人類は、病苦と貧困という地獄からどのように抜け出したか。数百年に及ぶ「大脱出」の歴史を、アメリカを代表する経済学者の一人である、プリンストン大学のA・ディートン教授が壮大なスケールで描いたのが本書である。これまで一緒に論じられることが少なかった、健康と成長との二本立て構造になっている。アメリカでも大きな反響を生んだ。
著者は、人類が病苦と貧困からの「脱出」に成功してきた歴史を、大きな進歩として肯定的に評価する。長期統計に基づくその説明ぶりは、経済学者らしく統計の見方に細心の注意を払った行き届いたもので、読者の知的興味を刺激する。
しかし、著者は手放しで喜んでいるわけではない。本書のタイトルは、J・スタージェス監督による1963年のアメリカ映画『大脱走』(原題はともにTHE GREAT ESCAPE)に由来する。この映画では、ドイツ軍の捕虜収容所からの脱走に成功したアメリカ兵はごく少数で、大多数は収容所に残されるか殺害された。本書が注目するのも、「脱出」できなかった多くの人たちの存在である。
成長の恩恵を十分に受けない貧困層が増え、所得格差は国内、国家間でともに拡大しつつある。低所得国では、多くの子供たちが病苦と戦っている。すべての人が病苦と貧困から抜け出せたわけではない。人類の成長の歴史は、格差の歴史でもある。その現実を冷静な筆致で描写していく。これも本書の大きな魅力である。
ただし、正直なところを言わせてもらうと、その格差に私たちがどう向き合うかという問いかけには、本書は明確な回答を提示していない。もちろん、最後の章では低所得国に対する現在の援助のあり方を痛烈に批判し、改革の方針を示している。
しかし、成長や健康に対する重厚な叙述とは対照的に、助けを必要とする者に対する支援のあり方については全体の15%ほどの頁(ページ)数しか割いておらず、しかも海外援助の話に絞っているので、読者はやや物足りなく思うだろう。また、本書の最初の部分では、幸福という主観的な概念をめぐる議論もあって興味深いが、成長や健康、格差との関係についてもう少し掘り下げてほしかった。
本書全体を貫くトーンは楽観的である。私たち人類には「大脱出」に成功した経験がある。だから、いま存在する、そしてこれから生まれる格差も解決できるはずだ――と。映画『大脱走』の主題曲が明るかったことを思い出した。
(一橋大学教授 小塩 隆士)
[日本経済新聞朝刊2015年1月18日付]
A・ディートン
伝統の「くくりわな」を仕掛ける。鹿がかかった。頸(けい)動脈に刃を向ける。血が流れる。
「命に感謝」「命は平等」
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「なんて言葉はやはりきれい事で胡散臭(うさんくさ)く思える」
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表…続き (10/9)
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