南京事件は、日中戦争で日本軍が引き起こした問題であり、事実関係や評価をめぐってなお論争のある重いテーマである。

 その記録資料が世界記憶遺産に登録されることが決まった。中国外務省は申請の理由について「平和を大事にし、人類の尊厳を守る」としていた。

 世界的意義をもつ文書、図画、映像などの記録を多くの人に利用しやすい形で保存する。そのための制度が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)による「世界記憶遺産」である。

 これまでも、世界のさまざまな歩みの断面を今に伝える記録が登録されてきた。ナチスによるユダヤ人虐殺をめぐる記録など、負の記憶も含まれる。

 自国の過去の過ちに向き合うことに、ためらいが伴うのは自然なことだ。しかし、日本は、あの戦争で他国に与えた苦痛と、国内の犠牲への深刻な反省から戦後、再出発した。不戦を誓い、過去の加害を忘れぬようにするのは当然のことだ。

 しかし、政治はしばしば、そのときどきの思惑次第で歴史の使い勝手を探ったり、受け入れる史実の選別をしたりする。

 日本の外務省は南京事件の登録について「完全性や真正性に問題があることは明らか。中立・公平であるべき国際機関として問題」と非難した。ただ、菅官房長官は昨年2月、「旧日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害、略奪行為があったことは否定できない」と述べている。

 自民党内からは、南京事件がなかったかのような発言が最近も出た。国際社会で広く認知されている史実を拒み、冷静さを欠く反応を示すようでは、「日本は過去を反省していない」と見られかねない。

 一方で、これまで中国が歴史の政治利用を繰り返し、露骨に日本への圧力に使ってきたのは事実である。今回はそうではないと言うには、踏み込んだ説明努力があるべきだった。

 新華社によると、登録された記録には、事件の死者を30万人以上と記した文書もある。死者数を裏付ける手がかりは乏しく、中国でも多くの歴史学者が疑う数字だ。だが、それを公然と論じる自由な空気はない。

 政治が意図をからめて利用すれば、歴史研究は妨げられる。今回の登録を機に、論争のある歴史と政治を切り離す姿勢を日中で確認し合ってはどうか。

 よりよき未来をめざすには、歴史を忘れてはならない。それぞれの国の市民が歴史に謙虚な態度で大いに研究し、議論を交わし、指針を見いだすことが重要なのである。