Dr.MITSUYA〜世界初のエイズ治療薬を発見した男〜 2015.10.08


100万分の1。
新薬の発見。
それは途方もない確率に例えられるほど困難を極める。
医薬品はまさに人類の英知が生み出した奇跡の結晶だ。
今から30年前当時は不可能と思われていたエイズ治療薬を世界で初めて発見した男がいる。
「AZTという薬が不治の病でありますエイズの患者に劇的な治療効果をもたらす事を突き止めました。
この研究で最大の功労者が日本人医師の満屋裕明さんです」。
アメリカ「ワシントン・ポスト」に突如ある日本人が取り上げられた。
当時35歳の若き日本人医師満屋裕明だ。
アメリカ国立衛生研究所の客員研究員だった満屋は渡米3年目にしてエイズに対抗する薬を見いだした。
それ以後エイズをめぐる状況は一変した。
死に至る病から治療可能な慢性疾患へ。
薬剤治療への道が開かれた。
しかし80年代にはエイズは死を意味していた。
「現代の黒死病」と恐れられたエイズ。
当初は多くの研究者や製薬会社も関わろうとはしなかった。
だが満屋は違った。
そこに真っ向から挑んだんですね彼は。
研究のスピードは「救える患者の命」に直結した。
そして圧倒的な速さで世界初のエイズ治療薬を世に送り出した。
満屋裕明65歳。
エイズ治療の原点に立つ日本人医師。
その日満屋は熊本にいた。
ここにひときわ異彩を放つ部屋がある。
心地よいクラシック音楽が流れる木目調の部屋。
もしもし。
あ加藤君?あのねあれ17ページもあってね僕全部…ちょっと今日忙しいので僕がどうしても見ないといけない所だけ赤でハイライトしてから送ってくれる?17ページあるでしょ?外国製のアンティーク照明。
壁には隙間なく写真や絵画が飾られている。
外は汚いのにここは別世界だとか言われますから。
そうかなと思うんですけど。
(取材者)こういう内装にされてるのは先生の…?全部僕が集めたり個人的に買ったものですね。
自分の趣味が反映している部屋になってしまうんだと思うんです。
オードリー・ヘップバーンの生涯とかすばらしいもんね。
こういうの見てたらほれぼれするでしょ?ほら車。
(取材者)車?美人の…ティファニーショップとかさ。
一個もないですね。
あんな人はおりませんよ。
全然普通じゃないです。
アブノーマルですね。
エキセントリックというか。
(松下)かっこつけしいですよね。
まあクールクール・サイエンティスト。
白のブレザーも浮いてるとは思うけど。
(松下)動き回ってらっしゃるのが何と言っても印象でじっとしてる事がないので基本的に常に明るいです。
満屋先生がいるだけで場が明るくなるんですね。
さあやりましょう!じゃおなかはどうかな?大丈夫かな?はい。
研究は一日くらい欠かした事があるかもしれませんけどお酒だけは欠かした事がない。
ハハハハハ!熊本大学医学部の教授として多忙を極める毎日。
しかし満屋の職場はここだけではない。
およそ13時間のフライト。
太平洋を越え向かった先はアメリカ・ワシントン郊外のメリーランド州ベセスダ。
月の半分はこの地を訪れる。
あのレンガの建物がビルディング10。
メディカル・センターがある所です。
ええそうです。
世界最大の医療機関NIH。
研究者のるつぼみたいな所で世界中の人たちが集まってきますから飛躍的な何かを生み出す場所だとは思いますね。
NIHで育ち育てられたというのは間違いないですね。
32歳の時にNIHの一機関であるアメリカ国立がん研究所へ留学。
以後30年以上にわたりここでエイズ研究を続けている。
(取材者)先生そこの…その蹴る所?壊れてる。
みんな蹴りまくるから。
(取材者)壊れてるんですか?壊れてるんですよ。
蹴りまくってるから。
ひどいやつはねガーンと蹴るんですよ。
それで穴があいてしまって20年で穴があいてしまった…。
あれうまくいかない。
OK!Hi!新薬開発の第一人者として今も研究に取り組んでいる。
エイズ研究の世界で「ミツヤ」の名を知らぬ者はいない。
自信にあふれて全く物おじしない。
Howareyou?I’mfine.ビッグ・マティーニ!
(谷内江)ちょっと見はキザで嫌みったらしくて。
でも割と誰とでもお話しして陽気で。
(増田)普通はありえないですね。
(増田)今でもそうでしょうけど。
彼以外にはできませんよ。
やっぱりスーパーマンでしょう。
いらっしゃい。
全部断ってまいりましたので。
うまくディレクターの口車に乗せられて。
でもねやっぱり国民の皆さんにいろんな事を知ってもらわないといけませんからね。
すごいですよね。
でもね先生の研究が。
だって昔はね本当にエイズったらもう薬がなくて死ぬしかないぐらいだったでしょ。
もう本当あの時はエイズと言ったら恐怖の病気でしたよね。
もう助からない病気だったですね。
1981年アメリカ防疫センターから世界で初めてエイズの症例が報告された。
当時は発症すると2年以内に9割近くが死亡する謎の奇病だった。
何だか分からなかったんでしょ?最初は。
何だか分からなかった。
何で死ぬのか分かんなかった。
2年後エイズの原因が新種のウイルスであるとする論文が発表された。
翌年には満屋と同じNIHにいたロバート・ギャロ博士らもウイルスが原因であると特定した。
エイズに対する恐怖が一気に広がった。
やっぱり濃厚な接触…アメリカ政府は会見を開いた。
だが実際には増え続ける患者になすすべがなかった。
感染は死を意味していた。
エイズの原因HIVヒト免疫不全ウイルス。
その最大の特徴は突然変異を繰り返す事だった。
このHIVというのは自分自身をコロコロと変えるんですね。
ウイルスに対しては体内に抗体を作るワクチンが有効なはずだが…。
天然痘ウイルスは天然痘のワクチンをやれば天然痘にはかからないけどエイズのウイルスというのはクルクルと猫の目のように変わって姿を変えるとせっかく最初に打ったワクチンとは違うわけですから。
つまりワクチンは効かない。
当時NIHに留学していた満屋は免疫学が専門のサミュエル・ブローダー博士の研究室にいた。
エイズ研究を提案したのはブローダーだった。
エイズの原因が新種のウイルスである事が分かった。
新たなミッションとしてエイズの治療薬を研究してはどうかと思うんだが。
(唾をのむ音)ウイルスの感染力はまだよく分かっていなかった。
ちょっと考えさせてほしい。
まあブローダーは研究といっても自分で細胞やウイルスを扱わないでやるのは私一人でやると。
これはちょっと困ったなぁとは思ったんですけど。
ブローダーのラボは僅か5名ほどの小さな研究室だった。
同じラボには熊本大学の後輩松下修三もいた。
これほど前向きで明るい人はいないというぐらいストレートな性格ですね。
しかしやっぱり未知のウイルスに対しては恐怖心はあったと思うんですね。
満屋の心は揺れていた。
もうちょっと行ったらその場所なんです。
ワシントン郊外にあるアパート。
ここですね。
決断を後押ししたのは妻だった。
誰かがやらないといけないからしょうがないでしょう。
医者なんだから。
しょうがないよねって。
だから医者だからやんなきゃねって。
それは僕も同じでしたからね。
僕が恐らくもう決めてたという顔をしてたんじゃないんでしょうかね。
「蛮勇」と言ってもいいかもしれないけど本当に。
でももしかしたら死ぬかもしれないけれどもその時はしょうがないと思うんですね。
思ったんですよ実際に。
1950年8月9日長崎県佐世保市に生まれた満屋はいわゆる全共闘世代。
当時は学園闘争学園紛争とかいうのがあって。
差別や偏見に対する憤りを若い頃から抱いていた。
エイズという奇妙な病気と言われてそれで死んでいかなければならなくてそして社会的に排除されていく人たちのために尽くそうと思ったのは確かですね。
かくして小さなラボでの挑戦が始まった。
しかし…。
研究室内で危険なウイルスを大量に使った時に研究者に感染が及ぶかどうかについても分かってなかった時なので…。
私はやらないわよ!今妊娠してるし。
私のいるところでは絶対に実験はやらないでほしい!松下君は私のいわば教え子ですから批判はできなかったのではないかと思いますけど他の同僚というのはやっぱりそれをやるんだったらここを辞めないといけないというような事まで言われましたから。
(松下)やっぱ恐怖心ですよね。
ですから近くにも寄りたくないし見たくもない。
一旦感染するとこれは死につながるというものでしたしブローダーの研究室自体もそれに対応した環境であったとは言えないわけです。
そこまで私も押し通そうとは思ってませんでしたから。
満屋は自分の研究室での実験を諦めた。
じゃあしょうがないから…満屋のいる10号館から歩いて10分の場所にある37号館。
ここにエイズウイルスを特定したギャロ博士の研究室があった。
満屋は昼間は自分のラボで従来の研究を続け夜になると一人離れたギャロ博士のラボを借りてエイズウイルスの実験を行った。
これくらいの実験道具こんなして…。
そこの研究室の人たちが昼間は働いていますから借りる事はできませんから8時とか9時とか10時からやってました。
(取材者)何時ぐらいまで?日によりますけど2時3時4時とか。
全然それは気になってませんでしたから。
そうですねぇみんな嫌がりますよね。
それはよく分かる。
彼らが悪いわけではなくて。
でも僕はやると決めたらよその研究室を借りてでもやる。
夜な夜な一人孤独な実験を繰り返した。
ほんとに早いですね。
信じられないくらい。
1969年熊本大学医学部へ入学した満屋は免疫疾患を専門に扱う内科へ進んだ。
82年32歳の時に転機が訪れる。
教授が「君留学でもするかね?」と言われたんですよ。
NIHに来て最初に取り組んだのがウイルス感染でがんを引き起こす白血病ウイルスに関する研究だった。
白血病ウイルスはHIVと同じレトロウイルスと呼ばれるタイプで性質が似ていた。
どちらも人間のある免疫細胞に感染する。
それがヘルパーT細胞だった。
T細胞は白血球の一つリンパ球の細胞。
HIVが狙うのはそのT細胞だった。
食いつき細胞内に潜り込んで免疫システムを破壊する。
HIVがヘルパーT細胞に感染するという事実が分かってそしたらそこに真っ向から多分挑んだんですね彼は。
僕しかいなかったんですやれる人は。
「材料」を持ってたし知識もあったしレトロウイルスを扱ってたし。
満屋にはエイズウイルスに闘いを挑むための「材料」がそろっていた。
それが谷内江昭宏の細胞だった。
満屋は当時たまたま同時期にNIHに留学していた谷内江の細胞で白血病ウイルスの研究を行っていた。
実はHIVが感染するヘルパーT細胞には人それぞれ個性がある。
人によって活発に動き回るものじっとして動かないものなどさまざまだ。
谷内江の血液のT細胞は特別だった。
ある刺激を与えるとむくむくと発育し増え続ける。
実験に適した活発な細胞だった。
満屋は谷内江細胞を「YTA1」と名付けていた。
満屋は白血病ウイルスの実験のため谷内江のヘルパーT細胞を大量に培養していた。
そのために何度も採血しに行った。
空の注射器をぶら下げながらうれしそうな顔をして入ってくるんですよ。
まあ何回もとられました。
そうするとそのうちにこれは彼が貧血になってしまったんです。
それで悪いなと思って自分でステーキを買いに行って彼のうちに届けたんです。
まずいステーキを。
貧血になってるからこれ食べてって言ったら彼が「僕ステーキ嫌いです」って言うの。
私あんまり肉が好きじゃないのであんまり感謝しなかったです。
それでもずっととり続けたんです。
ええそういう仲です。
HIVが感染するヘルパーT細胞を当時大量に培養している研究者は世界でもほとんどいなかった。
エイズ治療薬を見つける実験に不可欠な細胞が満屋の手にあったのだ。
更に満屋は「見えない敵」ウイルスに対抗するための驚くべき実験法を編み出した。
これだけで分かるんです。
これもペレットがあるんですけどね。
きれいなペレットができる細胞だったんです。
まず2つの試験管で谷内江細胞を培養する。
すると底に白くて丸いボタンのような細胞の塊ができる。
そこへHIVを加えると数日で谷内江細胞は死滅し白いボタンも消える。
一方にだけ薬品を加え数日たってもボタンが消えなければそれは薬の効果だ。
実験結果は試験管の底を見るだけで分かるのだ。
当時まだウイルスの数を数える方法は電子顕微鏡しかなかったんですね。
今はありますけど。
そのような時代に…ヒトの細胞ですからこれで助かったらヒトで効くはずだという事になる。
あるいは細胞を知ってる人しかできない事だと思うんです。
智慧ウィズダムですね。
…と言うと褒めすぎかな?実験の準備は整った。
HIVはヘルパーT細胞に感染すると細胞内に入り込みDNAの情報を書き換え乗っ取ってしまう。
するとT細胞はHIVの製造工場になる。
T細胞は毎日10億個も作られる。
そのシステムを利用してHIVは増殖し免疫不全を引き起こす。
相手がウイルスですから…私たちの細胞にはなくてウイルスだけにあるものというのがターゲットになるというのはこれは当然の事です。
満屋は治療薬発見の手がかりをHIV特有の「ある酵素」に見いだしていた。
HIVはT細胞を乗っ取る時「逆転写酵素」というものを使い情報をコピーしてDNAを書き換える。
逆転写酵素の働きを抑えコピーを食い止める薬があれば人体に影響を与えずHIVだけを抑え込めるかもしれない。
治療薬は一刻も早く待ち望まれていた。
既に合成されている薬の中から10種類ほどを試してみたが…。
効くものがない。
立ち止まらざるをえない。
一回だけ励ました事があります。
「先生しかできません。
先生以上に感染しないように工夫をしてあるいはデータをきれいに出す事ができる人は世界には他にいないですよ」と言ってあげたんです。
ギャロの所まで行って危険な実験をしてですねそしてもしかしたら自分も感染するかもしれないという恐怖がやっぱりあって。
それをそのまま家に持って帰ったらどうしようと。
帰宅はいつも深夜だった。
ある日。
パパおかえり!だっこ!駄目!ちょっと待ちなさい。
ストップ。
ちょっと待ってねという事になりますよね。
まだ感染性が分かってないわけですから全部服を着替えてシャワーを浴びるまでは他のものに触らないとか。
感染力も不明な当時4歳の愛娘をすぐに抱く事はできなかった。
実験を始めてひとつき。
思わぬ人物から福音がもたらされる。
研究室の同僚ロバート・ヤーショアンだ。
すると偶然スラミンという薬剤が逆転写酵素を抑えるかもしれないという話を耳にした。
スラミンはトリパノソーマという原虫がヒトに感染して起こる眠り病の治療薬だった。
ヤーショアンはスラミンの話をブローダーに報告した。
するとブローダーはすぐにスラミンを手に入れ満屋に渡した。
はっ…おお!思わず息をのんだ。
確かに死ぬべき細胞がスラミンを入れると死ななかった。
スラミンは確実にウイルスだけを倒し谷内江細胞を救っていた。
実験を始めて僅か2か月の事だった。
(松下)抗ウイルス薬の開発なんていう話は当時はもう不可能ではないかと思われてたんです。
世界で初めてこの抗ウイルス薬は可能だという事を示したんですね。
ですからこれは革命的な発見だと思います。
満屋はたった一人で危険なウイルスの実験を行った。
HIVを谷内江細胞に感染させ独自の検査法で効果を示す薬を見いだした。
スラミンという有益な情報をもたらしたのは同僚ヤーショアンだった。
そして満屋にエイズ研究を促しスラミンを試そうと持ってきたのはブローダーだった。
偶然の出会いと出来事の連鎖。
数奇な巡り合わせの中から世界で初めてエイズ治療薬の可能性が生まれたのだ。
スラミンを実際のエイズ患者に投与する治験が始まった。
新薬が一般に使われる前には実験では予測できない副作用が現れる事がある。
スラミンを患者に投与した。
…が症状の改善は見られなかった。
副作用を訴える者が現れ数人の患者が内臓の異常を示し死亡した。
スラミンの治験は打ち切られた。
このスラミンは何にでもベタベタくっつく。
試験管の中ではよく効いても体内ではたんぱく質と結合し効果が現れなかった。
エイズ治療薬の開発は振り出しに戻った。
このころ更に満屋を悩ませる事態が起こっていた。
実験に欠かせない谷内江細胞が全く増えなくなってしまったのだ。
正常の細胞というのは大体50回くらいしか増殖しない。
それで死んでしまうんです。
刺激を与えても動きは鈍いまま。
HIVに感染しなくなり実験は5週間もストップしていた。
大変焦る。
かなり困りますね。
…とその時ふとある考えが浮かんだ。
白血病ウイルスをかけて半分がん化したような細胞にもやってみたんですよ。
それは一つのひらめきだった。
白血病ウイルスに感染したヘルパーT細胞はがん細胞になる。
がん細胞は半永久的に増殖を繰り返し老化しない。
実際に試してみると…。
顕微鏡で見てるともりもり増えるんです。
そしたらそれがあっという間に激しくエイズのウイルスが感染してあっという間に3日か4日で死に絶えるくらいの細胞ができた。
実はこのがん化した細胞も元は谷内江細胞だった。
白血病ウイルスの研究がエイズ治療薬の実験と結び付いた。
更に…。
これはいける!そこで助かったんです。
ラボも一丸となっていた。
ブローダーはより多くの薬剤を試すため製薬会社へ協力を要請した。
共同研究を受け入れた製薬会社からある薬剤が届けられた。
早速その薬を試してみて6日後。
ああ効いてる…。
僅か1年以内にHIVを抑える薬が再び見つかったのだ。
それがAZTアジドチミジンだった。
満屋の実験で逆転写酵素を妨げHIVの増殖を抑える事が初めて「発見」されたのだ。
AZTは試験管内とそれから患者さんつまり人体でかなりいい効果を現したという意味では確かに…世界初のエイズ治療薬AZTは発見から僅か2年という異例の早さで認可された。
しかしその後予想だにしない事態が起こった。
それで本当に驚きました。
秘密裏にブローダー博士も私も知らない間に特許を次々に出していてそしてそれが売り出されたら記録的な高値だった。
もうこれにかけようと思うとまた一生懸命やるんですね。
満屋は製薬会社を頼らずに自ら第二・第三のエイズ治療薬ddIddCを発見。
90年代に入り認可された。
ddIとddCは私とブローダーで特許権を取りました。
その特許権の権利は全て合衆国と合衆国の国民にあります。
私はインベンターで発明者ではあるけれどもその権利は一切ありません。
人の力というのは強いものでもっと良くする改良に改良を重ねて…。
AZTの登場以降欧米の製薬会社が一斉に治療薬開発に参入した。
90年代半ばには効果の高い新たなタイプの治療薬も登場。
複数の薬剤の組み合わせで耐性や副作用を大幅に抑える事も可能となる。
そして2006年。
満屋がアメリカの化学者と共同開発したエイズ治療薬ダルナビルが認可された。
ダルナビルは途上国に無料で特許使用を認める国際制度の最初の薬となった。
つまり全く感染していなかったかのような生活をできて…今考えるとねこんなになるとはねえ。
そうですね。
自分でもそう思いますね。
この25年でちゃんとした治療を受けさえすればそう恐ろしい病気でなくなったのは…。
いや〜これは自分でもこんなに早くまだ僕が生きてる間にこのような時代が来るとはその時も思いませんでしたね。
満屋の発見は数え切れない命を救った。
しかしその原点には救えなかった命がある。
熊本大学の医局にいた当時20代の満屋と松下はある免疫不全の患者と出会った。
何とかしてあげたいというふうに。
若かったからですね。
まあ若くて病気になると大変なんですよ。
そういうふうに家族からもちょっと見放された人でしたけどね。
彼は生来からいろんな感染を起こしていて本当にかわいそうだったんですけどね。
親に勘当されて独りぼっちだったんですね。
いわば放埒な生活をしてたんでしょうけどポン引きをやってました。
ある日電話がかかってきて「先生今日かわいい子がいますから来られませんか?」と言うから「うんあの〜今度にするね」って言って断りましたけど。
彼からはあの…兄さんみたいに慕われてお小遣いをあげたりしてたんです。
とってもいい子だったんですね。
ですからそういう目で若くてそんな仕事をして…って毛嫌いするものではないわけですから。
彼が結局小さな胃がんがあるのが後になって確かにここだなというのが分かるんです。
本当に残念でしたけどね見逃したんですね。
亡くなる直前にお父さんお母さんが和解されて来られたんですけどでもそれで状態が悪くなってお母さんお父さんがいるのに最期死ぬ時に…。
やめましょう。
僕の名前を呼んだんです。
ちょっと…この話したくないんだよね。
結局はね研究者の興味だけで終わってしまったんですね。
結局その人たちに何らの恩恵ももたらす事ができないんですね。
ほとんどの場合はそうだと思います。
研究のほとんどがそうだと思う。
それで松下君によく言っ2015/10/08(木) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
Dr.MITSUYA〜世界初のエイズ治療薬を発見した男〜[字]

満屋裕明(みつやひろあき・65歳)。約30年前、エイズ治療薬を世界で初めて発見した日本人医師。今に続くエイズ治療・対策の道を切り開いた男の知られざる奮闘の軌跡。

詳細情報
番組内容
1987年、当時は不可能と思われていたエイズ治療薬を世界で初めて世に送り出した満屋裕明。その後さらに3種類のエイズ治療薬を発見した。ノーベル賞候補とまで言われながらテレビ取材を固辞してきた満屋の本格的取材が今回、実現。米国立衛生研究所での死の危険を感じながらの研究。同僚や家族との葛藤や連携。斬新な実験法…本人と関係者の証言に劇画CGを交え、発見に至る驚きのエピソードと医師・満屋裕明の半生を描く。
出演者
【出演】熊本大学医学部教授…満屋裕明,【語り】本田貴子,【声】相沢まさき,下山吉光,堀川仁

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 宇宙・科学・医学
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

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