第2次世界大戦中の下伊那郡大下条村(現阿南町)の村長で、国策に従わず旧満州(中国東北部)への分村移民を進めなかった佐々木忠綱さん(1898〜1989年)の肉声を録音したテープが、元八十二銀行文化財団常務の笠原孟(はじめ)さん(68)=長野市=宅に保管されていることが10日、分かった。87年に同財団発行の雑誌「地域文化」の取材に答え、分村移民を進めなかった理由などを語っている。佐々木さんの肉声はほぼ残っていないとみられ、研究者は「村を侵略に巻き込まないよう最善を尽くした村長の思いが分かる貴重な資料」としている。
佐々木さんは同村の助役、村議を経て37(昭和12)年に村長になった。翌年、下伊那郡町村会の視察団に加わり、日本が移民を推進していた満州の開拓地を巡った。
録音テープでは、視察について「(開拓地は)全部立派な既耕地で、強制収用した土地だと思った。(他の開拓地も)水田は全部朝鮮人が作ったもので、これも全部買収という形の強制収用だった。どうもこれは開拓ではないと疑問を持った」と語っている。
また、「(運転手の日本人が)現地の朝鮮人だか満人(満州人)だかを態度が悪いと呼び出して怒っていた。日本人が恐ろしく横暴だということにも疑問を持って帰った」とも振り返った。
佐々木さんはいったん村長を退いて43年に再任された。近隣の村が分村移民に駆り立てられる中、意図的に計画を遅らせるなどして抵抗を続け、移民に積極的な住民の脅しにも屈することはなかった。「まだ戦争反対と言うだけの勇気はなかったが、出征兵士を送り出す時も生きて帰ってもらいたいと思った」と語っていた。
自身が学問を渇望した経験から「この地域に大学に直結する中学を作りたかった」と説明。42年開校の組合立望月中学(現望月高校、佐久市)を視察するなど、戦後に開校した阿南高校(阿南町)の設立に戦時中から尽力した経緯にも触れていた。
佐々木さんは20代のころ、飯田市に開講した伊那(信南)自由大学で哲学や社会科学を学んだ。笠原さんは、同市や上田市で盛んだった自由大学を紹介しようと佐々木さんに取材。当時発行した「地域文化」では、分村移民についての佐々木さんの発言は概略だけ掲載した。
佐々木さんについて研究している元県立高校長の大日方悦夫さん(62)=長野市=は録音を聞き、「学問や教育を重視し、村民の命が懸かる問題で首長として取り得るぎりぎりの選択をした知性と決意が感じられる」と話す。安全保障関連法が成立し、日本の国防が転機を迎えていることを踏まえ、「佐々木さんの姿勢に学びつつ、言論の自由がある今は国に『もっと慎重に』と声を上げることが大事ではないか」としている。