投資情報サイトの『投資比較サイト』提供アイコン

ブログトップ

ネットでの同志誹謗  

2015年 10月 12日


☆同志誹謗の罪は計り知れない.

<別館>で「怒りの正体」というシリーズが完了しました。
全21編、9月2日から10月11日にかけて書きました。
そのシリーズカテは、→ここをクリック!
各人各様の「べき」が、他者との「べき」と対立する‥
その多様な価値観が、互いに認め合い、励まし合ってのことであればいいのですが、現実にはとめどもない論争となり、本来の議題の相互理解もできず、やがて人格、品格面の誹謗中傷に至る‥そんな悲劇が繰り返されています。

無慈悲な批判 が多いネットの世界。
延々と騒ぎ立て、あらゆる批判を続ける人々がいます。
批判者は自らの「べき」から「正当な行為」として続けるのですが、当事者にとっては耐えがたい苦痛になっていることが多いのです。
このような恐ろしい行為が現実の地区や地元組織で行われるでしょうか?
行われませんね。まったくそのような行為は見当たりません。
もし、そんな創価学会なら誰も信心しませんよね。
「注意や「批判」は、罪に相応して行われるならともかく、小さなことを限りなく膨らませていく抗争は、まったく創価思想に反するものです。

創価思想 は、対立の思想ではありません。
言葉は他者を励まし、その心に灯をともすためにこそ在る
この言葉こそ、創価学会員の言葉です。
他者をさげすみ、辱しめ、川に落ちた犬を棒で叩くがごとき行為は、学会員として本当に恥ずべきことだし、いいかげんにしてほしいと思うのです。
たまたま、あるネットで、いくつかの言い争いを散見しました。
お互いが学会員同士で、意味不明な口論?をしているのです。
意味不明というのは、過去の経緯が分からないからです。
過去に何かがあった。それは当時者の間の出来事で、第三者にはさっぱり理解できないことですが、ともかく言葉に「憎悪」が混ざっている。
見て、「苦しいだろうな」、「楽しくないだろうな」と感じます。
現実の創価学会とまったく違っていることが悲しい。
「広宣流布」をどこにも感じられないのです。

師弟不二 の信心こそ、創価の王道です。
勿論、池田先生のような人生を歩める人は爪上の土です。
現実には、私など偉大な先生に対比すれば足元にも及びません。
けれど、先生を模範とし、不完全でも歩むことはできる。
駿馬の尾に一匹の蝿となってぶら下がることはできる。
大事なことは「先生を模範にする」ことではないでしょうか。
どんなに正義を主張しても、池田先生と真逆な、しかも低次元の論争を繰り返すということであれば、正義な訳がありません。
正義の正とは、「一に止める」と書きます。本当の最善は、熟慮し、言葉を慎重に選んで行われる「最高の」という意味です。

「ああだ、こうだ、そうではない、ああでもない」
このような不毛な論争の時代が終わってほしいと心から祈っています。
「個々が創価の素晴らしさを発言してほしい」と願っております。
不幸になってもらいたくない。幸せになってもらいたいから。
功徳は ほむれば 弥(いよいよ)功徳まさる 」ですから。
その御文の記事は、→ここをクリック!



追記1:なぜこのようなことを書くのかというと「悲しい」からです。
一体、なぜ、このようなことが繰り返されるのか。
本来の創価学会とまったく違う醜態が繰り返されるネット‥
せっかんのような集団的虐待行為に唖然とするばかり。
いいかげんにしませんか? オカシイですよ。

追記2:批判さている人に申し上げます。あえて反撃される必要はないと思います。言わせるだけ言わせたらいい。読者に判断させたらいい。
私はそうしてきたし、これからもそうします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
ブログトップへ

by sokanomori3 | 2015-10-12 05:18 | 読者の皆さまへ | Trackback | Comments(0)

トラックバックURL : http://sokafree.exblog.jp/tb/24985466
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< ひらがな御書・別館の最新記事 休館日(行列ラーメンと協議会) >>