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三角形は、やさしく区民を見つめる手稲の山々と、未来に向かって限りなく発展を続ける手稲区を象徴する。
曲線は、手稲の歴史を刻む「軽川(かるがわ)」と、人情味あふれる区民相互の協調と連帯のひろがりを表す。
色彩は、木々の緑、さわやかな水辺、澄みきった青空を表現し、これらの豊かな自然を大切にする区民の心意気を表す。
平成2年3月制定
<色指定>緑→Y100%+C100% 水色→C100% 青→M50%+C100%
手稲区は、市の北西部に位置し、南東は手稲山の山頂から新川にかけて西区と、西は手稲連山の尾根を境として南区・小樽市と、北東は北区・小樽市・石狩市と、北西はおたるドリームビーチのある小樽市と接しています。
面積は56.92平方kmで東西に10.9km、南北に9.4kmの広がりをもっており、札幌市の中では10区中6番目の広さを有しています。
手稲区は市内でも極めて自然に恵まれた地域であり、特に南西部に位置する手稲山(標高1,023.1m)は、四季折々の豊かな自然に恵まれ、手稲区のシンボルとなっています。手稲山にある星置の滝や乙女の滝は訪れる人に雄大で美しい姿を見せており、手稲山北尾根ルート(自然歩道)や山頂からは眼下に広がる札幌の街並みや日本海、さらには遠く増毛連山などの素晴らしい眺望を楽しむことができます。
また、手稲山は、春には山菜採り、夏・秋には登山やハイキング、冬にはスキー、スノーボードなど、四季を通じて絶好のスポーツ、レクリエーションの場として、市民から親しまれています。
そのほか、手稲山を源として軽川(がるがわ)、三樽別川(さんたるべつがわ)、中の川、星置川などの河川が市街地を流れており、魚や昆虫、水鳥が数多く生息しています。
手稲は、明治の初期に北海道の開拓を支える交通の要所として開けた街です。開拓当時、主に小樽港を基点に物資の補給が行われていたので、軽川(現在の手稲本町)やサンタロペツ(現在の富丘)が、小樽港から開拓使本府の置かれた札幌への陸上輸送の中継点となりました。
このように物資の集散地区となった軽川やサンタロペツには人々が集まり始め、集落が形成されるようになりました。明治の中ごろになると手稲山口に山口県から、星置には広島県からそれぞれ入植者があり、農耕地の開墾を始めました。また、不毛の地であった前田や新発寒は、酪農を主とした農場へとその姿を変えていきました。
明治の終わりには、新川の川辺などで土器のかけらが発見され、昭和に入ってからも完全な形の土器が見つかり本格的な発掘調査が行われました。その結果、約4000年前に先住民族が生活していたことがわかり、この遺跡は「手稲遺跡」と名付けられました。
明治の中ごろには手稲山で金鉱脈が発見され、昭和10年代には鉱山が最盛期を迎えました。当時東洋一といわれた選鉱場をもち、にぎわいを見せていた鉱山も、戦後次第に衰退し、昭和46年に閉山しました。
昭和42年、手稲町は札幌市と合併。以後新興住宅地が次々とでき、発展のスピードも急ピッチになりました。昭和47年に札幌市の政令指定都市移行に伴い(旧)西区となり、また、札幌冬季オリンピックが開催され、アルペン競技やボブスレー、リュージュ競技の会場となった手稲山は世界にその名を知られるようになりました。平成元年11月6日、人口の著しい増加に伴ってそれまでの西区から分区し、いまの手稲区が誕生しました。
手稲区は、手稲町時代からの市街地と昭和40年代以降開発された新しい地域で構成されています。平成21年11月6日に手稲区区制20周年を迎え、分区から20年余りで30%以上も人口が増えています。
人口は平成23年8月に14万人を突破し、平成27年1月1日現在140,832人(58,041世帯)となっています。
手稲区では、手稲の歴史的な資料の把握、保存に支援を行い、区民が郷土の歴史にふれる機会を設けることによって、地域への愛着が深まり、まちづくり活動への参加意欲が高まることを目指し、ふるさと手稲歴史発見事業を行っています。
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