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なぜ1+1は2なのか?
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有名すぎる話でエジソンが言ったのは
確かにりんごは1+1で2になるけども
その計算する対象を変えれば1+1は1にも
なってしまうという疑問。
もしこんな質問を小さい子にされたら
咄嗟に返せる言葉はでてこない。強いて言うなら
褒めると思う。どうしてそんなことに気が付けたか
もうその着眼だけで君は正解だと言いたいけど
実際、なぜ算数は2だと限定したがるのか・・
でもこれは世の中では結構ありがちなことにも見える。
表面上はそうしておくのがいいという問題が
あるいは問題を必要以上にややこしくしない為に
どこか途中で理性的に絶対的な答えを求めて
スマートに、シンプルに色々な人に伝え、納得させて
しごく正当な理論で正解を定めようとすることがよくある。
2ということにしておいた方が都合が良い。
つまりメリットが多い。だから理屈に、多数派に従い
そういうことにしておこうという具合だろうか。
実際には、1と1を足して100%2に変化する保障は
どこにもないのに、その証明すらも理屈立てて求めようとする。
ホントは正論でも絶対なんてどこにもないはずなのに。
しかしそこには形式的な美しさが含まれている。
けれど否定する真理への疑問にも美しさが含まれている。
多数派と少数派の戦いがそこでは起きていて
そこではもちろん少数派は劣勢だが、新しい可能性を
提示するという意味では双方の利益にもなっている。
誰もが陥りがちな、正論で固まった多数の思い込みに対して
その一石を投じただけで非常に価値がある意見だ。
枠にはまらない単純な疑問こそ、次の発展が見込める。
それは形式の問題に対して、形式でない見方から
否定することに価値があるので肯定も否定にも
両方役割があり、何が正解とかが正解ではなくなる。
どちらも間違っているわけではなく、正しい。
だが2にしといた方が経済も回るし
少なくとも今の世の中にとっては利潤が多い。
だから1+1の答えは2になる。
すべては都合と時代によって答えが求められている。
その正しさよりも、現在の価値観を優先するべきなので
残念ながら1+1=1の意見は却下しないといけない。
しかし、もう少し先の時代では
その一石の波紋が全体に広がった結果
今とは全く異なった価値観が多数派となり
1+1=1となる世界が形成されるかもしれない。
ただそれだけの違いでしかない。
つまり幼少のエジソンのその発言は既に新しい世界を
見越した発言であり、そして実際に全く新しい発明を
発達させた。そして世界の価値観が様変わりした。
単純な疑問が世界の有り方を変えてしまった。
具体的にいえば、既存の概念を破壊し進歩した。
その発想そのものが、人にとって必要不可欠で
時には全体に著しく良い影響を及ぼすことも多い。
いつまでも1+1=2だけじゃ進歩できない。
たとえ偶然であっても、いつまでもこういった
子供のような心で素直な疑問が閃くようでありたいなぁ
って、子供だからって必ずしもエジソンのような
疑問を誰もが投げかけるわけじゃないが
もしもそういう子がいたら、他と違う意見を持った子が
いたらその意見を大切にする時代が今にやってくる。
なんとなく、そんな気がしている。
1+1=1に、本当になるんじゃないかってくらい
世界の価値観が根本的にひっくり返りそうな時代が…
n∈Nは「nは集合Nの元」または「nは集合Nに含まれる」ことを意味し、X⊂Yは集合の包含関係、すなわち「XはYの部分集合」であることを表す。またf○gは「写像fと写像gの合成」を意味する。s(N)は「写像sによるNの像」を表す。
1.自然数の体系
まず、自然数とは何かと突き詰めていくと、次の公理を満たすものであることが分かる。
集合N、その中の一つの元0(今は便宜上集合Nにゼロを含めて考える。そうしたところで「1+1=2」の証明には何ら差し支えない)、および写像 s:N→N の組 (N,0,s) が次の公理を満たすとき、Nの元を自然数と呼ぶ:
(P1) s:N→Nは単射である。
(P2) 0はs(N)に含まれない。つまり任意のn∈Nに対してs(n)≠0
(P3) S⊂Nで、0∈Sかつs(S)⊂S(すなわちn∈Sである任意のnに対してs(n)∈S)ならば、S=Nである。
これを「Peanoの公理」という。これから先の話はこれを前提として話を進める。
新しい用語として、n∈Nに対してs(n)はその「後継者」、写像sは「後継者写像」と呼ぶことにする。
2.帰納的定義の原理
以下に述べる定理が、これからの全てのキーとなる。この証明のよりどころは上記Peanoの公理のみである。
【定理1】Xをひとつの集合とし、Xの一つの元xと写像t:X→Xとが与えられたとする。その時次の性質(1)(2)を持つような写像f:N→Xがただ一つ存在する:
(1) f(0)=x
(2) 全てのn∈Nに対して f(s(n))=t(f(n))
(証明)本来これが全てのよりどころなので、証明すべきであろうが、あまりにも長く難解なので、証明は本に譲りましょう。
この定理から特に、Peanoの公理の完全性、すなわち公理を満たすべき体系は一意的であることも示される。
3.自然数の加法
定理1を用いると、自然数の体系に加法を定義することが出来る。
【定理2】mを与えられた自然数とするとき、
(A1) f_m(0)=m
(A2) f_m○s=s○f_m
を満たす写像f_m:N→Nが一意に存在する。
(証明)定理1においてX,x,tをN,m,sとして適用すればよい。(終)
任意のm,n∈Nに対してf_m(n)をm,nの「和」とよび、「m+n」と書く(この時点では我々のなかの「当たり前」、例えばm+n=n+mのような法則が成り立つかどうかはまだ未知である。それをこれから確認していく)。条件(A1)(A2)によって
① m+0=m
② m+s(n)=s(m+n)
である。またNの恒等写像も明らかに(A1)(A2)を満たすから、全てのnに対して
③ 0+n=n
である。さらに少々面倒な計算の後
④ s(m)+n=s(m+n)
も導ける。これら①から④によって、我々の「当たり前」すなわち「交換律」m+n=n+m、「結合律」(l+m)+n=l+(m+n)という、自然数に於けるもっとも基本的な法則を導くことが出来る。すなわち
【定理3】自然数の加法は交換律、結合律を満たす。
(証明)上記①から④によるが、少々長くなるので文献におまかせ。
4.「1+1=2」の証明
上記のような予備知識を経て、我々はやっと本題にたどり着くことが出来る。まずその前に「1+1=2」の何を示したいのかを考えておく。それは、
(*)『「1」の後継者が集合Nのなかに存在する』
ということである。「2」という記号はあくまで「記号」であって、重要なのはその「2」という「記号」によって表される数が、きちんとPeanoの公理に基づき、集合Nのなかに存在するかどうかである。
さて、s(0)、つまり「0の後継者」を「1」という記号で表せば、①②によって
⑤ s(n)=n+1
である。すなわち『後継者写像sは、“「1」を「加える」写像”n→n+1 に他ならない』のである。
ここまでくれば「1+1=2」を示すことが出来る。
s(1)、つまり「1の後継者」を「2」という記号で表せば⑤より
s(1)=1+1
∴ 2=1+1 (証明終)
以上が証明のアウトラインです。ここまで見てみれば、「1」や「2」という「記号」は全く本質的ではなく、結局(*)や⑤が一番重要なのである。
どうでしょう。れりっくおんさーどさん、お分かり頂けたでしょうか?
きっと難解なので難しかったと思いますが、「1+1=2」の証明がこんなに無機質なものなのかということは分かっていただけたと思います。
数学者と統計学者と会計士の3人が、ある会社の入社面接を受けた。
まず数学者が面接会場に入室した。
面接官は、「1たす1はいくつですか?」と質問した。
数学者は、「2です。」と答えた。
面接官は、「きっかり2ですか?」と聞き返した。
数学者は、「何をおっしゃいます。1たす1はきっかり2にきまってます。」
と答えた。
次に、統計学者が入室した。
面接官は、「1たす1はいくつですか?」と質問した。
統計学者は、「およそ2ですね。」と答えた。
面接官は、「およそですか?2きっかりじゃないんですか?」と聞き返した。
統計学者は、「はい。最初の1と1に誤差がある可能性がありますのでね。」
と答えた。
次に、会計士が入室した。
面接官は、「1たす1はいくつですか?」と質問した。
すると会計士は、やおら席を立ち、入口の扉に鍵をかけ、窓のカーテンを
閉めた後、面接官の隣に腰を下ろし、面接官の耳元にささやいた。
「1たす1を、いくつにしたいのです?」
ここには問題が在って、まあ、記事筆者が数学を知っている人であり、「1+1≠2」の数学的意味合いについて語っているならば、これに興味を持って数学の証明を書いてみる事ができるし、{m+n’=(m+n)’}がどーのこーので、とかだからペアノの公理でおk!と言ってやるだけで納得してくれるだろう。
実際のところでは、この記事の筆者は、ペアノの公理とか、加法演算と論理和演算の違いとか、そんな学術的なことを言いたいのではないらしい。発言を追って見るに、この記事の筆者のいいたいこととは、社会には多様性の在る事によってより発展するんじゃねみたいな感じだよね。
筆者に言いたいことなんだけど、数学上の答えってのは、全く論理のギャップ(=個性)を含まないからこそ、たったひとつの答えとして出すことが出来る。宇宙の法則が変わろうが純粋な論理は壊れ得ない。この点を汚すことは全ての数学を汚すに等しく、はっきりいって記事の筆者の言う意味合いでの「1+1≠2」なぞ不愉快だということ。
「子供はもっとのびのびと、いろんな答えを求めて育つべきだよね」 とかなんとか言いたいなら、なんで「善の反対は悪じゃない」とか「愛と憎しみは一人の心のなかで同居しうるんだ」なんて感じの文章を作らなかったのか。数学はこの世で最も答えが一意な学問なのに、どうしてそんなことしたの?ばかなの?ごめんねすっごく文章長くなったわ。
コレに対して、2進数では答え10、1を普遍集合とみて論理和演算では答え1
エジソンの喩え話でならば,粘土の塊A,B,Qがそれぞれ体積Va,Vb,Vqとすると,Va×1個+Vb×1個=Vq×1個,個数の次元については答え1
疑問を持つのが重要で、ソレが多様性を生むし、そもそも1+1=2になるのが当然と考える人は、そこにどのような定義が必要かを理解できているの?エジソンの逸話の一部が記事中にも出てるけど、自分が先生だったとしたら生徒に粘土と粘土を足して1に2になったりするのは何故かを示せる?
自分も難しい話分かんないけど仕事に関して言ったら人数は1+1で2人だけど
どちらも同じ速度で同じ要領で物事を進められるわけじゃないからちょっと違うのでは?
自分とまるっきり同じ速度でやったら単純に半分で仕事終わるのではないの?ということです。
例えば人間だけ1と1であって仕事の能力はAさんを1にしたらBさんは0.5かもだし、Cさんは1.5かも
そしたら1+0.5、1+1.5 で 2 にはならない。2倍の速さで終わらない、2倍以上の速さで終わるってことになる。
人間は1人だけど
仕事の能力については Aさんを基準にしたらBさんは0.5人分の速さになるから1にはならない。もともとの分量が違うんだから同じ量として考えちゃだめじゃない?
数学の問題でよくありますよね コピー機Aは 20枚/分 、コピー機Bは 30枚/分
台数は2台だけど 効率は2倍以上になりますよね。
比べるものが違うのではないのでしょうか。
それともみなさんが言ってるのは No.59 さんの言った事を難しく言った事なのでしょうか??
思考が柔軟なわけでも、個性が際立っているわけでもなくて、ただ文章題を正しく理解して数学的に立式することができないだけだから。
それで、普遍性の無い間違った解答を導き出して、勝手に個性だ多様性だと喚き立ててるだけ。
平たく言って、頭が悪いだけだから。ゆめゆめ勘違いしないように。
数学的アプローチから、こんなふわふわして論理的整合性のかけらもない文章を書けるというのはある意味すごいし、この一文の支離滅裂っぷりには驚きすら覚える。
>実際には、1と1を足して100%2に変化する保障は
>どこにもないのに、その証明すらも理屈立てて求めようとする。
>ホントは正論でも絶対なんてどこにもないはずなのに。
1+1=2は既に証明されている。故に「1と1を足して100%2に変化する保障」は存在している。
「(証明は)どこにもないのに」という誤った前提から「その証明すらも理屈立てて求めようとする。」証明の存在を否定しようと言うのは詭弁。
いやブール代数の1+1=1は数を表してるんじゃなくてスイッチのオンオフ(数学的に言うと真偽)を数式っぽくあらわしてるだけ(ちなみに+は足すじゃなくてorだぜ)
1(ある)と0(ない)を使って論理回路の真偽を定義してる
1(有)+(or) 1(有)=1(有)と
1(数)+(足す)1(数)=2(数)の1と2のような数値とは根本から違う
そのたとえである「粘土足す粘土は粘土だ!」はそもそもブール代数の+は足し算じゃないから不適切なたとえ
ブール代数のわかりやすいたとえは+の場合「電源を押すか、紐を引っ張れば電気がつく」・の場合「コンセントを挿して、電源を押せばゲーム機が起動する」だ
これを使って1+1は2じゃないんだぜ(キリッ)は滅茶苦茶恥ずかしいからやめとけよ
>そもそもここに出てくる「1+1」が「算数の数式」だなんて前提がないんですが
間違い。1+1を立てた段階で、これは「算数の数式」という前提が確立する。
算数の数式ではないと強弁しても、誰も納得させられない、最低な後出しジャンケン理論。
>「個人の仕事の能率」とか「物の数」とかの多種多様なものを「1」という変数にぶち込んでるだけで
間違い。1は変数ではない。1は1。
1を変数として捉えようとしたり、1に変数としての意味を込めようとする時点で全くの問題外。
>つまり、「「1」を特定のものに固定するという考えかたは古いんじゃない?」って話なんじゃないの?
上記のことから、貴方が出した結論は否定される。そもそも証明されてる数学的事実に新しいも古いもない。
否定したいなら反証を出すしかない。
皆が住むこの星が地球じゃなくて火星じゃないのか?!っと言ってるのと一緒である。
足し算は数学の中で定義され「足し算」という形式だけに注目して規則や性質を議論するのを構文論と言う。
そして「足し算」は実際に何を表現しているかを考えるのを意味論と言う。
なので1+1=2と言うのは構文論の中では1+1=2でそれ以外の理由も意味も無い。
でも、1+1=1では無いのかと疑問をもつ事はとても創造的でいいと思う。
創造すると言うのは過去の知識を分析して性質を探り組み合わせる事だと思う。
おそらく意見あるいは価値観を持つ個人を1として見ているのだと思いますが、そもそもの「1」自体に価値を持つので1+1=xの式には当てはめることはできないと思います。
単に人数として人を数えた場合には数式に当てはめることができますが、個体差だけでなく不確定かつ量的に測ることのできない精神的な領域に数式を持ち込んでも、一般的な線路にモノレールを走らせるほど無理があります。
さらに、2つの集団同士を足し合わせて1つの集団にしたとしても、個々は同じものではなく1≠1でありそれはa+b=cであらわされるものでしょう。
もっと根本的なところを突くのならば、価値観そのもの自体が他者がいてはじめて観測することが出来るものであり時代や地域によって変動する不安定なものでもあり、しかも個人間の差異を測るための便宜的な言葉にすぎません。
1+1=1に突っ込むとしたら、マイナスの価値観が存在したときこの数式のどこにあてはまるというのでしょうか。
片方の「1」を不変にするには足すことも引くこともできない「0」が必要になりますが、そうすると絶対的な「1」だけが存在を許され他者は無価値だということになりませんか?
結局何もかも前提が違う。カルシウムからaをとっても炭素にはならないし。
少数派の意見を大事にするといっても、あなたは超能力だとか幽霊だとかSTAP細胞を信じますか?
多くの人はそんなものはないと言うでしょう。存在しないとは100%言い切れませんが存在するとは1%程度しか言えませんよね。何でもかんでも意見を大事にすればいいというものではありません。
価値観が崩壊するのは「解」が変化した時でしょう。それは絶対的な正解の場合もあれば最適解の場合もあるでしょう。
筆者が言いたかったのは、先入観に浸ることなく物事を一から捉えることが大事だということではないでしょうか。
まあ悲観的な意見ですが、例えば正しい少数派がいたとしてもそれを多数派に変えるほど多くの人々の意識を変えることはほぼ不可能といっていいうえに、正解があるならまだしも最適解を求めるなら意識を変えたところで知識がなければ根拠が出せず何にもできないという問題もあるんですけどね。特に科学的でなく思想的なものだとまず変わらない。そして日常生活では正解がなく最適解を求められる場面がほとんどです。人間関係とかね。
最もわかりやすい例は、誰しも勉強とか努力とかしたほうがいいとは思ってはいても実際はどうかといえば、誰でもその答えを知っているでしょう。
価値観が変わってもそれがどう人に影響を及ぼすかはまた別の話なのです。
よって私が提案するのは、時代あるいは人々を変えるには思想には自由を与え行動からは自由を奪えということです。
まあこの辺でやめときます…w