秀吉「褒美として関東八国くれてやる」家康「有難き幸せでございます」
- 2015.10.12 08:01
- カテゴリ:歴史 ,
1:レキヲタ ◆zdktEZp9GQ : 2015/10/10(土) 21:47:50.788ID:u+bypoPa01010.net
家康「なんやこれ・・・」
かつての東京(江戸)一体は、一面に葦が生い茂る広大な湿地帯だった
足立区という名前は葦が生い茂る(葦が立つ)地域だったことから由来する
江戸時代、関東8か国の総称。
相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の8か国。関東八州。
https://kotobank.jp/word/関八州-471250
家康「これはまるで左遷じゃないか」
大阪よりさらに遠い未開の地へ飛ばすことで、家康の勢力低下を狙う目論見は明らかであった
信長がいた頃は変わりはなかった実力差も、いつの間にか差を付けられ従うしかなかったのである
三河弁だから「なんねこれ」じゃないの
>>3
しゃべり方は適当に書いてる
家康「この屈辱・・・必ず晴らしてやる!」
こうして俺(家康)は、秀吉に復讐を誓ったのであった
関東には秀吉が討伐した北条家の残党がおり、隣の伊達家がちょっかいを出す可能性もあった
そういう意味ではかなりのビハインドスタートであった
家康「まずは住む場所の確保だな。とりあえずお前らはあそこに住めや」
駿河国(静岡県)に住む古くから使える家臣たちを台地に移住させた
見晴らしがよく、従来と変わらず富士山が望める場所であった
これが現在の千代田区にある駿河台である
(開幕後の話ですがご容赦下さい)
家来「じゃあ俺達はどこに住めばいいんッスか・・・?」
家康「お前らはあそこでええやろ」
台東区にある御徒町は、騎乗が許されない下級武士が多く住んでいたことの名残である
(これも開幕後の話)
家臣「家康様・・・家康様はどちらにになされるのですか?」
家康「俺?城がもうあるからここにするわ」
言うまでもなくその場所は江戸城、つまり現在の皇居のことである
草茫々の湿地帯っていわれてるけどそこそこ発展してたらしいな
いわゆる「小田原とか浜松とかに比べると」らしい
保守
ほ
>>9>>12ありがとう
家康「それにしてもボロい家・・・これはすぐにでも改築しないと」
家臣「かような田舎では人足を探すのだけでも一苦労でございますぞ」
家康「は?お前らが工事するんだよ」
家臣「ファッ!?」
入府して間もない頃は、人手不足のため土木作業は家臣直々に行った
城とは到底呼べないあばら家だった江戸城は改築拡張され、本丸、二の丸、三の丸、西の丸が建設された
家康「次は食糧確保だが、その前に土壌改良だな」
家臣「しかし人足が・・・」
家康「お前らがやるんだよ」
家臣「ファーwwww」
関東一円は火山灰でできた湿地帯で、農耕には向かない土地(関東ローム層)であった
そのためには徹底的に灌漑を行い、山を削り海を埋め立てる必要があった
家康「青山、お前は残れ。今から鷹狩に行くから付いてこい」
青山「おk」
青山忠成(あおやま ただなり)
家康が厚い信頼をおいていた重臣
のちの江戸崎藩初代藩主となる人物である
家康「目的地に着いたな」
(そういえば関東に越してから、こいつに土地を与えてなかったな・・・)
家康「よし!ここから見える限りの土地をくれてやるから馬が疲れるまで走れ」
青山「マジっすかwwwじゃあこの土地は俺の名前にするwwww」
馬が走り回った土地、つまり彼の所領はのちの港区青山となる
徳川家康の重臣であった青山家の広大な下屋敷(現在に於ける別荘に該当)にちなみ、この付近一帯の町名に青山を冠した(赤坂青山○○町)ことが地名の起こりである。
青山家が江戸時代中期に八幡藩(現岐阜県郡上市)を所領とした縁で、同家の菩提寺である南青山の梅窓院では、年に一度「郡上おどり in 青山」が催される。
江戸の街外れとして大名の下屋敷、庶民の町屋、雑木林などが広がる地域であったが、明治以降は中流の住宅街として発展し、1964年東京オリンピックに合わせ大幅に拡張した厚木街道(大山街道)は青山通り(国道246号)として呼称が定着、以後は徐々に個人商店や民家、そしてアパートがオフィスビル、マンション、高級ブティックなどに取って代わられた。
庶民の住宅街だった青山は今日のおしゃれなイメージの街へと変貌を遂げるものの、南青山2 - 4丁目にはかつての庶民的な面影が色濃く残る。
表参道の交差点からみゆき通り、骨董通り、キラー通りなどにわたってブティックやブランド店などが軒を連ねる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/青山_(東京都港区)
足立って地名は日本武尊が由来
「足立」の由来は、もと万葉仮名で「阿太知」だったものを諸国郡郷名著好字令により置き換えたとみられるほか、日本武尊(または坂上田村麻呂)が立てるようになったという伝説や「葦立ち」の転じたものとする説もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/足立区
でも要するに東京とか横浜もらったんでしょ
京都や大阪よりずっと都会じゃん
>>19
当時の関東一円はクソド田舎だった
家康「早いけど城に戻るか・・・ん?」
家臣「家康様、土壌改良が終わり申したぞ」
家康「ご苦労!」
家臣たちの働きで山は削られ海は埋め立てられ、当時の海岸線と比較すると比べ物にならない変化を起こした
現代の東京は名もなき家臣たちの働きによって存在しているといっても過言ではない
城建てるのにどのくらい期間とお金かかるん
>>22
規模によるだろ
忠行「家康様、鷹狩お疲れ様です!お茶と甘い菓子をご用意しました!」
家康「おっ、気が利くじゃん!」
大久保忠行(おおくぼただゆき)
三河一向一揆の際に足を撃たれ落馬、足が不自由となったため戦役を免除された
菓子作りの技術を持ち合わせていたため、以後家康に茶菓を献上する役目を果たすようになる
毒殺を恐れた家康は家臣の献上品を口にしなかったが、忠行の菓子だけは信用して食べていた
家康「菓子を作るにはきれいな水が必要だが・・・どこで手に入れたんだ?」
忠行「家康様のため、ほうぼう探し回りました!あちらです!」
当時の江戸は井戸を掘っても海水が混じり、まずい水しか取れなかった
きれいな水、おいしい水の確保は当時解決すべき大きな問題だった
家康「む・・・美味い!この水は本当にうまいぞ!」
忠行「喜んでいただいて何よりです!」
家康「よし!この水を生活用水として利用しよう」
家康は神田川の改修を忠行に命じ、井の頭を水源とした神田上水を整備
井の頭は「この上ない」「一番」「最高」という意味で、これは家光が命名したとされるが
家康は井の頭の水で何度もお茶をたてて飲んだ伝えられている
面白いんやがコテだから応援できん
これが唯一の保守です
>>27わかりやすいかなと思ってつけてるだけよ
家臣「家康様、実を申しますと同じく普請中に水が沸いてきたのですが・・・」
家康「ん、これならうまい茶ができるな・・・お茶の水と名付けよう」
江戸城外堀工事の際、水が沸いてきたという
お茶用水として家康に献上したことから御茶ノ水という地名になった
手塚治虫のお茶の水博士もこの地名から由来する
中央区で仕事してたから興味深いわ
家康「腹減った!魚が食いたい」
家臣「しかし江戸には漁師がおりませぬ」
家康「いないなら連れて来ればいい。心当たりがある・・・」
思い起こせば少し遠い昔の出来事だった
尊敬する人は徳川家康と大久保利通です
太田道灌が礎を築いてくれたってのはでかい
太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。
摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。
太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
江戸城を築城したことで有名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田道灌
家臣「いっ、家康様!火急の要件にござりまする!」
家康「騒々しいな、どうした?」
家臣「み、光秀殿が!光秀殿が謀反!」
家康「なっ・・・!」
本能寺の変を巻き起こした光秀は、着々と機内の地盤固めをしつつあった
それに対抗するには、危険な道程を重ねて本国静岡県に戻り体制を整え直す必要があった
後に言う「伊賀越え」である
伊賀越え(いがごえ)は、畿内より東国へ行く際に伊賀国(伊賀市)を経由して行くことを指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊賀越え
家康「クッ、ここで足止めを食らうとは」
漁民「ん?お侍様?いかがなすっただ」
家康「すぐにでも川を渡りたいのだが、橋も船もないから困っている」
漁民「それじゃ、あっしらの船をお使いなすってくだせえ」
家康を救ったのは、孫右衛門と呼ばれる男たちをはじめとする漁民たちだった
彼らは神崎川沿いに住む佃村(現在の大阪市東淀川区佃)の住人である
漁民「この先は長いですだ。念のため不漁時用の保存食もあるで持っててくだせえ」
家康「この恩、一生忘れないぞ」
彼らが差し出したのは小魚を塩辛く煮た物であった、これは全国的に知られる「佃煮」の原型である
※彼らを江戸に招いてから醤油で煮るようになりこれが佃煮となった
有名な話だな
家臣「大坂から佃村の漁民を連れてまいりました!」
家康「お前ら、久しぶりだな!」
あの時の功労者、孫右衛門には「森」という名字を与えた
毎日江戸城に新鮮な魚を届けることを条件に、シラウオをはじめとした漁業権
税金の免除、武家屋敷への出入り許可などの特別な権限を与えた
(シラウオは頭の模様が葵紋に似ていたため禁漁が基本)
家康「早速だが、君たちにはあそこに住んでくれないか?」
佃島と呼ばれる場所に彼らを住まわせ、更に大阪の動向を探る役割も務めさせたいう
彼らが住んだ場所は、現在の東京中央区佃である
クソスレやろと思ったけどなかなか面白いンゴねぇ
家臣「家康様!た、大変でございます!」
家康「どうした?」
家臣「先日の大雨で作物や建物が流されてしまいました」
家康「また洪水か!こうも氾濫されては検地もままならんな」
※1590年家康の江戸入府の年にも荒川が氾濫したとの記録が残されている
家康「収穫を安定させ、暮らしを安定させるにはやはり治水か」
忠次「治水なら拙者に任せてくれませぬか?」
家康「おっ忠次か!伊賀越えの際は世話になったな」
伊奈忠次(いな ただつぐ)
14歳の時、主君家康に刃向かう一向一揆に加担するが敗走(大久保忠行とは違い逆の立場)
罪が許されるまで13年間、戦には参加せず放浪生活をしながら農民と共に農耕・土木作業などに従事した
ちなみに父は伊奈忠家(いな ただいえ)
伊賀越えの功績を称えられ、現在の西尾市に城を与えられた経緯がある
忠次の罪が許されたのは、父と共に伊賀越えに協力したことが始まりである
忠次「ダテにドカタやってたわけじゃねえ!これくらい朝飯前だな」
現在の埼玉県熊谷市に中条堤と呼ばれる堤防を上流の利根川に建設
その後長きにわたり、江戸の庶民から水害から守り続けた
忠次「これでまだ終わりじゃねえ!」
その後も治水事業は続けられ、利根川の流れを変えその水で新田開発、水運の整備などを行った
これらの治水事業は50年間で関東の石高は100万石から180万石に増加したのである
家康「忠次は親父に負けず劣らずなかなかの働きぶりだな」
農民たちに耕作技術を伝え広めたことから、農民たちからも神仏のように敬われていた
まさに忠次の働きなしでは、今の関東は存在しえないのである
彼の偉業は水戸市には備前堀という、彼の名が付いた堀が残されているほどである
家康「運河の次は塩だな」
家臣「何も塩はすぐそこの海から手に入りますぞ」
家康「バカ言うな、庶民の塩を支えるには効率よく大量に入手できないとダメだ」
家康が目を付けたのは千葉県市川市にある塩の名産地「行徳」であった
今でも行徳には本塩、塩焼、塩浜などの塩に関する地名が残されている
家臣「しかし場所が遠く江戸に運ぶのには無理がございます」
家康「運河を作ればいいじゃん。お前らよろしく!」
家臣「えっ、また土木作業!?」
もはや土木作業にプロと化した家臣たちにより行徳と江戸を結ぶ運河(小名木川)が作られた
この運河沿いには宝塔寺というお寺には「塩なめ地蔵」があることでも知られる
これは塩の行商人が、寺で休憩荷物の塩を少しずつ地蔵にお供えしたことが始まりである
家康「そろそろ、大江戸シムシティ計画も大詰めだな」
家臣「また土木作業でございますか・・・」
家康「違う、今度は大阪城をぶち壊す!皆の者、具足を持て!」
江戸で着々を力を蓄えた家康は、ついに豊臣家に復讐を果たすまでに成長していた
秀吉が亡き後、次の権力者として名を轟かせつつあったのは言うまでもなく家康である
これが関ヶ原の合戦(大阪の陣)である
家康ってなんであんなに土木に通じてたんだろうな
真田「撃て撃て撃て!家康の軍勢をハチの巣にしてしまえ!」
味方「ヒェ~ッwwwww」
伝令「家康様!真田によりお味方が次々と討ち取られております!」
真田信繁(さなだ のぶしげ)
来年の大河ドラマ主人公、真田幸村のことである
彼が築いた大阪城南方の砦「真田丸」により、徳川勢は大いに苦戦を強いられたという
家康「う~む、お前ら城に向かって塹壕を掘れ!」
家臣「ここでも土木作業とかマジ勘弁・・・」
「真田の抜け穴」と呼ばれる謎の洞穴が大阪城から伸びる形で多数残されているが
徳川勢が真田の弾を避けるために掘った塹壕跡のことである
家康「今度はこちらの番だ!撃てい!」
侍女「ィぇゃス、ちょぉ]ゎぃ!」
偶然にも家康方が放った大砲が天守閣を直撃!
弾は居合わせた侍女に直撃、まさに即死だった
使者「家康殿!淀君から和睦の申し出にございます!」
大砲の威力に完全にビビった淀君(秀吉の嫁)は和睦を申し出た
このときの大砲は靖国神社に今も保管されている
三河武士は今でいうTOKIOみたいな扱い受けてたんかな…
「合戦もできるドカタ」とか陰口叩かれてたんかな…(´・ω・`)
家康「淀君の提案、しかと受けた!お前ら出番だ!」
家臣「ハイハイ、またドカタね・・・」
家康は大阪城の堀を埋めることを条件に和睦を受けたであった
家康「それい!今がチャンスだ攻め立てろ!」
堀を埋める際、どさくさに紛れて全ての堀を埋めたのである
完全に防御機構を失った豊臣勢は、体勢を立て直す間もなく攻め滅ぼされたである
家康「わが軍勢の勝利だ!勝どきを上げよ!」
味方「エイッ!エイッ!オー!」
家臣「攻め落とした城を改修する必要がありますな」
家康「いや、その必要はない」
秀吉が築いた城取り壊され、今も土中に埋められている
その上に新しい徳川家の城が築かれたのであった
家康「豊臣の時代は終わった、これからは俺の時代だ」
こうして大江戸シムシティは終わりを告げたのであった
おわり
若干脚色もありますが、9割9分くらいが史実です
おつ
尾張民の俺が家康と聞いて飛んで来たらすでに終わってた
面白い
【朗報】オワコンと言われたSHARP、完全復活!!!!!!
【画像あり】現行の日本車で最も美しい車wwwwwwwwww
【悲報】2ちゃんねらー、変換候補でロリコンがばれる
腐女子彼女「オイイイイ!!何挿れてんの!!」
この記事を読んだ方はこんな記事も読んでいます
人気記事ランキング
おすすめサイト最新記事一覧
コメント
2.気になる名無しさん2015年10月12日 08:37 ▽このコメントに返信
大江戸シムシティにワロタ
3.気になる名無しさん2015年10月12日 08:41 ▽このコメントに返信
この時代は江戸に限らず日本中で大規模な土木作業の開発が行われてた時代で
各地で川を付け替え湿地を乾かし城下町が造られた時代なんだよな
4.気になる名無しさん2015年10月12日 08:51 ▽このコメントに返信
歴史に疎いからわからんけど、昔の埋め立てとかってどうやってたのか想像つかん
5.気になる名無しさん2015年10月12日 08:51 ▽このコメントに返信
※1
・秀吉に勧められた(半強制)説
・広い平野が広がり、発展の可能性を見出した説
6.気になる名無しさん2015年10月12日 08:52 ▽このコメントに返信
>57
国民の大半が農業をやってる時代に、土方を馬鹿にするもないだろう
むしろ、土地改良で農業がしやすくなって、喜ばれたんじゃねーの
お前は知識レベルが土方並みだな
7.気になる名無しさん2015年10月12日 08:55 ▽このコメントに返信
まあ、自分の苦労を大げさに言うためのエセストーリーだろ。
天下統一される前の戦国時代、そのあたりって結構な石高を持つ大名がいたし
そこまで荒れてるわけないじゃないか。
8.気になる名無しさん2015年10月12日 09:06 ▽このコメントに返信
※1
小田原だと領域の西に偏り過ぎてるし、秀吉が本拠を江戸にするように勧めたって話が多く残ってる※
移封後の徳川家の規模を考えると、城下町形成のためにある程度の面積の後背地が必要
また、港湾や交通、商業の発展を考えると、領域を貫く利根川等の河川交通と江戸湾の海上交通の結節点である江戸は新しい本拠地として非常に優れている
※小田原城は落城ではなく開城であり、秀吉が家康を警戒したって説
と同時に、純粋に日本の天下人の立場として、関東一円の安定と発展のために江戸の立地条件を秀吉が目をつけたという説がある
同じような話で毛利家の本拠を吉田郡山城から広島に移すように秀吉が勧めたという話がある
1.気になる名無しさん2015年10月12日 08:32 ▽このコメントに返信
なんで家康はわざわざ江戸に住んだんだ?北条家がいた小田原はそれなりに発展してると思うし、そこに住めばいいと思うんだが・・・