第8話 : 腸捻転の手術 〜来週からは○チャンネルでどうぞ!〜

 こうして、メディア的、政治的にはこの腸ねん転の手術は成功したのだが、その後の経過はどうなったのか。視点をガラリと変えて、今度は放送番組とその編成の角度から見てみよう。

 このネットワーク変更は、放送局の社員にとって予想外の出来事だった上に、切替えまでの期間が4か月しかなく、実務作業は煩雑をきわめた。TBSは、ABCと信頼関係を築きスムーズに提携してきただけに、異なる道を切り開いてきたMBSとの連携は、双方にとって勝手が違い、短期間に折り合うのは困難だった。ネット変更の実施には、番組、広告、枠変動などの膨大な作業があり、スポンサーや代理店、さらに4局全体での打ち合わせと、わずか4か月の間にすべてをこなすこととなった。編成と営業を軸に、TBSの各担当がそれぞれMBS側と実務的な協議を行ったが、特に編成部門の交渉が重要で、プライム帯の番組の調整が焦点となった。首脳レベルで原則合意はできていたものの、実務者の協議では、TBS側はできるだけこれまでの枠や編成表を守りたい、MBS側はそれまでNETに対して送り出していた番組枠を確保したいと、正面からぶつかることとなった。時に激しい言葉が飛び交い、つかみかからんばかりの議論もあったという。結局プライム帯のMBSの枠は4時間とすることなどで決着した。

 ネット変更は、視聴者にもスポンサーにも大きな影響を及ぼす。ネット変更する4局では、スポンサーの了解を得ることが第一の課題だったが、それ以上に視聴者にインフォメーションを徹底し、理解を得ることに努めた。調整に当たるため4社予告会議が前後のベ28時間にわたって開かれ、3月末の最後の週に、移行する番組すべてに原則一分の予告枠を設けることになった。その結果、例えばTBSで『必殺必中仕事屋稼業』を見ていた人は、本編中の画面に「この番組は来週から10チャンネルNETテレビでご覧ください」というスーパーが出て、驚くこととなった。番組最後の予告枠には「来週からは新番組・影同心です」という案内と予告の番組内容が入った。同様に『新婚さんいらっしゃい!』を見ていた人は「この番組は来週から10チャンネル NETテレビでご覧ください」、ABCで『お笑い頭の体操』を見ていた人は「この番組は来週から4チャンネル 毎日放送でご覧ください」というテロップも出て、周知徹底を図った。この処置を取った番組は両系列で120番組にも上ったという。この対応は視聴者に好感を持たれたようで、意外に視聴者からの問い合わせやクレームは少なかった。
 ことにMBS・ABCの場合、大半以上の番組が変更するのでPRにも熱が入った。テレビ・ラジオの番組・新聞の広告やPRのページはもちろん、MBSは「4月から4チャンネルだよ!全員集合」というキャッチフレーズを書いた幕をマイクロバス、ビルにつけ、ABCは阪神間を中心に選挙の如く「〇〇〇は6チャンネルで放送しています」とウグイス嬢に叫ばせた。
 MBSには「4月から4チャンネルと6チャンネルが入れ替わるのですか?」「4月からABCから千里丘へ引っ越しますの?」などという珍質問があったが、「仮面ライダーはABCで放送するのですね!」というものも。仮面ライダーは今でこそABC(正確にはテレビ朝日)に変わったが、夜の番組がすべて東京発と思われているのは、昔も今も変わっていない。
 また象印マホービン(現・象印)は3月30日、提供していた『スターものまね大合戦』(NET)のチャンネル変更広告をサンケイ新聞の大阪版に掲載した。「チャンネルが変わります! 今夜は4チャンネルで 次週4月6日からは6チャンネルで」とPRしているが、スポンサー側でこのような広告はあまり見られなかった。


 4月改編の作業と並行して、JNNネットワーク加盟のための各種の協定蹄結の作業が進められた。「JNNネットワーク基本協定」「JNNネットワーク協議会運営覚書」「テレビジョンネットワーク協定書」「テレビジョンネットワーク業務協定書」「五社連盟協定書」などに調印するための調整がTBSとの間で行われた。NETとのネットワークとは違って、JNN系列は、TBSを中心とした中央集権型の協定になっており、MBSとしてはなじみにくい内容も多かったが、調整のうえで調印を終えた。
 放送枠問題は、ABC発TBS受けのネットワーク番組は、週間3時間30分(5枠)で、MBSとABCの発枠の差2時間30分(6枠)をどう調整するのかが問題であった。データイムでもMBS発NET受け、週間5時間35分(11枠)であるのに対し、ABC発TBS受け、週間2時間15分(7枠)。その差は3時間20分である。当然、時間枠問題は難航した。当時のMBS発番組は、19時台・30分番組6枠(3時間)、21時台・60分番組1枠、22時台・60分番組1枠、30分番組1枠、15分番組2枠(2時間)であったが、ようやくまず、21時台、22時台の1時間ドラマ2本は、22時台に収容することで合意した。19時台の30分番組6本については長い折衝の末、MBSが大幅に譲歩し、『まんが日本昔ばなし』(火曜19:00〜)と『ジム・ボタン』(金曜19:00〜)は終了させ、2本減らして4本で決着した。 

  このうち、『まんが日本昔ばなし』は数奇な運命をたどることになる。この年、昭和50年1月に放送を開始したばかりだったが、このときに枠が確保できずに僅か3ヶ月で打切りとなってしまった。もともとこの番組は番組改編の都合で放送枠が空いてしまい、その穴埋めとして本来は海外に住む日本人向けに制作していたものを放映していたためである。放送局側としては既定路線であったが、この3ヶ月間で番組の良質性を感じ取った視聴者から中止への抗議や再開の嘆願が殺到し、MBSはそれを受けて翌51年1月から土曜19時の「仮面ライダー」枠で復活することになった。以降四半世紀にわたって放送されることとなる。しかしながら後年は他局の同時間帯の番組の躍進により人気に陰りが出始め、1994(平成6)年3月26日をもって土曜19時の全国ネット枠から撤退、ローカル枠に格下げされ継続放送されていた(ローカル枠のため番販扱いとなり放送時間は各放送局によって異なり、またJNN系列局でも土曜19時台の全国ネット終了をもって番組そのものを終了した局もある)が僅か半年後の制作局・MBSで8月27日(TBSは9月3日)をもって新規制作分の放送を終了し、10月1日より既存制作分の再放送に切り替わった。それでもローカル枠に格下げ後も2003(平成15)年9月(CBC。MBSは2001(平成13)年11月、TBSは2000(平成12)年3月)まで放送されていた。この間、厚生省(現・厚生労働省)が運営していた『中央児童福祉審議会』(現在は廃止)の推薦を受けるなど公共性も高く番組の質の良さのお墨付きもあってかこの後も再び放送再開の声の後が絶たなかったが、2005(平成17)年10月より水曜19時枠で再び放送することとなった。但しこの放送では、過去の初期作品のうち、DVDなど商品化されていないものでハイビジョンデジタルリマスター化した映像と制作当時のクリアな音声をもとに装いも新たな新番組の位置づけで放送された(新番組ではあるものの、番組のオープニングは従来通り「にっぽん昔ばなし」、エンディングは「にんげんっていいな」に固定された)。当初は6ヶ月の放映予定であったが、キー局のTBSの編成の都合により翌2006(平成18)年9月まで1年間に延長されて放送された。この放送終了後もMBSには今現在でも放送再開の声が後を絶たないが、権利関係等の問題もあり、MBSとしても真摯に視聴者の声を受け止めるとしているが、再放送も含め放送予定は立っていない。
 その後、2011年4月10日にMBSが持つ日曜夕方の全国ネットアニメ枠で、前番組終了後、新番組開始の間の猶予期間に1回だけ「一休さん」と「一寸法師」が復活特番として放送された。これはMBS開局60周年とJNN系全国ネット35周年の記念企画して製作される当番組のDVD化の宣伝も兼ねたものである。

  このほか、教養ものとして人気のあった『トークロータリー おとなの学校』(金曜22:00〜)は枠確保ならず「閉校」を余儀なくされ、これに続く金曜22時台後半の15分番組「皇室アルバム」(継続中)、「真珠の小箱」(後にCBCのみネット・2004.3.27終了)は土曜、日曜の午前中に押し出された(片や大手百貨店、片や大手私鉄・・・スポンサーの都合等もあったと思う)。MBSは、プライムタイムで週間5時間以上の発枠確保を絶対条件として交渉にあたったが、結果、週間4時間でとりあえずスタートせざるを得なかった。NETネットの時と比べると、一挙に2時間(5枠)の減少である。5時間ネット問題は将来に持ち越された。また日曜の定番だった『素人名人会』は土曜の昼へ移動された。ラジオで人気が出つつあった笑福亭鶴光と姉妹漫才の海原千里・万理(万理は上沼恵美子)司会の視聴者参加もの『夫婦合戦 見合って見合って!』も登場、TBSへ時差ネットされた。

 以前から力を入れてきたゴルフ中継、その他のイベント番組の扱いも交渉の焦点の一つであった。
 昭和49年にはMBSはゴルフだけで5イベントの中継を行っていた。当時、TBSは女子ゴルフやテニスの中継に積極的ではなかった。協議の末、従来通りの存続を決めたのは「ダンロップフェニックストーナメント」「美津濃・LPGAジャパンゴルフクラシック」「ダンロップゴルフトーナメント」それに「グンゼ・ワールドテニス」であった。「カティーサーク日英プロゴルフマッチ」「サンスターレディス日米対抗ゴルフ」は姿を消すことになり、また、「ダンロップトーナメント」(のちに「ダンロップ・インターナショナルオープンゴルフ」に改称)も52年の茨城GCでの試合を最後に放送打ち切りとなる。

 一方、東京12チャンネルとのネットでは、MBSはプライムタイムで東京12チャンネル発週間2時間・2枠「プレイガールQ」「日米対抗ローラーゲーム」、MBS発週間1時間・1枠「仁鶴・たか子の夫婦往来」、このほか土曜17時台で東京12チャンネルの「世界びっくりアワー」を放送し、日曜18時に「ヤングOH!OH!」を東京12チャンネルヘ送っていた。TBSは、MBSの編成表に東京12チャンネルの番組が残ることを嫌い、東京12チャンネルのネットを全廃するようあらためて要求した。東京12チャンネルのネットについて、MBSとTBSの間では、3月ぎりぎりまで調整に手間どったが、最終的にMBSは、火曜22時のローカル枠に「プレイガールQ」を編成するにとどめた。週間3時間・3枠が1時間・1枠になったわけだが、この1枠も1年後には姿を消し、東京12チャンネルとの番組ネットは幕を閉じた(但し、この後もテレビ大阪開局までの間は番組購入は続いた)。

 ABC制作で、TBS編成のなかで終了する番組の主なものは「シャボン玉プレゼント」「新婚さんいらっしゃい」「夫婦善哉」「はじめ人間ギヤートルズ」「必殺必中仕事屋稼業」など。MBS制作で新たにTBS編成に入ってくる番組は「ちびっ子アベック歌合戦」「野生の王国」「影同心」「仮面ライダーストロンガー」「アップダウンクイズ」「生き物ばんざい」などだった。
 75年3月6日、東京ヒルトンホテル(現在のキャピタル東急ホテル)でJNNネットワーク協議会の総会が開催された。ABCの代表はこの席上でこれまでのTBSをはじめとする各局の厚誼に感謝するあいさつを行い、退場した。出席者全員が起立して惜別の熱い拍手が渦巻いた。そのあと、MBSの新加盟が満場一致で認められ、MBS代表斎藤守慶テレビ営業局長(のちに社長を経て会長に)が入場し、入会のあいさつをした。「MBSはもともとTBSとのネットワ−クを希望していた。しかし(昭和)33年の時点でそれは許されなかった。それ以降は、ゴルフでいえば隣りのコースでプレーしていたようなものだ。いまここにやっとJNNのコースに戻ることができて、大変嬉しい。今後は系列のために最大の努力を払いたい」と述べた。満場の柏手とともに迎えられたMBSはJNNネットワークに正式に加盟した。MBSのJNN加盟は、ネットワーク基幹地区の結束を強固なものにした。番組の流れは結果的に整然と定められた訳だが、新しく組んだTBSとMBSは、ネットワーク運営のルールや用語、仕事の進め方、さらには社員の気風まで違っていた。そこには、JNNのリーダーとしてヒット番組を数多く持ったTBSの自負と、NETとのネットワークにおいて準キー局として発言力も強く、ネット番組制作の実績も持つMBSの自負との微妙な衝突があったといえよう。両者は、その後率直な議論と協調の努力を積み重ね、相違点を1つ1つ克服し、手を携えてJNNの発展を目指している。

 編成の基調を変えずネットワーク変更は、75年3月31日(月)6時23分05秒、いままでより25分早い放送開始であった。TBSは、最初のプログラム朝の天気番組「きょうも元気で」(6:55〜)を全国ネットした。続く7時からの「JNNニュースコール」でMBSからニュースを送ってもらった。MBSも朝の定時ネットワークニュースの送出は初めての経験であった。TBSアナウンサーのキューワード、「次は大阪、MBSからお伝えします・・・」。ところが、「…」?。どうしたことか、MBSの画像も音声もネットされなかった。TBSのマイクロ切り替えミスのため、届かなかったのである。7時25分からの「にっぽんの空」のあと、7時46分からの「にっぽん中継」で、冒頭にMBSの担当枠を与えた。折からセンバツの真っ最中で、倉吉北高校(鳥取県)監督と同校宿舎のおかみへのインタビューがJNN各局に送り出された。「8時の空」では甲子園球場から、「モーニングジャンボ」(8:30〜9:55)ではミリカカメラで、それぞれ大阪の空模様。11時45分からの「JNNニュース」にも、MBSから初送り。13時30分、MBS発の帯ドラマ「京まんだら」がスタート、ドラマのTBSのなかへMBSドラマの初登場であった。そして、この日最後のネット送出は「スポーツニュース」(23:25〜23:30)でのセンバツの試合結果を送り出しした。その後TBSの番組編成は従来の流れを変えることなく維持され、高視聴率を獲得し続けた。高視聴率レギュラー番組を基盤にして、夜9時台、10時台に大型ドラマを配するというTBS得意のドラマ中心編成であった。75年はTBSのテレビ開局20周年にあたり、ネットチェンジ直後の春編成に20周年記念番組が登場したが、その番組が視聴率アップに大きく貢献し、4月第1週のゴールデン平均は19.3%という高視聴率を獲得した。記念番組「20周年だヨ!全員集合」は34.7%という数字を得た。TBSは20周年記念番組シリーズとして、4月第1週から4週間にわたり、深夜0時から芸術祭受賞作品12本を再放送し、優れたドラマは時を超えて見る人を感動させることを示した。新加入のMBS発の番組は、これまでTBSが比較的弱いとされてきた午後7時台の時間枠の強化に大いに役立った。「ちびっ子アベック歌合戦」「野生の王国」「仮面ライダーストロンガー」「アップダウンクイズ」がいずれも旧枠を大幅に上回る視聴率を獲得して、ネット変更の効果を示した。

 ABCの番組編成では、MBSにごっそり移ってゆく人気シリーズのあとを埋めるのに四苦八苦する。しかしそのことが逆に自社制作を促し、報道と制作の現場は昼夜兼行で新番組づくりに努め、ローカル番組のテコ入れに励むことになる。こうして、ネット変更後に登場した「藤山寛美3600秒」をはじめ、やすし・きよし司会の「プロポーズ大作戦」、藤田まこと主演の「必殺シリーズ」や人気のあった玉井孝アナ司会の朝の報道生ワイド「おはようワイド土曜の朝に」などが高視聴率を稼いで、ABCの窮地を助けてくれたのである。「藤山寛美3600秒」も「プロポーズ大作戦」もローカルものをANNになってネットに昇格させたもので、JNNの頃は余りに大阪的というのでネットのお呼びすらかからなかった番組で、ローカル枠向けに細々と番組販売扱いとなっていた。ネット変更してからの朝のアニメ番組も頭痛の種。午前6時〜9時に6チャンネルにスイッチを入れると、いつも漫画。よそは「モーニング・ジャンボ」(JNN)など出勤前の情報番組を出しているのに比べて、なんとも情けない。「朝を何とかしよう」がABCテレビ編成部の悲願となった。その結果、報道局の努力で79年(昭54)に『おはよう朝日です』がデビューする。もうひとつ困ったのが、午後3時〜5時台の再放送番組のストックが余りに少ないこと。JNN時代はドラマのTBSで、素材には苦労しなかったが、こちらはキー局の再放送素材が不足して、あちこち手を回して番組をかき集めなければならなかった。このネット変更で、営業が最も恐れたことは、ネット局数がガタ減りになったためにスポンサー離れがひどくならないかということであった。不利なネットを承知で、黙っていてもABCに付き合ってくれるスポンサーなど、そんなにあるとは思えない。ネットスポンサーはごっそりMBSに持っていかれた。営業部隊を総動員でくり出して、片っ端からスポンサー引き止めと新規開拓へセールスがはじまった。胃の痛みを訴える部員も少なくなかった。また系列局が8つしかないから、フルネットしてもJNN時代にはとても及ばない。「新婚さんいらっしゃい」などの人気番組は、編成・営業の総力戦でなんとか12局ネットくらいにまで持ち込んだ。そのほか、プライム・タイムにABCが受け持つ番組粋がなかなか決まらないから、以後のタイムセールスの見通しが立たない。キー局とのやりとりの末、ようやく週5時間半がABCの責任枠と決まった。スポットも苦戦する。JNNのときは関西でABCだけが年間70億円台のスポット売り上げで1位にあったものが、変更直後は一転して最下位に。視聴率の予測がネット変更で困難となり、スポンサー側に買い控え現象が起きたためらしい。ともあれネット変更後はプライム・タイムの視聴率もトップから最下位になった。

 では、これらの番組の中から幾つか例を取り、逸話も交えて具体的に見てみることにしよう。


case1 そのままネットチェンジ後も引き継がれたもの

〔 事例・1 〕 ABCの「必殺」シリーズ

 昭和47年の土曜22時。上州(群馬県)を舞台に大きなつまよう枝を引っさげ「あっしにはかかわりのないことでござんす」と中村敦夫が吠えていたフジテレビの時代劇『木枯し紋次郎』(47.1.1〜)がブームになっていた。この時間TBS系ではABCの受け持ち枠でドラマを放送していたが、TBS『柔道一直線』で名を馳せた桜木健一の水泳スポ根『君たちは魚だ』はいまひとつ逃げ切れない。「このままではTBSに枠を取られる可能性が高い」と危機感を募らせたABCプロデューサーの山内久司は「紋次郎を超越した時代劇を」という狙いをたて、9月2日に『必殺仕掛人』がスタートした。
 原作は池波正太郎の短編時代小説『殺しの掟』、そして『殺しの4人』などの“仕掛人・藤枝梅安シリーズ”をベースに“仕掛人”と呼ばれる闇の殺し屋たちの生き様が描かれた。しかし、テレビではあまりにもイメージがかけ離れているので池波の怒りを買ったのは有名な話だ(テレビ化で絶賛したのは、鬼平犯科帳(中村吉右衛門版)くらいか)。が、番組はヒット、紋次郎のつまよう枝をへし折った格好だ。
 そして藤田の当たり役、映画007の「ジェームズ・ボンド」をもじった中村主水が登場したのは第2作『必殺仕置人』(48.4.21〜10.13)。が、主役は山崎努扮する念仏の鉄、沖雅也の棺桶の錠・・・藤田はサポート役にすぎなかった。しかしホームドラマ中心のTBS系では異色であったことは確かで、番組放送中に発生した殺人事件が『必殺仕置人』の影響によるものと報じられたこともあり(実際には全く関係がなかったのだが)、TBSからも内容改善要求があったようだ。
 ネットチェンジ時は第5作目の『必殺必中仕事屋稼業』(50.1.4〜6.27)が高い人気を誇っていた。
 『仕掛人』で藤枝梅安を演じたシリーズ中興の祖・緒方拳扮する「知らぬ顔の半兵衛」はそば屋の主、夜は殺し屋になるというもの。半兵衛は元締(草笛光子)にスカウトされたことや、「ギャンブル好き」という等身大の設定が新鮮で、必殺シリーズ屈指の最高作品だった。
 それがネットチェンジで『金曜10時 うわさのチャンネル』(NTV)『金曜ドラマ』(TBS)『ゴールデン洋画劇場』(CX)―と強豪ひしめく金曜22時になることに伴い、系列局も「大ヒット中!」(NET)「人気番組登場!」(瀬戸内海)と力を入れた。が、視聴率は半減してしまう。
 TBS系の空いた枠に入った時代劇『影同心』(MBS・東映 50.4.5〜9.27)が「必殺そっくりの設定」で視聴者をいただくという作戦をとった事も一因とされた。山口崇・渡瀬恒彦・金子信雄の3人が演じる「うだつ」の上がらぬ同心が、裏の顔は凄腕の殺し屋だったという設定は、「必殺シリーズか・・・」と誰もがそう思っていたが、出来栄えもよく「本家越えを果たした」との声もあった。そして「必殺」も手がけた深作欣二・工藤堅一らの監督陣の参加や、主水シリーズの顔・菅井きんも出ていたというから驚きである。開始時のコピーも「地獄へ落ちろ 仕掛けた罠が パスポート」と必殺を意識していた。10月からはキャスト・設定を変えて『影同心
U(同 50.10.4〜51.3.27)も作られたが、所詮は2番煎じ。こちらは失敗した。
 この移動は必殺に多大なダメージを受け、山内は次の第6作『必殺仕置屋稼業』(50.7.4〜51.1.9)から、それまで脇役格だった中村主水―藤田を前面に押し出す。『むこ殿!!』とばかりに養母のせん(菅井)・妻のりつ(白木万理)コンビも毎回登場する。その後も中村主水が登場する『仕業人』『商売人』、中村主水が登場しない『からくり人』と紆余曲折があった。第14作の「飛べ!必殺うらごろし」はオカルトを題材に、中村敦夫、市原悦子、それに和田アキ子などというキャストで制作されたものの、視聴者の支持が得られず失敗してしまう。これに反省して「必殺」の原点回帰を目指して制作された第15作の『必殺仕事人』(54.5.18〜56.1.30)でやっと安定する。のちにブームを巻き起こし『必殺仕事人
V(57.10.8〜58.7.1)では、何と30.9%(関西地区)という「平均視聴率」を記録している。そして『必殺仕事人・激突!』(平成3.10.8〜4.3.21)まで30作られ、20年の歴史に幕を閉じたが、未だに各地の放送局で再放送されるなど人気は衰えていない。
 また、2007年末にそれまで主役だった藤田まこと演じる「中村主水」から東山紀之演じる「渡辺小五郎」へバトンタッチ、「必殺仕事人2007」として2時間枠で放送したところ評判が良かったのか、2009(平成21)年1月4日に必殺仕事人放送30周年とテレビ朝日開局50周年記念として2時間枠で、また同年1月9日より新シリーズ「必殺仕事人2009」として、再び連続ドラマとして放送された。但し、今まではABCと松竹の共同制作であったが、本シリーズには両社とともにテレビ朝日も制作に参加している。また、この番組は当初1クール(1月〜3月)で終了する予定であったが、視聴率が好調だったため、急遽1クール延長(4月〜6月)されて半年間の放映となった。

〔 事例・2 〕 MBSの「仮面ライダー」シリーズ

 今度は子供ヒーローもので、仮面ライダーシリーズもまた、必殺シリーズと同じようにネットチェンジ後も引き継がれた番組のひとつである。ただ、ここで必殺シリーズと違うのは、放映中だった「仮面ライダーアマゾン」は、ネットチェンジという理由だけで終了させられてしまうことである。ネットチェンジ後は「仮面ライダーストロンガー」を放送するも、しばらく続くのかと思いきや、ネットチェンジ後はこの1作で終わり、替わって助命嘆願が殺到した「まんが日本昔ばなし」をこの枠で復活させることになったため、次回作までしばらく間があいてしまう。

 と、2つの事例を見てきたが、そのほかにも、「ヤングおー!おー!」や「アップダウンクイズ」(ともにMBS)、現在でも続いている長寿番組「新婚さんいらっしゃい!」(ABC)などがある。


case2 ネットチェンジによって生まれたもの

〔 事例・1 〕 旧放送枠の穴埋め

 人気番組「必殺シリーズ」をNETに持っていかれたTBSはつらいということで必殺便乗番組『影同心』を毎日放送と東映に発注し全く同じ曜日時間(土曜22時)で放送をスタートさせる。詳細は前述したので割愛させていただくが、多くの視聴者は『影同心』を必殺シリーズ新番組と思い込みそのまま見続けたため本家の必殺の視聴率は半減してしまう事態に陥った。一方、「仮面ライダー」をTBSにもっていかれたNETは集団ヒーローものの元祖「秘密戦隊ゴレンジャー」を始める。「ゴレンジャー」の企画が立ち上がった最大の理由はネットチェンジであった。残ったNETの放送枠に収まった企画が、東映特撮の生みの親・平山亨氏がかねてより温めていた「集団ヒーローもの」つまりは「ゴレンジャー」だったのである。企画自体は長い時間をかけてじっくり練られたと言われる「ゴレンジャー」だが、そのキャスティングなど具体的な部分はいつ頃から動き出したのだろう。近年の東映特撮ヒーロー作品では 1月後半に立ち上がる新番組の場合、オーディションその他の選考を経て大体10月頃にキャストの最終決定、制作発表、11月からクランクインのスケジュールで動き出す。「ゴレンジャー」当時もスケジュール的には現在とあまり変わらず、記録では1975年4月5日初回オンエアに対してクランクインが同年2月26日となっている。

〔 事例・2 〕 スポンサーの事情・東洋リノリユーム(現・東リ)の場合

【はじめに】
 番組開始当初から36年間司会を務められた児玉清氏は、2011年5月16日にご逝去されました。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 このネットチェンジの最大の申し子といえるのが、今でも続く日曜昼の定番『パネルクイズ・アタック25』。初代司会者であった児玉清の名ゼリフ「その通り!!」「アタックチャンス!」、さらに海外旅行のかかった出題の「さて、その○○とは!」の雄叫びが緊張感を増す、現在では全国ネットの定期放送で唯一となった「国宝級」視聴者参加のクイズ番組である。

 「東リ・パネルクイズ アタック25」は1975(昭和50)年4月6日(日)午後1時15分、朝日放送制作、ANN系列で25分間の全国ネット番組としてスタートを切った。しかし、この番組のスタートの裏には、この「腸捻転」問題が絡んでいた。2011年5月22日にABC系列で放送された児玉氏逝去に伴い当日放送収録分の通常放送を差し替えて行われた緊急特別追悼番組でも触れられていたが、アタック25のスタートの1年前となる1974(昭和49)年4月7日(日)、毎日放送で昼2時からの30分番組として「クイズ・イエスノー」の放送が開始された。司会は児玉清と毎日放送の佐藤良子アナウンサー。番組の内容は定かではないが、個人戦で、勝ち残りのチャンピオンと挑戦者による1対1の対戦。TBS系で後年放送された「クイズ100人に聞きました」のトラベルチャンスのようなフラップ式(ザ・ベストテンの順位表示で使われたパタパタの表示機)の表示盤が縦に5つ並んだボードがあり、そこに問題が表示される(例:テーマ「次に挙げる5人の歌手は、芸名と本名が同じである」であれば、問題として名前が5つ提示される)。解答者が左右に分かれており、○×の解答をボタンで押す。表示盤の両端にそれぞれの解答が点灯し、正解なら赤く灯る。5問全部終われば問題の解説。そして次のテーマへ。これの繰り返しであったようだ。対戦は3テーマ行う。正解数の多い方が勝ち、もしくはテーマごとに正解数で勝敗を決め、2セット取った方の勝ち。逆転要素もない。実にシンプルかつマジメ、しかも盛り上がりどころのない凄く地味な番組で、人気は出なかった。この頃の毎日放送のタイムテーブルによるとこの番組は「吉本新喜劇」や「がっちり買いまショウ」「素人名人会」といった毎日放送史に燦然と輝く高視聴率番組の後に控えていたのだが、これらの視聴者は「イエスノー」まで見てくれてはいなかったようである。番組自体は半年後にタイトルを「5人抜きクイズ・イエスノー」と変え再出発を図るなどしたが、それでも苦戦を強いられ決して順調ではなかったようである。毎日放送は当時日本教育テレビ(NETテレビ、後の全国朝日放送。現・テレビ朝日)とネットを組んでおり、番組もANN系列の全国ネットで放送されていた。そして、この番組の1社スポンサーを務めていたのが東洋リノリユーム(現・東リ)であった。
 余談だが、賞品は
「クイズ・イエスノー」時代は賞金を獲得。勝ち抜きに制限なし。「5人抜きクイズ・イエスノー」時代は5人勝ち抜きで優勝となり、賞金10万円とタヒチ旅行を獲得。4人勝ち抜きでは「東リ賞」としてスポンサーの東洋リノリユーム商品が贈られた。
 一方で、「腸捻転解消」によるネットチェンジが図られることにより、放送番組の大幅な入れ替えが当然発生する。その過程で毎日放送発の放送枠がANN時代より減ったため、「5人抜きクイズ・イエスノー」の枠が毎日放送〜TBSの新ネットでは消滅することになった。しかし、「イエスノー」自体の評判はともかく、せっかくの全国ネット提供枠を失うのはしのびないとばかりに、クイズ番組に理解を持っていたスポンサーの東洋リノリユームとしては放送を続けたい意向をみせた。だが、放送できる枠がないので番組が宙に浮いてしまった。これに困った代理店の電通が朝日放送に話を持ってきたのである。
 この時、東リと電通から出された条件は、放送は日曜日の午後、番組はクイズもの、司会は児玉清、構成は堤章三の2人ということであった。
 いずれも朝日放送では問題がなかったので、引き続いて同じANN系列で提供するクイズ番組をもつこととなり、毎日放送に変わってANNの大阪準キー局となった朝日放送の類似時間枠のスポンサーへとお引越しした。(この背景には東洋リノリューム(現・東リ)はNET系での放送にこだわっていたという説もある)。


 新クイズの制作に当たっては枠組みが毎日放送から引っ越してくる、という特殊な事情もあってかその毎日放送ですでに10年あまり放送されている看板番組でもあり、当時の日本のクイズ番組の最高峰といっても過言ではなかった「アップダウンクイズ」を参考にしたという。朝日放送の制作スタッフはこの番組の人気の秘密を分析しつつ、その内容を超える番組作りを模索する。初代番組プロデューサー三上泰生氏の著書「6chは上方文化や」に詳しい記述があるが、クイズ問題のクオリティの高さ、一目で誰が勝っているのかが判る趣向のおもしろさ、ルールの非情さ。アップダウンの人気の三要素ともいえるこれらを新クイズでは取り入れることとなった。クイズの作成など番組の構成は条件どおり、前番組の構成スタッフでもあり、「アップダウンクイズ」でも構成を務める堤章三が担当することになった。

「見た目の分かりやすさ」ということで“パネル”を奪い合う、ということがまず決まった。企画会議でそのころはやっていたオセロゲームが話題に出る。三上は自著「6chは上方文化や」にこう書き残している。「夜中に、ふと子供に買ったオセロゲームを思い出した。白と黒のチップのかわりに4色のパネルを使って、クイズを組み合わせたらどうだろう」。つまり、相手のパネルを挟むと、自分のモノになる。というのだ。“逆転の発想”が入り込んだ。それはイケると活気づく。しかし、カラーパネルによるオセロゲームをクイズとドッキングさせるという趣向は「白黒テレビでは勝敗がわからないから記号で表示できないか」という今の感覚からは考えられない思わぬクレームが出たものの(昭和50年前後だと白黒テレビもまだまだ健在である)将来的なことも考えこれもクリア。では、パネルを何枚にするか。20枚か、25枚、それとも30枚か。スタッフは実際に問題を作って、手書きの紙パネルでシミュレーションを繰り返した。放送時間内にパネルが全て開いて、最も多いパネルを獲得した解答者が海外旅行に挑戦する、といった内容だと「25枚」が適当、という結論が出た。また、パネルの獲得枚数で勝敗を決めるためいくら答えても成績がいいとは限らない非情性も「それではあまりにもひどすぎ〜」とクイズの成績でも別に賞金を出す案がでたという。しかし、これがこの番組の最大の特徴であるとプロデューサー三上氏が頑として譲らなかったことで成績を二重構造にする案もボツ(但し、クイズの成績ではなく、最終的に各回答者のパネルの色が残された枚数に応じて賞金が出された)。こうして「アタック25」の骨組みは出来上がった。そして司会者だが、「イエスノー」で司会をしている児玉清に朝日放送の新クイズ番組でも引き続き司会を、という話に対して、思いもかけず断ってきた。児玉はこう述べている。「だって、僕は諦めていたんです。あのクイズ番組は視聴率もそう上がらなかったですしね。それに、自分の未熟さを棚に上げて言うのもなんですが、自分自身何かこう熱狂できないものがあったのです。もう終わりだな、って思っていたんです。」
 困った三上は、児玉と面識があった制作部員に交渉役を頼んだ。児玉は「前の番組で成果を上げていないのに、またというのは、失礼ですから」とやはり断った。しかし、東リの意向も「児玉続投」であったため、朝日放送側の「そう固いこと言わんと…」と度重なる説得に折れて司会を務めることになったという。こうして今日まで続く「アタック25」は第一歩を踏み出したのである。最初は25分番組でスタートしたのだが、半年後に5分拡大されて現在の30分番組となった。

 ルールは当初、単純に25枚のパネルの奪い合いであったが、大詰めの盛り上がりに欠ける。後半の勝負のアヤを出すために、正解者がすでに他の人が獲得したパネルを横取りできるという、「アタック・チャンス」のルールの眼目が番組開始から半年後に加えられた。これで逆転のチャンスがまた増えた。「アタック・チャンス」も当初は1回のみで誤答もしくは回答者無しの場合は無くなってしまっていたが、後に正解者が出るまで続ける方式になった。
 また、誤答すると「3問」出題される間立たされて、この間は解答する資格がないのだが、4人のうち3人が立ってしまって1人だけで答えるという場面も出てきた。そこで「2問」を待つというルールになり、さらにオープニングクイズではお手つきのペナルティなし(※これは、ルール変更以前はオープニングクイズでお手付きして起立してしまうと、当時はCM明けの解答者自己紹介の際にお手付きした解答者は起立した状態で自己紹介するケースがあったため。現在はあらかじめVTRで収録したものを編集して紹介している)、という点が改められた以外は、ほぼ原型を保ったまま今日に至っている。


 準キー局同士のネット替えという放送史上まれにみる大事件の狭間で誕生した「アタック25」。もしネット替えがなければ、もしくはさらに遅れていれば、「アタック25」は出来ていてもそのシステムが今と異なっていたら、今や我が国有数の長寿番組のひとつとして数えられる「アタック25」は存在しないまま、あるいは短命に終わり、ひいては正統派視聴者参加クイズ番組の灯もすでに消えてしまっていたかもしれない。腸捻転、東リ、イエスノー、児玉清…。複雑な事情が入り組んだ末、「アタック25」はスポンサーや司会者は変われど今なお色あせることなく日曜の昼にスリリングなひとときを我々に提供してくれている。

【―パネルクイズアタック25の司会者・児玉清氏について―】

上記パネルクイズアタック25の司会をされておりました児玉清氏は各種報道にもありました通り、2011年5月16日にご逝去されました。
なお、このページは児玉氏がまだご存命当時に書いたものであり、また、この番組の誕生の経緯についてまとめたもので、その過程で児玉氏の関係が大変深いこともあり、本項目につきましては引き続きご存命当時のままの形で記載させていただきます。
そのためご覧の皆様には一部不適切・不快な表現があるかもしれませんが、何卒ご了承をお願いいたします。



【この話を製作するに当たり、一部内容の転載許諾を頂きました】

(C)かわぐち まさし@愛媛県 様

[ この章の参考文献 ]

朝日放送株式会社・朝日放送の50年,九州朝日放送株式会社・九州朝日放送30年史,
全国朝日放送株式会社・テレビ朝日社史,名古屋テレビ放送株式会社・名古屋テレビ放送30年,
株式会社毎日放送・毎日放送50年史,株式会社東京放送・TBS50年史、三上泰生 著・「6chは上方文化や」