2014年4月25日(金)

“多国籍”いちょう団地のいま
~横浜・共生への20年~

斉藤キャスター
「ここは横浜市にある県営いちょう上飯田(かみいいだ)団地です。
きょうの特報首都圏は、この団地に注目します。
というのも、この団地を見つめますと、『日本の将来の姿』を考える上でのさまざまなヒントや課題が見えてくるんです。」



「この団地にはおよそ2,100世帯が入居しているんですが、実はその2割以上が外国人あるいは外国にルーツがある人たちなんです。」



「この団地をみますと・・・
例えば看板がありますけど、ゴミの出し方など「団地のルール」を示しているんですが、よく見てください。
日本語だけはでなくて中国語、ラオス語、ベトナム語、スペイン語、カンボジア語6か国語で書かれているんです。」



「こちらは団地内の食料品店。
並んでいるのはベトナムのフォーや中国のビーフンなど本国から直送された食材です。
タイの料理に欠かせないチリソースだけで7種類もあります。」


「団地のコミュニティハウスでおこなわれているのは中国伝統の踊り。
中国からきたご婦人がたの健康作りの場になっているそうです。」


「こうしてみていますと、一瞬ここが日本なのか外国なのかわからなくなりますよね。
いま、日本に暮らす外国人はおよそ200万人。
その数は、年々増加しています。
わたしたちは彼らとどう向き合えばいいのか、考えなくてはならない時代となりました。」


「実は特報首都圏では、17年前にこの団地を取材していました。
当時、団地に住む日本人は、言葉も習慣も違う外国人との生活に戸惑っていました。
あれから、いちょう団地はどう変わったのか。その姿を見つめます。」


多国籍団地 いちょうの歴史

いちょう団地ができたのは昭和40年代の高度経済成長期。
人口の増加が進む中、神奈川県が比較的収入の少ない人でも入れるように建設しました。

それからおよそ10年後。
ベトナムやカンボジアなどから多くの難民が来日しました。

「難民の定住を支援する施設」が近くにあったため、家族を呼び寄せていちょう団地に住むようになったのです。

さらに中国残留孤児や、働き口を求めてやってきた日系ブラジル人も入居しました。

現在、世界11か国の人たちが居住。
全世帯の4分の1に相当します。

団地の課題 外国人との共生

今から17年前。
特報首都圏は、この「いちょう団地」を取材していました。

神奈川県にある大規模な県営団地。
中国、ベトナム、カンボジアなどからやってきた外国人の家族が増え続けています。

当時、外国出身者の世帯が急増し、その数は3年間で3倍に増えていました。

団地の自治会は大きな壁に直面していました。
日本人住民と外国人との間にはほとんど交流がなく、自治会の運営も行き詰まっていたのです。

女性
「言葉が、こちらの言うことがわかってくださるかどうかっていうのも不安ですし。」

男性
「いいこと悪いこと、やってほしいことをずばりと言った方がわかりやすいんじゃないかと。」

日本語が話せても読み書きが出来なかったり、文化や習慣も違うため、団地の情報が十分に理解されていなかったのです。

自治会
「心配事ってどんなこと?」

外国人
「日本語わからないから回覧板とか読む。
誤解があります。」

自治会
「あー誤解がある、読んでもね。」

増え続ける外国人たちとどう共生していけばいいのか。
手だてを見つけられずにいました。

共生への取り組み

あれから17年。
いちょう団地は大きく変わっていました。

「ただいまから連合自治会定時放送をいたします。」

団地で行われている放送。
「4か国語」で伝えています。
日本語がわからない外国人のために自治会が始めました。

内容は、団地内の行事や地域のお知らせなど。

カンボジア語
「いちょう団地のみなさん、おはようございます。
学童保育についてのお知らせです。」

この日は学童保育の説明会について案内しました。

ベトナム語
「学童保育の説明会を第2集会所で行います。
希望される方はお子さんと一緒に保険証を持っておこしください。」

当初は外国人の協力がなかなか得られなかった自治会活動。

粘り強く参加を働きかけた結果、いまでは清掃や防犯パトロールなどを一緒に行えるようになりました。

自治会長
「ご苦労様です。いつもどうもありがとうございます。
寒いですけど頑張ってください。」
「朝早く大変ですね。」

中国人女性
「慣れたですけどこれはみんなやってます。
うちの棟の掃除当番です。」

自治会長
「やっぱり年がたつにつれて日本語の方も理解できてきたり、日本人とのコミュニケーションもできてきたし、そういう結果がこういうことに今つながってるんじゃないですか。」


いちょう小学校の取り組み

自治会とともに、もうひとつ、共生への重要な役割を果たしてきたところがあります。
団地の子どもたちが通う「いちょう小学校」です。

朝8時。
校長先生のあいさつは・・・。

校長先生
「おはようございます。
チョムリアップ スオ。」

カンボジア語です。

この学校には10か国の子どもたちが通っています。

学校では、日替わりで各国の言葉であいさつをするのがルールになっています。

校長先生
「自分の国の言葉であいさつされると、やっぱり心がちょっとほっとしますよね、朝勉強する前にちょっとゆったりした気持ちになってもらえる、ほっとした気持ちになって学校に入ってもらう、これをとても大事にしたい。」
「おはようございます。
チョムリアップ スオ。」


全校児童は166人。
そのうち外国にルーツを持つ子どもは75%に上ります。
学校では、それぞれの国の文化を尊重しながら教育をおこなってきました。

この日はベトナムから来日して間もない子どもたちに、日本語の授業。
教員は独学で覚えたベトナム語を使っていました。

先生
「ロイちゃん、マイカイ(何本ですか)」

子ども
「バーカイ(3本)」

先生
「テニャ(日本語で言って)」

子ども
「3ほん」

先生
「なるほど、3のときには3ぼん。」

子ども
「3ぼん、3ぼん。」

地域の外国人を巻き込んだ授業も積極的におこなってきました。

5年生の家庭科です。
この日は、主食となっている米を各国でどう料理するのか実習しました。


できあがったのは、中国のチャーハン、ベトナムのおこわ、ラオスのおかゆ、そして日本のおすし。


先生はいちょう団地に住む外国人の母親たちです。


母親
「おいしいけどちょっとナンプラー足りない。」

母親
「これナンプラーです。」

子どもたち
「うまい!」

学校では、さまざまな文化に触れられることを強みにして、互いを尊重できる子どもに育ってほしいと考えています。

校長先生
「小さい時から隣に外国の人がいるのが当たり前なんですね。
子どもたちにとっては分ける必要もないし、外国籍だからといって一緒に遊ばないのかってそんなこともありません。
文化や習慣、または宗教、そんなものは違ってもいいと子どもたちが捉えてもらいたいんですよね。
自分たちの国の誇りをもってまたは日本のよさも知ってもらって、みんなで学校の中で活躍してもらいたい。」

団地で、そして小学校で。
ともに生きるための取り組みが実を結びつつありました。


斉藤キャスター
「言葉の通じない状況からスタートした手探りの取り組み。
いちょう団地では、一方的に日本のやり方を教えるのではなく、互いの文化や習慣を認め合うことで、この成果につなげてきたのではないかと感じました。」


「このように外国人住民との共生を進めてきた、いちょう団地ですが、実はいま、新たな問題に直面しています。
それは日本人住民の少子高齢化です。」



「住民の多くは高度経済成長期に入居してきた人たちで、今、60代から70代になっています。一方で若い世代の入居は進んでいないんですね。
さらに外国人との共生を進める上で中心的な役割を担ってきたあの「いちょう小学校」は、日本人の子どもの数が減ったため、統廃合が決まって、この3月で閉校しました。」



「そうなりますと今後、例えば
・この団地の防災は誰が担うのか。
・あるいは団地の関係を維持していく上で重要なイベントや作業は誰が担うのか。
といった課題が出てきます。」


「日本全体にも共通するこの難しい課題を乗り越えるために、いま期待されているのは、いちょう団地で育った外国人の若者たちなんです。」


日本語教室で教える団地出身の外国人

団地で行われている日本語教室です。
最近、団地で育った外国人の若者たちが先生役を買って出るようになっています。

ベトナム出身のグェン・ユイ・ニャンさん、23歳です。

小学5年生のときに家族と来日。
以来10年間、いちょう団地で育ちました。

ベトナム語
「人の場合は『います』、物の場合は『あります』」

ニャンさん
「日本語のわからない人のために ちょっとでも早く日本語を覚えてもらえるように。
わかってくれると自分もうれしいし、わからないのを助けてあげたことでまた自分もうれしいんで。」


高齢化した団地で地域活動

ニャンさんは、団地の暮らしを支える担い手としても活躍しています。

この日は、大雪で壊れたゴミ集積所の修理を行いました。
高齢者だけでは無理だからと団地の自治会から頼まれたのです。

ニャンさんのほかに2人の若者が駆けつけました。

「せーの、よいしょ。」
「いいな、いいぞ、うまいな。」
「ニャンうまい、うまい。」
「やっぱしね、若い力はすごい。」

女性住民
「みなさんよく手伝っていただいてるもんで何かあるとお手伝いしていただいて助かってます。
みなさんすごいなと思いましたね。」

「日本人よりすごいかもしれないと思いながらね。一生懸命やってくれるからね、すごいです。」

祭りの手伝いや、草取り、住民どうしの通訳も引き受けています。

ニャンさん
「大変だなって思うこともあると思うんですけどそれでも最後にありがとうと言ってもらえると。
喜んでくれるとすごいうれしいです。」

現在、ニャンさんは勤めている会社の寮で暮らしていますが、週末には必ず団地の実家に戻ります。
母が作るふるさとの料理、フォーは何よりの楽しみです。

ニャンさん
「いつもどおりおいしいです。」

父親は弁当を作る工場で、母親は電子部品の工場で、朝から晩まで働いてきました。
自分たちの生活で精いっぱいだった両親にとって、地域で頼られる存在になった息子は誇りだといいます。

母親
「仕事が忙しくて私たちは国をまたいだ交流がありませんでした。
息子が支えられたことで今は日本語を教えたり、支える側になったのは本当にすばらしいことです。」


若者の成長を支えた早川さん

団地に欠かせない存在となっている外国人の若者たち。
彼らがここまで成長できたのはこの団地ならではの支えがあったからです。

外国人の支援活動を行っている早川秀樹さんです。

いちょう小学校の前で、事務所を構える早川さん。
ここで中高生に勉強を教えたり悩みの相談に乗ったりして、若者に寄り添ってきました。
いつでも安心して集える居場所になるよう、心を砕いてきました。

早川さん
「勉強を教わったり、トランプやったり、一緒に時間を過ごす空間を作りながら、なんとなくこのまちで育ったという意識が作れて自分たちがそのまちを支えていくということができるとすごくいいなと思いますけどね。」

そんな早川さんのところにニャンさんが通うようになったのは15歳のころ。
進路のことや、恋愛の悩みなど何でも相談してきました。

社会人になったニャンさん。
早川さんの影響を受けて、自分を育ててくれた団地に何かできることはないかと考えるようになりました。

ニャンさんの同級生、ベトナム人のホアンさんです。

2人は4年前、仲間とともに団地で「防災チーム」を結成しました。
東日本大震災を経験してからは、地元の消防と連携し救助活動の訓練を行っています。

ホアンさん
「支える立場になってきたかなというところもありますね。
まだ支えられているところもあると思うんで。
一方的だと、どっちかというと居づらくなる方もあると思うんで。
今がいちばんいい状態なのかなと思いますけど。
もっと団地の若い子、外国人、まずは地域の話し合える場にもっと参加してもらえる活動を広めていきたいなと。」


日中の懸け橋に

将来、日本と母国との懸け橋になろうという若者もいます。

シュウ・チュウピン(鄒 秋平)さん、16歳です。

チュウピンさんは両親と3歳の妹の4人家族。
7年前に中国からやってきました。

将来は、通訳など言葉を通して日本と中国をつなぐ仕事がしたいと考えています。

チュウピンさん
「やっぱり生まれたところ(中国)もそうですし、いちょう団地もふるさとです。」

現在、高校の国際文化コースに通っているチュウピンさん。

来日当初は日本語が全く話せず、つらい思いもしました。
支えてくれたのはいちょう団地の友人たちでした。

チュウピンさんはそのエピソードを、横浜市がおこなったスピーチコンテストで発表。
見事、市長賞に選ばれました。

たとえ国籍が違っていても、心が通い合えば、誰とでも仲良くなれると訴えました。

そしてアメリカにも派遣され、世界が大きく広がりました。

チュウピンさん
「ここではいろんな文化を持った人たちが一緒に生活しているから。
みんな言葉が通じなくてもわかり合おうという気持ちがあるんじゃないかなって感じています。」

チュウピンさんはいま、団地で行われている外国語の放送に進んで協力しています。
この日は、中国ではなじみがない学童保育という制度の意味をわかりやすく伝えようと翻訳を工夫しました。

放送するチュウピンさん
「学童保育から入所説明会のお知らせをいたします。
学童保育とは団地の中にある集会所で学校が終わってから夕方まで、子どもを安全に世話してくれるところです。」

チュウピンさん
「『預ける』っている中国語はぴったりの中国語がなくて、安全に子どもを見てくれるところ、世話をしてくれるところと訳しました。
うまくできたと思います。」

いちょう団地で育った若者たち。
今、地域の将来を支える大きな力になろうとしています。


斉藤キャスター
「ほんとに頼もしく成長した外国人の若者の姿が印象的でした。
ただ、何もせずに外国人の若者が担い手になってくれる訳ではないというのも事実です。
彼らが、この団地をまるでふるさとのように感じ、力を尽くすようになったのは、団地の人々が20年にわたって、地道な努力を続けてきたからです。
いちょう団地の姿は、ニッポンの将来を考えるための『ひとつのヒント』になるのではないでしょうか。」



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