kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年10月14日

「女は口を挟むな」という社会と、戦争での性暴力……『三つの窓と首吊り (Three Windows and a Hanging)』(第10回難民映画祭より)

unhcrfilmfes-s.jpg緑の草原、なだらかな丘陵、どこまでも青い空。アスファルトで固められていない道路。湿地か池の上に木の板を渡した橋は、人ひとりが歩ける幅しかない。小川のせせらぎ。大きな木の陰におじいちゃんたちが座って四方山話をし、言葉のあやから口論になり、「まあまあ」というとりなしが為される。画面のどこかで小鳥がさえずっている。道端に、黄色い花が咲いている。

こんな映画で描かれるのは、どんなドラマだと思われるだろうか。「決して豊かではないけれど、みんな幸せ」みたいな感動ドラマ? 「いろいろあるけれど、人と人とのつながりは何ものにも代えがたい」という人情喜劇? あるいは「村に迫る開発業者の手と、村人の抵抗をリアルに描く」方向性の“社会派”作品?

違う。

そもそも、この映画に「ドラマ」はあるのだろうか。「アンチ・クライマックス」もまたドラマであるのだが、それはきっと、「映画」というものに期待されている「ドラマ」ではないだろう。上映中、何人もの人が途中で席を立っていった。

『三つの窓と首吊り (Three Windows and a Hanging)』。イサ・チョシャ監督。製作は「コソボ、ドイツ」とクレジットされている2014年の劇映画を見る機会を、「第10回難民映画祭」で得た。コソヴォの映画を見るのは初めてだ。こういう機会を与えてくださることに、まず、感謝したい。
http://unhcr.refugeefilm.org/2015/three_windows_and_a_hanging/
http://www.imdb.com/title/tt2728458/

紛争を生き抜いても、紛争時に受けた性暴力がその後の被害者の人生を大きく変えてしまうという1つの現実をどうか知ってください。
http://unhcr.refugeefilm.org/2015/three_windows/





映画の舞台は、2008年に「コソヴォ共和国」として独立を宣言し、現在111カ国からの承認を受けているが(111カ国からしか承認されていないともいえる)、映画の出来事があったときにはまだ「コソヴォ自治州」と呼ばれていた「コソヴォ」の、全然都市化されていない丘陵地帯の小さな村である(なお、「コソヴォ」と書くか「コソボ」と書くかについては、当方は一応、英語表記のv音を「ヴ」で表すという俺的原則に従っている。日本語圏のマスメディアなどでの表記基準では、v音は「ヴ」ではなく「ブ」で表すことになっているので、私も必要があるときは「コソヴォ」ではなく「コソボ」の表記を使うが)。映画で見た感じ、この村の人口はせいぜい数百人だろう。

コソヴォは、大まかに、「多数派」のアルバニア人と「少数派」のセルビア人から構成されている。両者の間には「民族対立」があり、分住がなされているが、この映画の舞台となった村は、アルバニア人の村である。

ユーゴスラヴィア解体の過程で、コソヴォでは「紛争」が発生した。その前に既に、自治権の縮小というユーゴスラヴィアの中央政府の方針により、非暴力の抗議行動などが起きていたのだが、1995年にデイトン和平合意でボスニア紛争が終結したあともコソヴォでの状況は変わらず、非暴力の運動は武装闘争に変容した。アルバニア人の武装組織、KLAは、アメリカなどの支援を得て、セルビア軍・セルビア人(セルビア系住民)に対し、「低強度」と専門用語で呼ばれるような武力行使を継続的に行なうようになる(つまり「テロを行なう」ようになる)。それが1990年代後半のことで、「決着」したのが1999年のNATOによる空爆を経たあとの国連安保理決議1244号だった……というようなことは、この映画では言及もされていない。ひょっとしたらアルバニア語を理解しない私にはわからなかっただけで、登場人物たちが読んでいる新聞や、そこに流れているラジオなどで言及されていたのかもしれないが、字幕になっている分では言及はなかった(と思う)。「難民映画祭」では、そういったことは、映画上映前の「ゲストトーク」(というより「導入のレクチャー」)で、共立女子大学の黒澤啓(くろさわ さとる)教授(元JICAバルカン事務所所長)によってざっと解説された。(とてもよいことだ。)

私はリアルタイムで「ユーゴ解体」のニュースに接していたが、正直、あまりに複雑すぎて当時は「わけがわからない」だけだった。同年代から上の人には、そのときの印象のまま「単一民族国家日本では起こりえない紛争」(←カギカッコ内は他人の言葉の引用です。ここで「単一民族国家日本」と書いてるからといって私に絡んでこないでください。念のため)という認識で止まってしまい、「日本に生まれてよかった」、「平和なのは日本だけ」的な弛緩しきった自己肯定に走っている人も少なくないだろう。

個人的に、コソヴォについては具体的なイメージがつかめるようになったのは、NATOによる空爆から何年かした後、イラク戦争でまたぞろ「国際社会のお墨付きなしでの西側の大国の武力行使」(しかも今度はNATOですらない)が行なわれて憤慨しきっていたときに読む機会を得た本を通じてだった。新品で入手できるかどうか微妙になってしまっているが、下記のどちらかでは入手できるだろう。図書館にもあるはずだから、興味があれば検索してみてほしい

4582447104アメリカの正義の裏側 コソヴォ紛争のその後
スコット・タイラー
平凡社 2004-02-21

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さて。この映画の舞台であるコソヴォの小さな村に暮らす人々(アルバニア人)はイスラム教徒である。といっても服装は「西洋的」だし、女性はスカーフをかぶったりもしていない。村のカフェ(というか、おっさんたちのたまり場)ではアルコールも提供されている。つまり、ここにいるのは「文化的イスラム教徒 cultural muslims」と描写されるような人々だ(日本のうちらが「葬式仏教徒」であるのとあまり変わらないだろう)。この村の社会全体の基本である「女性蔑視」は、「宗教が原因」とは考えづらい。(この映画を見て「だからイスラムは」云々と言い出す人はほとんどいないだろうという作りになってはいるが、念のため。)

映画にはお酒(ラキ Rakiというフルーツを使った蒸留酒。度数40度とか)が出てくるし、人々はひっきりなしにタバコをふかしている。映画上映前に行なわれた黒澤教授による「コソヴォの生活についての説明」を聞いていなかったら「映画での描写から類推する」くらいのことしかできなかっただろうが、あのタイミングで説明を添えていただけたおかげで確信を持ってみることができた。

この映画は「コソヴォについての映画」というより、「強烈なほど父権主義(という言葉を黒澤教授は使われている)の社会で、女性に対する性暴力がどのように対処されているかということについての映画」である。一言で言えば、「女は黙っていろ、というのが当たり前の社会についての映画」である。別の言い方をすれば、「男には無条件で認められている権利(人権)が、女には認められていない社会についての映画」、オブラートに包んで言い直せば「男の有する権利と、女の有する権利は異なるのであり、それに何か問題でも、という社会についての映画」である。

ここには、性暴力の被害者となってしまった女性への支援はもとより、同情すら一切ない。コミュニティ内部には、話を聞き、肩を抱き寄せ、ともに涙を流し、それについて映画を作ってくれるアンジェリーナ・ジョリーはいない。問題を「問題だ」と指摘するマララ・ユスフザイも、今のところいない。

そしてそういう社会は、決して、陰惨な見た目をしていない。陽光が満ちあふれ、開放的で美しい緑の地で、人々はお互いに手を貸し合って生活を営んでいる。

映画のオープニング。のどかな田園、小川のせせらぎの脇にそびえたつ1本の大きな木の下に、3人の高齢の男性が座って、四方山話をしているうちに、「しきたり」がどうのこうで2人が感情的になり、言い合いになる。3人目の老人(この人は声帯を失っていて人口声帯で話をしているが、その理由は映画では示されない)が仲裁に入る。「紛争」と「調停」。

画面が暗転して切り替わり、大きな窓のある室内で、英語を話す中年女性が、少し若い女性を隣にして、テーブルのこちら側の女性にインタビューをしている。こちら側の女性の姿は後姿のみで、それもほとんどカメラにはとらえられない。中年女性の英語を、少し若い女性がアルバニア語に通訳し、テーブルのこちら側の女性が答える。「そのとき、何人いましたか」。「4人です」

テーブルのこちら側の女性は、紛争(戦争)中にレイプされたことを、英語圏のジャーナリストに語っている。「私だけではない。ほかに3人が被害にあった」。

村では、スイスの支援団体から寄贈された牛を受け取る簡単なセレモニーが行なわれる。あの大きな木の下に村人たちが集められる。あの大きな木は「ラミの木」と呼ばれている。集まった村人たちの中には、女の子もいるが、「家庭の主婦」っぽい年齢層の女性は見当たらない。壇上で、村長の紹介を受けて牛を寄贈する団体のスイス人がスピーチを開始する。女性の通訳者がそれを通訳する。

木の下でそれを聞いていた1人の高齢男性が、隣にいる30代の男に「あれは何て言ってるんだ」と尋ねる。30代の男は通訳者の言葉を繰り返し、「スイス人の言葉は、壇上の女性通訳者によって通訳されている」と老人に説明する。すると老人は、「お前は女の言うことなど信じるのか」とくってかかり、「女は信用ならん」と吐き捨てる。

この濃密な描写から、とても美しい田園の風景と鳥のさえずり声による場面転換を経て、平和な村の日常が描かれる。「ほんわか人情喜劇」のような描写で。水漏れを起こした水道管を30代の男が補修する。「ただでもらった支援物資」だから文句は言えないなどと軽口を叩きながら。子供たちがその後ろの原っぱで遊んでいる。

ここにも「紛争」はあった。男は戦いに行き、女たちが残された。そして性暴力が発生した。

そのことを、誰も語っていなかった。「村の社会」の外の、英語を話す記者のインタビューに応じた人が語る前は。

そこから始まる映画の「物語」は、まず、村長の家にクローズアップしていく。「ウカ」という名前の村長は、村で唯一と思われる食料・雑貨・タバコ店(よろず屋)を営んでいる。スナック菓子からペンキまで、何でも商う。彼には妻と10代後半と思われる娘がいる。村長は50代のようだが、妻は30代か、せいぜい40歳だろう。

そしてある日、村のカフェに、ニュースがもたらされる。水道管補修の現場を見ていた村長のもとに、自転車に乗った子供が伝令に走る。誰かが町から持ってきた新聞に、「レイプされた女性のインタビュー」が掲載された。

※以下、「ネタバレしないように」という配慮は一切なしで書いているので、ご注意ください。

村長がカフェ(壁にかかっている「水面の白鳥たち」の絵にも何か意味があるのだろうが、私には読み解けない)に行くと、もうみんなが集まっている(この店には女性の姿はない)。おやじが鳴らしているラジカセ(まだ本当にラジカセ)の音量を下げさせて、カフェにたまっている男性たち(主に高齢者)のひとりがその記事を読み上げる。テーブルが10くらいのスペースの隅々にまでその「ニュース」が響く。「NATOの空爆開始の3日前のことだった。村の男たちは従軍中だった。……」

男たちの吸うタバコの煙が、カフェの中にもうもうと立ち込める。おそらく自然光だけで撮影された映像の中の、重苦しい空気。

「誰のたくらみだ?」

この男たちは、その「ニュース」を、つまりその《秘密》をある程度は共有していたのだろうか。つまり、強姦事件があったことは知っていたのだろうか。そのころ、そういうことがあったのはこの村だけではなかろう。村の男たち(比較的若い者たち)が、戦いに行った先でそういう話を見聞きしたこともあっただろう。そういったことは、映画では直接は描いていない。

「あの紛争」を「この社会」で直接体験した人々は、ここに多くのものを読み取るだろう。無言のうちに。

草原、丘陵、青い空、のどかな村。記者に話をしたのは、小学校で教師をしているルシェだ。息子と2人で暮らす彼女の夫は、3年前に戦いにとられたっきり、帰ってきていない。

村長のウカは、強姦の被害者が誰かを知っている。カフェから家に戻り、妻に「あの女が、新聞にぶちまけやがった」と告げる。トイレ掃除の最中にそれを伝えられた妻の表情は、何を物語るのか。「恥」を外部にもらした女性を、女性として責めているのか。「勇気ある告白」をした女性を、内心、称えているのか。あるいは……? (ヤボなことを言うが、この場面は後々の場面への伏線である。)

村人たちから「先生」と呼ばれているルシェは村八分にあい、孤立する。村長のよろず屋は彼女の目と鼻の先でドアを閉ざし、開けようとしない。学校では子供たちに好かれていた様子だったのに、子供が学校に来なくなる。(この描写が、淡々としているのだが、きつい。)「新しい先生」が来るまでは、学校は休みだ。

たまりかねたルシェは、雨の中、単身で男たちのたまり場のカフェに乗り込んで抗議する。おそらく男しか立ち入らないことになっているのであろうカフェに、決然とした態度で入ってきたルシェは、ヒールの音を立てながら(この音響!)カウンターに歩み寄り、おやじにラキを注文する。どうしますか、と目で訴えるおやじに、村長が目配せして「出してやれ」と指示する。ルシェはショットグラスで出されたラキを口に含んで「おいしくない」と言い、おやじが「味のためではなく、酔うために飲むものだからな」と答える。

「子供たちをけしかけて学校に来させないようにするなどということはしないでほしい」と訴えるルシェに、村長のウカは「お前の居場所はこの村にはない」と冷笑的に言い放つ。ルシェは「私は夫の帰還を3年も待ってるんです。骨で帰ってこようとも待ってる。無理やりにでも追い出したいかもしれませんが、無駄ですから」と毅然と言い切る。

「男を気取る女は最低だ」

「女々しい男よりは、ましです」

村長は立ち上がり、ルシェに詰め寄る。「自分が女であることを神様に感謝するんだな。女でなかったら、そんな口のききかたができんようにしていたところだ」

ルシェは向き直り、「神様へのお祈りなら、ここに来る前に済ませてきましたが、何か」と言い返す。

カフェの中にいる男たち全員の注目を浴びながら、村長は「村の全員に恥をかかせた」と彼女を非難する。ルシェは「本当のことを話しただけです。それが恥だとおっしゃるのですか」と反論する。ウカは「お前は、自分にあんなことがあったからといって、私らの家族を壊そうとしている」と責める。カフェの中の男たちを見渡しながら、ルシェは新聞記者に語ったことを繰り返す。「私一人だけじゃ、ありません」

カフェを出て、1人の村人が歩きながら村長に問いかける。夫が帰ってこないルシェとその息子の世話を焼いていたと思われる(そういう描写がされている)ソコルという男だ。彼は「まめな奴」のキャラで、映画の初めの方の「戦争に行っていた男たちも戻ってきて、平穏さを取り戻してきた村」の描写の部分で、破裂した水道管の修理に悪戦苦闘している。善人なのだろう。良い人なのだろう。

「先生は自分以外にも3人いたと言っていた。誰なんですか」とソコルは問う。村長は「自分ひとりが恥の存在になりたくないから、ルシェは口からでまかせを言っているのだ」と言い張る。「村長、何を隠してるんですか」

見晴らしのよい丘の上の道で、取っ組み合いの喧嘩になる2人。村長がソコルをのしてしまう。

夜、寝室で掛け布団に包まる妻を、ソコルは背中からじっと見つめる。その場面がこの映画のスチールとしてチラシなどに載っている。



「どうしてそんなふうに見るの?」「先生が強姦事件について新聞に話をした。君が無事だったのはよかった」

彼の言葉を、彼女はただ聞いている。

翌日(だろうか)、ソコルが家に帰ると、2本の足の影が壁に映っている。映画の題名を知っている私たちはギクリとする。だがそれは、ソコルの妻が2階の手すりの間から足をぶらぶらさせて座っているだけだ。長かった髪をばっさり切った彼女は、「どう?」と、夫に向かってはにかんだような顔をしてみせる。

その翌朝。ソコルが目覚めると、隣に寝ているはずの妻はいなかった。

納屋の破れた窓の向こうから、ぶら下がる2本の足とスカートのすそとしての妻を発見するソコルをとらえるカメラ。

悲しみにくれるソコル。村人たちの弔問(野っぱらの真ん中にベンチを並べて、男たちは座る。女たちは屋内)。「お悔やみを」、「ご愁傷様です」という形式的な挨拶以上の言葉はないようだ(少なくとも、英語字幕・日本語字幕で見る限り)。スーツケースを引き、息子の手を引っ張ったルシェが、そこをたまたま通りかかる。

息子に「ちょっと待ってて」とスーツケースを預けてソコルに挨拶に行ったルシェが戻ると、息子は自宅に戻ってしまっている。

「パパを待つ」、「パパはもういないの。帰ってこない」

結局、ルシェも家の中に戻る。

こういったことが、非常にねっとりとしたペースで語られる。音楽は、カフェでかけられている古めかしい流行歌だけで、効果のために付け加えられた「映画音楽」は皆無だ。

最終的には、ルシェの夫が突然帰還する。その場面も「感動の再会」の描写はない。ひょっとして、文化的に日本のそれに似ているのかもしれないが、この映画の中のコソヴォの人々の身体的接触は、極端に少ない。やたらと抱き合ったりしない。感情も抑制的だ(高い木が生えていない開放的な緑の園だから鬱屈したようには見えないのだが、実はとても重苦しい空気が充満している)。

帰還した夫が熱いシャワーを浴びながら「石鹸って、いい香りだなぁ」などと、いかにも「抑留帰り」の感慨に浸っているときに、ルシェは夫が不在の間に自分がさらされた性暴力について語る。シャワーカーテンの向こうで、夫が固まる。カーテンの向こうから、夫がルシェを見る。その目つき!

待ちわびていた夫が帰ってきて、ルシェは自己決定権を夫にゆだねる。「私をどうするかはあなたが決めてください」というように。

ここまで孤独に戦ってきた彼女は、「夫の決定に従う」という選択肢を回復して、ほっとしているのだろうか。それはわからない。夫には村長から直接、「お前が戦争に行っている間にルシェが別の男に犯され、ルシェがそれを新聞記者に語った」ことが告げられる。映画の物語はここで終わる。

何も解決しないし、何も進展しない。

ルシェが村から出て行ったのか、家族ごと村から出て行ったのか、あるいは戦争帰りの夫は「そういう現実」を受け入れられるような人で、妻をかばいながら村で暮らせるようにしているのか、そういったことは語られない。ただ想像するよりない。

現実に、どんなことがありうるのか、と。

カフェでおやじがしじゅう流していた音楽は、客(村人)の1人がおやじにあずけているカセットテープのものだった。室内でも野球帽をかぶり、飲んだくれているこの村人は、このカセットテープをカフェにあずけ、いつも聞いていた。自宅には再生するための機械がないのだろう(戦争を前に、個人の財産など無防備なものだ)。カセットテープを知っている人じゃないとわからない描写かもしれないが、最後、このテープが伸びてヘッドに絡まってぐじゃぐじゃになってしまう。おやじが野球帽の村人に「壊れた」と返すところで、そのテープが、戦争に行って帰ってこなかった息子の形見だということが観客に知らされる。「味わうためではなく酔うための酒」に浸っている彼の悲しみに、しっかりと焦点が当てられる。この社会では、きっと、個人の感情は共有されるべきものではなく、個人の内に、家の中に、封じ込めておくべきものなのだ。村人は自分の悲しみを「自虐ギャグ」にしてしまう。「こんな酒くさいじじいは、お迎えの天使だって連れて行こうとはしないよ」

「カフェでいつも流れている音楽テープの主」だったその息子の存在は、もう、彼を知る人の記憶の中にしかなくなってしまった。

村で起きた性暴力も、それを直接知る人の記憶の中だけに留められていれば、「問題」にはならなかったのだろう。

死んだ男のカセットテープの音楽は村人の間で共有されるのに、女性たちに対する組織的暴力の事実は共有されない。それを共有することなど、考えられない。それは「恥」だから。夫たちは妻を、「同情」ではなく、「疑い」の目で見るようになるだけ。「レイプ」という言葉は、それが何かを知らない子供しか使わない。ルシェの息子(小学生。10歳くらい)は食卓で「ねえ、お母さんは“レイプ”されたの?」と尋ねる。あまりにもさらっと口にするその言葉。友達から聞いた言葉をただ繰り返しているのだろう。ルシェは目に見える反応を示さない。

戦争で何があったのか……それはこの映画の中で、女たちの言葉だけで語られる。そのとき、村に敵がやってきて、家を1軒1軒回った。ルシェは息子をトランクに隠したが、ドアをこじ開けられて男2人に連行されてしまった。無理やり歩かされてたどり着いた先はあの「ラミの木」の下で、そこには既に3人の女たちが連れて来られていた。(その「敵」が「セルビア人」であることは、英語字幕・日本語字幕を見る限りでは、明示されていなかったと思う。「言うまでもないこと」なのだろう。)

いや、女ばかりではなかった。いつも夫の言うままに行動していた村長の妻が、ついに自身の感情を爆発させるシーンに描かれている。(映画のプロデューサーのVimeoアカウントより)

TWAH Scenes from Shkumbin Istrefi on Vimeo.



「社会のファブリック」をずたずたに引き裂くことを目的のひとつとする「戦争の兵器」としての性暴力。それがそういうものだと国連の場で認められたのはつい最近のことだ

ルシェが息子を連れて一度家を出ようとして戻ってきた後、息子が家の前に木を植えていた。「もっと植えてほしければもっと植えるよ」。木は根を張り、大きく育つだろう。何百年かすれば、あの「ラミの木」のようになるだろう。

これはきっと、「お母さんのことはこれからは僕が守る」という宣言だろう。

子供たちが「新しい先生が来たから、学校にいこうぜ」と誘いに来るが、彼は無言のまま、応じなかった。

この「新しい世代」は、村のこの空気を変えていくんだろうか。

村長の娘は恋人と出奔してしまった。冒頭の「ほんわか人情喜劇」のようなパートで、いかにも「映画文法」そのもののお約束(目配せなどの身体言語)で関係が描かれていた「村で唯一のモーターバイクの持ち主」がその恋人だ。村長のウカはこの「ちゃらちゃらした男」を認めてないし、彼も腕っ節の強い村長を恐れていておどおどしている。

この3人が直接、開放的な空間で向かい合うシークエンスがある。若い男が年長の男に向かって、「僕はきっとお嬢さんを幸せにします」と宣言し、年長の男は怒りながらも最後は「好きにしろ!」と言い捨てて去ってゆくという場面……であるかのように期待させて、何も起きない。若い男には、そう宣言する勇気がない。それでも娘は、父親の側でなく、彼の側に立つ。

今、この文章を書きながら映画を反芻して、この場面は「実は強いのは女だ」ということだったのかな、と思う。妻が何かを言おうとすると「女は口を挟むな」と言うのが「当たり前」の社会は、「変わる」可能性があるのだろうか。女にとって、夫や父親は「やさしく抱きしめてくれる」存在ではなく、「口答えをするな」とわめきちらし、気に食わないことがあれば暴力をふるう存在である。そんな社会で、自分のことは自分で決めるという自己決定権を、村長の娘は行使しようとした。

映画は、劇中では明示されていないと思うが、戦争が終わって1年ほど後のことだという。

最後のエンドロールにも、音楽はなかった。完全に無音の中で、黒地に白の文字で、スタッフとキャストの名前が流れていく。

プロデューサーがVimeoにアップしている予告編(2通りある)。
※こちらは、「帰還した夫」と村長の会話が出てくるバージョン。

Three Windows and a Hanging Official Trailer from Shkumbin Istrefi on Vimeo.




※こちらは、「スイスからの支援の牛の引渡しの式典」と「息子の遺品のカセットテープ」の野球帽の村人が出てくるバージョン。

Three Windows and a Hanging Official Trailer 2 from Shkumbin Istrefi on Vimeo.



同じく、プロデューサーがアメリカのメディア(VOA)用に作った映画の抜粋。

Material per media Voice of Amerika from Shkumbin Istrefi on Vimeo.


※これを見ると雨の場面が多いように見えるけど、実際には晴れて穏やかな風景がほとんどだったと思う。

映画が終わった瞬間、「映画を見た」という感覚より、「舞台劇を見た」感覚をいだいた。



終映後、再び黒澤啓・共立女子大教授が登壇され、「難民映画祭」の中にこの映画を位置づけるためのレクチャーが行なわれた。映画の中には国連が「難民」と扱うような人は出てこないが、コソヴォ自体は、15年以上前に一度「難民」として出て行った人たちが帰還を選択できない状況にある。その中で、人々の帰還を可能にするために必要な「民族和解」の取り組みがなされており、黒澤教授はJICAの現地事務所でその仕事をしてこられた方である。

コソヴォは1999年3月24日から78日間、NATOの空爆を受け、同年6月に和平案受け入れと国連安保理決議1244号で紛争が終結したが、黒澤教授は早くも1999年8月にプリシュティナに入り、脱出していった人(セルビア人)が戻れないように家屋が破壊されている光景などを目撃し、それを記録してこられた(今回の上映前のレクチャーで写真が示された)。「戦争」が終わったプリシュティナの街路では子供たちが楽しく遊んでいたが(そのほほえましい写真も示された)、「今日の映画のようなことがあったとは、当時は知らなかった」と述べておられた。

上映前と終映後のレクチャーから、黒澤教授がこの映画について説明なさったことをいくつかメモしておく。

映画冒頭で「被害者である女性(ルシェ)」に聞き取り取材を行なっている「英語を話すジャーナリスト」を演じているのは、2007年の『サラエボの花 (Grbavica)』(→日本公開時の公式サイト)で主演したミリャナ・カラノヴィッチ。セルビア人の俳優(女優)だ。『サラエボの花』についてはこちらこちらに「ネタバレ」のレビュー・感想がある。(90年代のバルカンでの「戦争の武器としての強姦」が、要するに「セルビア人のタネを増やす」ことを人海戦術で実施した「民族浄化」の手段であったことにも留意が必要である。)

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『三つの窓と首吊り』は、第87回米国アカデミー賞(2015年)の外国語映画賞部門へのコソヴォからの初の出品作となった(アカデミー賞のこの部門は、各国から毎年1作品ずつ出品された中から選ばれる。ちなみに同じ年に日本からは『そこのみにて光輝く』が出品されている)。

監督のイサ・チョシャ (Isa Qosja) は66歳で、ユーゴスラヴィアの時代から映画を作ってきた。IMDBを見ると、「1947年、ユーゴスラヴィアのモンテネグロ、Gusinje近くのVusanjeに生まれた」とある。IMDBには70年代、80年代の仕事が並んでいる(が90年代の仕事は掲載されていない)。ウィキペディア英語版にもエントリがあり、それによるとアルバニア人で、プリシュティナ大学で教えている。80年代の映画には、共産党のアルバニア人に対する弾圧を描いたものもある。11歳年上の兄、Rexhap Qosjaは文学者で政治家で、なかなか強烈なアルバニアン・ナショナリストのようだ。

この映画について、監督自身の言葉がUNHCR駐日事務所のページにある
この作品を撮ったイサ・チョシャ監督は「とても難しいテーマで、作品として作りあげるのは大変でした。登場人物は心に複雑な感情を抱えていて、常にギリギリの精神状態で生きています。観る人が辛くなる映画を撮りたくないという気持ちと同時に、この映画に登場する人物が生み出すドラマと関係性を描きたい、逃げたくない、とも思ったんです」とその想いを語っています。


黒澤教授のレクチャーでは、この映画についての「あらすじ」的なものが示されたときは、セルビアから「またセルビアが悪いという映画か」という反発が起きたが、実際に上映されたら(こういう映画がセルビアでも上映されているということも注目に値する。うちらが聞かされているほど「戦争犯罪」への態度がかたくななのかどうか)大喝采だったということも紹介された。「加害者」のセルビアを(一方的に)断罪する映画ではなく、状況全体を描いた映画として受け入れられたのだろうと思う。その絶妙なバランスは、「被害」は常に「受動態」で語られていることの上に成り立っている。「セルビア人がレイプした」ではなく、「村の女がレイプされた」と。

手元のメモから黒澤教授のお話の内容を可能な限り復元すると、「コソヴォからセルビアを一方的に非難する映画だったとしたら民族和解は難しいが、イサ・チョシャ監督はこの映画について、こういうことは世界中の紛争で起きているのであり、そのときに人間がどう行動するのかを描きたかったと述べている」。

どちらか一方が加害者で、もう一方は常に被害者であったというのではなく、双方が加害者であり、被害者でもあるという全体の中に《語り》を位置づけることは、何よりもまず「双方が加害者であり、被害者でもあった」ということを認めることによって、「和解」の基礎の一部となるだろう。

こじらせると北アイルランドみたいに「whatabouteryの無限ループ」になるかもしれないが。(^^;)

黒澤教授のレクチャーは、スライドをたくさん使った、大変に内容の充実したものだった。上映前には「コソヴォとはどのような場所か」、「コソヴォでどのようなことがあったのか」がわかりやすく説明された。人種分布を示したマップ、セルビア正教の総本山、ペーチの写真、セルビア人エンクレーヴのこと(コソヴォは、EU加盟国ではないが通貨はユーロを使っている。しかしセルビア人エンクレーブ内ではセルビアの通貨が使われている)、1996年から1999年のコソヴォ紛争、NATO空爆、国連安保理決議1244号について……と、NATO空爆を礼賛しない立場からのバランスの取れたレクチャーだった。NATO空爆については「国連のお墨付きなし」、「アルバニア人にとっては空爆のおかげで独立できた」、「しかしNATO空爆により民族対立が悪化したと言う人もいる」と説明されていた。NATO空爆でのクラスター爆弾や劣化ウラン弾の使用についても言及があった。

コソヴォの独立派(KLA支持者)の間では、NATO空爆に踏み切った米クリントン大統領と英ブレア首相が、ほとんど「崇拝」といってよいほどに礼賛されているというのだが、黒澤教授のレクチャーではクリントンの礼賛されっぷりが写真で紹介された。社会主義風味の銅像など、やはり笑えるようで、黒澤教授が「ちょっと北朝鮮にある銅像のようです」と片手をあげた姿のビル・クリントン像(例の、「建国の偉人を称える大通り」であるビル・クリントン大通りの像)の写真を紹介すると、会場から笑いが漏れていた。あれが2009年に作られたっていう事実がすごいよね。同時代の出来事だよ、しかも「西側」での。

終映後のレクチャーでは会場からの質問も受付られた。「セルビア側の被害について」の質問では、紛争中のセルビア人(セルビア系住民)に対する迫害のせいで、「2011年になっても、怖くてコソヴォに戻れないセルビア人がいる」ということが説明された。「難民センター」(「難民」のための施設は「いつか帰還する日までの一時的な居場所」という前提で設計されるので、粗末である)に住んでいる人々の写真がスライドで示され、コソヴォにあるセルビア正教の古い宗教施設は世界遺産に登録されているが、危機遺産リストにも載っていることが説明される。

そして、「誰が加害者で誰が被害者であるかをはっきりさせないと、和解は難しい。現状、罪悪感を抱いているのは被害者であるという社会で、その社会を変えていかねば」ということが語られ、黒澤教授ご自身が関わってこられたバルカンのポスト紛争社会への日本からの支援についての紹介がなされた。例えば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスレブレニツァでJICAによって行なわれている「農業を通じた和解促進プロジェクト」(一緒に作物を育て収穫するという共同作業による和解)、コソボ・コソボフィルハーモニー交響楽団の首席指揮者の柳澤寿男さんの活動や、楽器の寄贈という支援。

現在、コソヴォでは国会議員の3割が女性だという。大統領も女性だ。しかし社会の中の伝統は以前のままだという。コソヴォのあちこちの町や村で「都会の文化とわれわれのしきたりは違う」とかいう言い訳が多用されているだろうし、「西洋に媚を売らねばならない中央の政治は、われわれの伝統とは違う基準で動いている」などとも言われていることだろう。

黒澤教授のスライドより:


※Man is a head of the house, woman is a neck of the head. というのは、「女がいないと男は立ち行かない」と言っているようで、実は、「女は表にしゃしゃり出るな、女は縁の下の力持ちであれ」と言っている。

紛争中、コソヴォ独立を目指した民族主義過激派は、セルビア人(セルビア系住民)たちを追い出した。その人々が「難民」となっているが、帰還は「終わらない課題」であり続けている。

黒澤教授のスライドより:





追記:




※この記事は

2015年10月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼