののみをやり取りするコミュニケ―ションを行っている人だと思います。
これに対しBタイプの人は、閉じている系の中にいる人と関わる場合は、人に嫌なこともさせる代りに人からも善意を得る別の作用もその人に与えているのでしょう。
つまり、異種の事柄でプラスマイマスゼロにしているのでしょう。
あるいはBタイプの人は、自分のプラスマイナスを保つことを、閉じた系以外の人とのやりとりでも行っているのでしょう。
ある一人の人との間ではギブアンドテイクが成り立っていなくてもいいので、何人もの人の中でのプラスマイナスが保たれればいいのです。
さらに言うと、その全体の中でさえ現在プラスマイナスが保たれていなくてもいいのです。
昔はプラス過剰だったから、これからはマイマス過剰でもいいとか。
さらには弟はプラス過剰だから俺はマイナス過剰でいい、とか。
さらには、先祖様はいい思いばかりしたので、自分はマイナスの人生でもいいとか。
ここで、人に嫌なことをやらせることによる負の見返りと、人生の不運がごっちゃになっているようにも見えるでしょう。
でもそれでもいいと思います。
要は、自分の嫌なことや不運なことを避けることをどのレベルまで広げて精算するか、です。
「どのレベル」には社会の広さや時間の長さも含まれます。
自分はこの世に生まれて何をすべきかによって、関わるべき人はどこまでであるか、そしてどんな人にどんな風にしかけるのかを決めること。
それが人の生きる道だと言えそうです。
そしてそれは数学や物理学の視点で捉えるとより理解しやすいのではないかと思います。
茨城フラワーパーク。十月桜です。
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