洗礼ダイアリー

文月悠光

洗礼ダイアリー

イラスト 惣田紗希

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セックスすれば詩が書けるのか問題

 あるライブハウスのイベントに出演したときのことだ。朗読のパフォーマンスを終えた私に、初対面の男性がこう尋ねてきた。
「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」
 セックス? あっけにとられ、固まった。空気は完全に凍りつき、その場の男性たちも顔を見合わせて黙り込む。
「そんなの関係ないと思いますけど......」
 精一杯に反論するも、彼は「いや、あるね! 男と濃い恋愛をして、その経験を詩に注ぎ込まないと!」とお決まりのアドバイス。立派な(?)セクハラである。
 彼の言動も腹立たしいが、何より歯痒かったのは、彼に対する自分自身の反応だった。下世話な質問にまごついてしまい、彼の思惑通り「臆病な女の子」を演じてしまった。打ち上げの飲み会で、同じ質問を受けた同世代の女性は、「イエー! セックス!」と軽やかに応酬し、笑いに変えていた。その光景もまた衝撃的だった。たとえ私が「イエー!」と手を振り上げたところで、場の空気は凍りついていただろう。セクハラ発言を軽くあしらうことができてこそ、一人前の大人の女性なのではないか......。ついそんな風に考えてしまい、自分の未熟さがほとほと嫌になる出来事だった。

 作品や活動に関するセクハラは、とても厄介だ。「男とドップリ恋愛して、その経験を書こうよ!」「ダメ男と付き合って、作家のキャラクターにしちゃえ」「変な男につかまって、おかしくなっちゃう文月さんを見たいなあ」。それらは「あなたのために言うけど」という「善意」の形をしてやってくる。
「女性詩人」なんてやっていると、とにかく「恋愛しろ」と口うるさく言われる。仕事でも「テーマは恋愛で」と指定され、恋愛詩を書く機会が多いせいだろうか。もちろん、実際に経験したことが作品の全てを形づくるわけではない。知人から聞いた話、「こうであったらいいな」という空想も、作品にはふんだんに取り入れる。なのに、身勝手なアドバイスは後を絶たない。似た意見に「男ができてから、つまらなくなった」というものもある。〈女は男によって変わるもの〉という考えを軸にしている点では、前述のセクハラと全くの同類だ。「単にあなたにとって不都合になっただけでしょう?」と言いたくなる。
 そうした発言を繰り返す人は「男によって激変した女」「堕落した女」を知っているのだろうか。そうあってほしいだけなのではないか。女によって男が変わってはまずいの? 男によって堕落する女性像なんて、私は近代文学でしか知らないけれど。

 別の詩のイベントで、見知らぬ中年男性に声をかけられた。白髪混じりの七三分けから察するに、私の父親(六十五歳)と同世代のようだ。「あなたの詩集を図書館で読みましたよ」という(読んでもらえるのは有り難いが、こういう場面での「図書館」や「ブック●フ」は禁句なのだ)。彼は悪びれる様子もなく尋ねた。
「子宮のことを詩に書いているけど、産んで育てるという自分の中の女性性を意識し始めたのは何歳くらいから? 生理がきっかけなの?」
 はあ、とため息のような相槌が漏れた。何度か妊娠や出産のイメージを作品に描いてきた。だが、それが私の生理と何の関係があるのだろう。彼は喜々として、こう続けた。
「私が男であることを初めて意識したのは、妻にプロポーズしたときですね! それまで男性性なんて考えてみたこともなかった」
 目の前で語られている言葉が理解できなかった。自分の性別を意識しないなんてありえるだろうか。意識せずに済んでいたのは、彼が男性主体の社会で生きてきたからではないか。
「女性は初潮よりもっと前、幼いころから、〝女〟として意味づけされているんです」
 私の主張も空しく、彼は怪訝な表情で去っていった。一体何だったのだろう。妙な虚脱感に襲われた。
「いくつでお嫁にいくの?」「子供は何人欲しい?」という問いは、幼稚園児から大人まで、女性であれば延々と浴び続ける。そこに込められているのは「あなたは産む性なのだから、立派なお母さんになりなさい」というメッセージだ。また、夜道の一人歩きについて「気をつけなさい」と言われるのは、女性が圧倒多数だろう。なぜ気をつけねばならないのか、という理屈の前に、「女の子は危ないから」という注意だけが植えつけられる。実際、痴漢に遭うことだって決して珍しくない(私が初めて痴漢被害に遭ったのは、六歳の頃だ)。
 私の詩には、そうした意味付けに抗うべく、家出する少女が登場する。

(いままでお世話さまでした。
「きみは孕みやすいから、おかあさんになるといいよ」
という天啓を浴びた誕生日の朝、ランドセルを残して家を出た。
声が海ならうたうたいに、疾風を漕げばランナーに、髪を振り乱せばおんなになれる。そのことを、あたしはこれから証明しに行く)

        「あたしは天啓を浴びたのだ」『屋根よりも深々と』(思潮社)

 この詩で描かれた闘いを、件の男性どのように読んだのか。「女の子は多感だなあ」と、図書館でほのぼのと感じ入ったのだろう。男の人は無邪気だなあ。

「膝を閉じて座りなさい」「音を立てずに歩きなさい」など、女の子の躾は、身体の仕草に関する事項が中心だ。女性の「淑やかさ」「従順さ」は何よりの美徳とされている。だが、精神科医・斎藤環さんの対談集『母と娘はなぜこじれるのか』によれば、こうした女性教育は分裂を含むという。「身体においては他者の欲望をより惹き付ける存在であれ」という命令。一方で「自分の欲望は放棄せよ」という命令。この分裂したメッセージは、同じ女である母親から娘へ伝えられる。献身的な母親(支配)と、母親に罪悪感を抱く娘(被支配)の間に、身体性はくすぶり続ける。私自身、この意見には違和感がなく、すんなり理解することができた。
 ところが、対する男性は全く違うらしい。斉藤環さんと、心理学者・信田さよ子さんは、男性の身体性を巡って次のように話している。

 斎藤 身体の自覚がないんです。
 信田 ほう! ない?
 斎藤 これはご存じなかったでしょう。精神分析的には、男性は身体を持っていないんですよ。言い換えると、男性の身体は透明で、日常的に身体性をほとんど意識していないんです。

      「臨床現場から見た母と娘」『母と娘はなぜこじれるのか』(NHK出版)

 謎が解けた。外見に気遣わないことも、知識で武装することも、強引な精神論を振りかざすことも......。男性について不可解に感じていたことの殆どが氷解した。男性には身体性がないのだ。

 では、そんな男性たちはどんな世界で生きているのだろう。
 卒業後の進路に悩んでいたとき、知人の勧めで、某大学院の研究室を訪ねたことがあった(そこでは、芸術系の研究活動として小説や戯曲、批評の執筆が認められていた)。男性教授は「詩はアートではない。この学校では誰も詩の内容は評価できないし、詩に関心はないよ」と告げた。「あなたのやっていることは、あなたが詩の世界の人だから面白いのであってね。この学校に要らないよ」。
 私は詩人として、絵や写真の展示、ダンサーや音楽家のイベントに参加することがあり、「詩もアート」という考えに馴染んできた。詩の言葉によって、アートの可能性も広がると信じてきた。だから、その教授の反応は少なからずショックだった(逆に言えば、それまで出会った人々が、詩の在り方に寛容だったのだろう)。
 教授は、数枚の写真を取り出した。研究室に所属している学生の作品だという。「島に自分で穴を掘って、土壁を作ったんだ。こんなの、彼のほかに誰も作れない。新しいでしょう?」。泥土で塗りたくられたような写真は、得体の知れない化け物に見えた。「新しい」ってこういうことだったの? 悔しくて、その場でボロボロ泣いた。同時に、ここは私の居るべき場所ではない、とはっきりと悟った。
 だいぶ経ってから、教授に言われたことを、三〇代のアート系の編集者たちに漏らしたことがある。彼らは男性だが、職業的には完全な文化系で、普段は至って大人しい性格だ。そのときの彼らの反応が印象的だった。
「そんなことで心折れてるんですか? 文月さん、弱いですね!」
「その人を見返すくらいのものを作ったらいいじゃない。作品で見返してやりなよ」
 矢継ぎ早にそう言われて、とても驚いた。彼らの台詞は、まるで熱血スポ根漫画の一場面から引っ張ってきたようだ。「見返してみろ」というのは、確かに正論に違いない。その大学院を受験しなかった私は、傍から見れば「逃げた」のだろう。けれど、教授から評価されなかったとき「私の居場所ではない」とすんなり割り切ることができたのは、私が(社会的属性のない)女性だからではないだろうか。
「折れるな」「見返してやれ」と煽る男性たちを見て、はっとした。彼らは常に、こんな精神論に晒されて生きているのではないか。男性とは、社会の中で「逃げない」ことを義務づけられた窮屈な生き物なのかもしれない。

 同世代の二〇代半ばの男性と話していると、「これ言ったらヤバイ?」「セクハラになっちゃう?」とこわごわ聞かれることがある。私もそのような場合は「大丈夫だよ」とか「うん、セクハラだね」など、やや冗談めかして、率直に反応することができる。
 戦々恐々とした彼らの表情は頼りないし、いわゆる「男らしさ」からは遠いかもしれない。だが、女性への配慮が見える分(たとえ、ビビっているだけだとしても)私は彼らをとても素敵だと思う。「女性を喜ばせるためにそうしてくれ」とは言わないけれど(ある言動を強いると、それこそハラスメントに近づいてしまう)。
 私はときどき、異性への気遣いが一切無用な「性別のない世界」を夢見てしまう。だって、山も川も海も星も性別が無いではないか。そんな自然空間と同じように、「ありのままの自分」で誰かと寄り添うことができたら、と願う。だが、いざ性別を消して生きようとすると、かえって面倒事が増えそうだ。ぼく? わたし? それとも俺? 一人称すら迷ってしまう。第一に服装は? 髪型は? お化粧は? 脇の毛はどうする? この世はすでに、性の記号であふれているのだ。「ありのまま」への道のりはひどく遠い。
 異性と向き合うとき、私ははるかな距離を感じる。宇宙の果てを見つめている心地がする。相手の身体が、自分とは違う仕組みを持つことを知っているからだ。それは紛れもない「恐れ」であり、畏敬の念を含む「畏れ」でもある。他人の身体は、自分とは何から何まで異なるものだ。痛みの感じ方も違えば、体質も欲求も人それぞれ。他者との強烈な差異を意識することは苦しい。「自分の身体感覚を誰とも共有できない」という事実は、とてつもなく孤独だ。けれど差異を無視して、他人を同一視することも、ひとつの暴力といえよう。
 救いと言えるのは、男性の中にも女性性があり、女性の中にも男性性があること。女性詩人の詩に、男性的な勇ましさを読み取っても構わないし、男性の言動の中に女性的な淑やかさを見つけても良いはずだ。互いに共鳴したり、畏れたりしながら、異性とうまく付き合っていく。それは、身体を重ねることと同じくらい官能的で、心満たされる営みだと思う。

「私が男であることを初めて意識したのは、妻にプロポーズしたときですね!」という爆弾発言を聞いたとき、私は「そんなプロポーズは気持ち悪い!」と率直に思い、彼の奥さんに同情した。が、知人の女性(主婦であり、二人のお子さんを育てた母親でもある)がこんな風に笑いに変えてくれた。
「こういう能天気な男性はいらっしゃいますね。疑問点は明るく質問してみる......小学生か? きっと奥さんに楽々コントロールされていると思うよ。ふふふ」
 夫を手中に収めて、ほくそ笑む――。そんな奥さんの影を、男性の背後に重ねてみれば、少しだけ愉快である。同志を見つけたように心強い気持ちになった。そう、女性は男によって堕落するどころか、どこまでも現実に目覚めるのである。
 私はちょっとしたことで心が折れるし、面倒事からはすぐに逃げ出してしまう。島に穴は掘れないし、詩人のくせに「普通でいたい」と思う軟弱者だ。でも、世のセクハラには抗いたい。「臆病な女の子」を演じてたまるものか。
 堂々と言おう。恋人がいてもいなくても、セックスしてもしなくても、詩は書ける。どんなときでも、飛びきり良い詩を提供できる。今の私には、それが一番まっとうな現実なのだ。

Profile

文月悠光

詩人。1991年北海道生まれ、東京在住。中学生の時から雑誌に詩を投稿し始め、16歳で現代詩手帖賞を受賞。高校3年の時に出した第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』で、中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少受賞。近著に詩集『屋根よりも深々と』。雑誌に書評やエッセイを執筆するほか、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の作詞、ラジオ番組での詩の朗読など広く活動中。
http://fuzukiyumi.com/

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