一億総活躍担当相という役職が設けられたらしい。どんな役職なのか、詳しく知らない。ただ、またか、という気持ちである。
英訳を見ると、一億というのは全国民の比喩であるようだ。Minister in Charge of Promoting Dynamic Engagement of All Citizensだそうから。凄まじい言葉の連なりではある。オールシチズンのダイナミックなエンゲージメントのプロモーションを担当する大臣。果てしなきルー語感に言葉を失う。
言葉を失ったのは自分だけではないようで、石破さんも言葉を濁した。「突如登場した。国民に戸惑いがないとは思わない」とのことである。話がやや横道に逸れるが石破さんのこうした国民感情の代弁が、マスメディアとの関係でゆるいガス抜きになっているケースをときたま目にすることがある。
話を戻す。全国民とは何か、活躍とは何か、労働可能な人々のみがCitizenなのか、思いつく問いはいくらでもあるが、目的もなくだらだらと言葉の意味を問いただしたいわけでもない。そもそも考え抜かれた意味などないのだろうと思う。
1.3億人近い日本の人口のうち、労働可能な人口が1億人程度であり、彼ら彼女らにしっかりと働いて稼いでもらいたいくらいの気持ちでつくった言葉だろう。国民にとってわかりやすい言葉だ、そう考えてつくったのだと想定する。
では、わかりやすさとは何か。
わかりやすく見える言葉が、とてつもない違和感を覚えさせることはよくある。その意味で、今回の件はひとつのあるあるであり、感想としては、またか、となる。
地方創生という言葉もそうだ。地域でも、活性化でもなく、地方創生。創生という言葉のどうしようもなくいきった感じはさておき、その意味をきちんと理解できる人も、説明できる人もおそらくいないだろう。
私は説明できる、とどこかの新聞や雑誌でなされた言葉の解説文をそらで読み上げるひとはいるかもしれない。しかし、その解説を聞いた人はやはり理解できないだろう。理解できるのは、地方創生という言葉をそういうふうに定義して使っている人々がなぜか存在している、という不思議な事実だけである。
さて、地方創生である。石破さんに再登場願いたい。彼は地方創生担当大臣、英訳するとMinister in Charge of Regional Revitalizationである。
リ・バイタライズというのだから、かつてはバイタルだったと言いたいのかもしれない。しかし、いまとかつての間に横たわっているのは断絶ではなく連続性だとしたら、この言葉自体が宙に浮かんでしまう。
バイタルだった戻るべき過去など、果たしてあったのだろうか。むしろ、いまの地方のあり方はかつての地方のあり方からほぼ直線的に生み出されているのではないだろうか。こんな疑問も浮かんでくる。
そもそも中央と地方をそう簡単に切り分けられるだろうか。地方という言葉を使った途端、中央と切り離された地方が浮かび上がる。しかし、それは浮かび上がっているだけで理解はできない。そういう言葉ではないだろうか。
中央と地方の関係を論じることなく、過去と現在の連なりを論じることなく、現在の地方だけを取り出して、創生じゃーと突っ走る。重ねて言う。創生とは何かを誰もわかっていない。元々意味のある言葉ではないからだ。
1億も地方も同じである。総活躍も創生も同じだ。言葉に明確な意味はなく、気合いだけが元気に空回りしている。
統治者がわかりやすく見える意味不明な言葉を使うとき、被統治者はわからないという違和感をストレートに表明したほうがいい。
被統治者が統治者に異議を申し立てるときもまた、わかりやすく見えるが意味不明な言葉を使わないほうがいい。
明晰でない言葉は、理解を妨げる。理解できないのは相手だけではない。自分で何を言っているのかわからなくなる。残るのは気合だけだ。気合しかないとき、コミュニケーションは成立しない。気合だけで成立するもの、それは動員である。
思考を目的とした言葉は一見どんなに難しそうでも考えれば理解できる。動員を目的とした言葉は一見どんなにわかりやすく見えても理解するのは不可能だ。
統治者も、被統治者も、それぞれが思考ではなく動員を目的とした言葉を使うとき、そこに暗い時代の訪れを感じる。注意してほしい。暗さと明るさは二つの切断された領域ではなく、地続きにつながった一つの平面である。
ダークサイドに陥るのは簡単だ。もちろん、戻ってくることも不可能ではない。(元々そこにいたかどうかはまた別として。)