インタビュー ここから「歌手・加藤登紀子〜“時代”を歌い続ける〜」 2015.10.12


・「百万本のバラの花を」・「あなたにあなたにあなたにあげる」・「窓から窓から見える広場を」・「真っ赤なバラでうめつくして」歌手加藤登紀子さん。
「百万本のバラ」や「時には昔の話を」など多くのヒット曲を生み出し今年歌手生活50年を迎えました。
デビューしたのは大学在学中の1965年。
安保闘争や反戦運動に揺れる時代のただ中で加藤さんは自分の歌うべき歌を探していました。
私はそんな事の対立のもっと奥に向かって届いていく歌じゃなきゃ駄目だと。
心の奥深くに伝わるものさえあればそういう賛成反対とかいうそういうもののもっと奥のところで人としての本質は手をつなぐ事ができる。
そこに向かって私は歌いたい。
戦後70年の今加藤さんは自らの原点1960年代を改めて歌で伝えようとしています。
もし戦争するような時代にしてしまったら人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずがない。
自分が一番いとしいと思うものすばらしいと思うものそれをたくさん持っている事が大事だと思う。
それがあればあるほどそれを阻むものに対しては強い力で向き合っていけると思うんです。
時代を見つめ歌い続ける加藤さんからのメッセージです。
京都市にある…加藤さんは子どもの頃この神社のすぐ近くで暮らしていました。
神社を流れる小川でよく泳いで遊んでいたと言います。
私が小学校1年の頃ここで泳いだんですね。
そうするとねこの川の流れがね結構スピードがあるでしょ。
そうするとまだ泳げないんだけど下に手をついてバタバタしてると水が流れてってくれるから泳げてるような気がするんです。
体の間を水が流れていくんですよね。
それがすごいうれしかったなあ。
うん。
冷たいでしょ?冷たいですね。
思いがけず冷たいです。
私あの…歌作った事ありますね。
この冷たさがね指先に当たるでしょ?そうすると体中にこう…何か別世界が広がるというか。
ですごく動いているんだけど優しいでしょ。
こんなにスピード上げて流れているのに水ってすごく優しいじゃないですか手に触った時に。
これがね何とも言えなくてね。
加藤さんは終戦2年前の昭和18年旧満州のハルビンで生まれました。
戦後日本に引き揚げ両親の出身地京都で暮らし始めます。
身を寄せたのは父の実家の小さな離れ。
そこで5歳から12歳まで過ごしました。
京都で過ごした子どもの頃の事ってよく覚えていらっしゃいますか?もちろんよく覚えているんですけど。
私の母は京都に帰ってきた時に「私たちは満州で生まれているからお行儀が身についてない子だとか言われたら嫌だから」っていうので畳の上に歩く時の歩き方とかふすまの開け方とかものすごく厳しく私に言ったんですね。
やっぱり子ども心に日本っていう国を学習していかなくちゃいけないっていう感じ。
うちには神棚もないし仏壇もないしそういう根なし草的なねそういう家族としてこの上賀茂っていう所にいたんですねきっと。
だけどふっとうちの家族ってどこから来てどこへ行こうとしてるんだろうっていうそういう旅の途中みたいな感じもありましたね。
当時父の幸四郎さんは音楽関係の仕事をしていましたが事業に失敗。
家族の生活は苦しかったと言います。
まあちょっとお金的には時々借金に追われてたかもしれませんね。
だからうちの父は…うちにはなくて母屋に電話があって「電話や」って言われて「お父ちゃんはおらんよ」って…。
「お父ちゃんはおらんよ」ってそれだけ。
「お父ちゃんはいません」って電話で言うっていうのが子どもの頃身につけた…。
借金取りに決まってるんですね電話は。
そんな生活の中支えになったのが音楽でした。
うちの家族は本当に音楽尽くしの家族でね。
母は自分では歌うのはそんなに得意じゃなかったけど家で針の仕事をしている時にいっつもレコードをかけている人だったんですよ。
例えば「白鳥の湖」とかね「森の歌」っていうショスタコーヴィチのそれがすごく好きでね。
クラシック音楽ですね。
それがかかっていて家族が寄り集まっては音楽のほとりにいたっていうかね。
父も音楽関係の仕事をしていましたしね。
やっぱりここが私の音楽的なDNAをしっかり育んだ時間だったなって今思いますね。
1965年。
加藤さんは東京大学在学中に父が申し込んだアマチュアシャンソンコンクールで優勝し歌手デビューします。
加藤さんの歌手としての出発点が東京・日比谷の野外音楽堂です。
ああ〜!いいですね。
この日比谷野音日比谷という場所は加藤登紀子さんにとってはどんな場所ですか?そうですね。
たまたまこの日比谷の野音っていうのは私がシャンソンコンクールに優勝して初めて歌手として舞台に立った場所なんですよ。
でその時からはもう歌手として毎年ここで歌うっていうのが私の場所になったんですけど野音のすばらしいところは開演した時にまだ客席が全部見えてるんですよね。
7,000人ぐらいの人がここにいたんですよね。
今そんなにここの会場は入れさせてくれないんだけど当時はそういう制限がなくて無制限に入れたんですよ。
それでその時にうわ〜って思ったのはこういう人たちが私の歌を聴いてくれてたんだっていう何かあの…それがすごかったんですけど。
その本を正すと高校2年の60年安保の時にデモに来たっていうのが私のこの界隈との出会いでそのあと学生時代も日比谷公園っていうと石を投げたりとかしましたよね。
デモに参加して。
はい。
加藤さんがデビューした1960年代。
日米安全保障条約やベトナム戦争反対を訴えるデモが盛んに行われ多くの若者が参加しました。
加藤さんも初めはデモに参加していましたが歌手になってからは控えるようになりました。
しかし1968年再びデモに参加。
東京大学での卒業式のボイコットでした。
歌手である前に自らの信念に従って行動したいと考えたからです。
私は私じゃない何者かになろうとして一生懸命あがいていたんですけどちゃんと売れる歌手にならなきゃとかきれいな女の子にならなきゃとか足も細くしなきゃとかちゃんと化粧も上手にならなきゃとかもうテレビに出た時にどうやったらきれいに見えるかとかちょっと痩せなきゃとかまあいろんなそういう…あるんですよやっぱりね。
あったんですけどそれでもちゃんとあなた加藤登紀子をやりなさいよって生まれてから全部の事ですよね。
そういう事をちゃんとやるのが歌手加藤登紀子でしょっていう事を初めて自分の心に覚悟を決めたっていうのはやっぱり68年だったんですね。
卒業式の時のボイコットのデモには入ったけども加藤登紀子というのをちゃんと生きようという決心とどういう事を歌っていったらいいのかっていう問いかけはそこから始まったと思いますね。
そのころ出会ったのが学生運動のリーダーで後に夫となる…自分の信念に従って生きたいと考えていた2人は互いの生き方を語り合う大切な時間を過ごすようになります。
彼は学生運動のリーダーでしたけどいつも対話するのは彼はリーダーとして表に向かって演説している。
だけど表に向かって演説している事と自分の心の中でもっと深く悩んでいる事っていうのは常にあった。
別に。
彼は多分私という場所で自分の存在としての問いかけというか表に向かってしゃべる政治的な言葉ではなくてもっと深く次の生き方を見つめるための…。
それを語る場所だったのでその2人の世界はほとんどそういう彼が表に向かって語っている事ではない人間藤本敏夫との場だったと思います。
学生運動のため藤本さんは何度も警察に逮捕勾留され離れて過ごす事が多くなりました。
一人の時間加藤さんは拘置所にいる藤本さんを思い歌を作りました。
「ひとり寝の子守唄」です。
誰もが抱える孤独に寄り添う詞とメロディーは多くの人の心をつかみ加藤さん自作の歌として初めてのヒットとなりました。
私はあの「ひとり寝の子守唄」を決してそういう…時代が大きく何かの対立の中に入ったとしても片方の人だけに聴いてもらうなんていうのは歌手にとっての歌じゃない。
それはもっともっと奥にあるその本質的な人としての思いに触れるものじゃなきゃいけないっていう思いがありましたよね。
そこで語りたい。
それは政治で例えば賛成か反対っていって対立したりする。
でも歌はじゃあこっちの人は聴かなくていいですよってこっち側の人だけのために聴いてほしい歌なんてない。
そんなものはない。
私はそんな事の対立のもっと奥に向かって届いていく歌じゃなきゃ駄目だと。
(拍手)歌手生活50年を迎えた加藤さん。
今改めて大切にしたい歌があります。
社会に対じする若者たちのエネルギーに満ちていたあの時代の歌です。
「1968」。
今になってあの時代を歌うというのはどんな意味がありますか?一つ大切な原点があるとすると私にとってやっぱり1968が私の大きな噴火口っていうかエネルギーのるつぼっていうんですかね。
その戦争の中で生まれてもう何しろ無一文になってその…生き延びたっていうその年月の事がすごく自分の土台の中にあるっていう事がすごく大切に思われたんですね。
あの…ベトナムで戦争が終わっても消えてない事があるように日本でも戦争があった事の消えてない事がいっぱいある。
それと同じようにこの今をどうやって生きるかっていう事のために私この自分の歴史の中の経験の全てをね生かさなきゃいけないようなそんな気持ちになったんですね。
戦後70年の節目。
加藤さんにこれからを生きる人たちへのメッセージを聞きました。
今の時代どうご覧になっていますか?もし戦争するような時代にしてしまったら人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずがない。
だから私たちが例えばどんな暗い時代になってもね自分の心の中に闇を抱え込んではいけないと思ってるんです。
だから自分がどう生きたいですかっていう事を常にはっきり答えを持つ事だと思う。
あなたはどう生きたいの?生きたいのならそう生きなさいって。
自分が生きたいビジョンに向かってそれを守り抜くっていうんですかね。
それを遂げようとして生きる事が大事だと思うんですよ。
加藤さんが生きてきた戦後70年っていうのは戦争の事を生々しくまだ覚えている人たちがいっぱいいる時代だったからよりよい未来をという事で歯止めがいっぱいかかってたと思うんですけど。
今から若い人たちに願いたい事は何が自分にとってすばらしいかっていう事を少し確かめてほしいっていう事なんですね。
守りたいものは何なのか。
例えば家族なのか恋人なのか自分の毎日している仕事なのか。
そういうところに大切なもの自分が一番いとしいと思うものすばらしいと思うものそれをたくさん持っている事が大事だと思う。
それがあればあるほどそれを阻むものに対しては強い力で向き合っていけると思うんです。
自分がこう生きたいこれを愛したい大事にしたいそれをすごく着実に確実に自分の中に持てる。
そういうふうに生きてほしいんです。
それが強ければ強いほどこの日本という国がむやみな選択をしないでいけるようにしていけると思うんですね。
だから大切に生きましょう。
2015/10/12(月) 06:30〜06:53
NHK総合1・神戸
インタビュー ここから「歌手・加藤登紀子〜“時代”を歌い続ける〜」[字]

「百万本のバラ」などで知られる歌手の加藤登紀子さん。常に時代に向き合い「人々の対立の奥にある、心に届く歌」を紡いできた。戦後70年、今届けたいメッセージを伺う。

詳細情報
番組内容
「百万本のバラ」や「時には昔の話を」などで知られる歌手の加藤登紀子さん、71歳。小学生時代を京都で過ごしベトナム反戦や学生運動が盛んだった1960年代、大学在学中に歌手デビューしますが、時代に翻弄される中で「対立のもっと奥にある、人の心に届く歌」を歌いたいと、自らの言葉で歌を作り始めました。戦後70年、常に時代に向き合い歌を紡いできた加藤さんに、今を生きる人たちへのメッセージを伺います。京都局制作
出演者
【ゲスト】歌手…加藤登紀子,【きき手】岩槻里子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
音楽 – その他

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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