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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

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最後のゲーム実況者「ふぅ」とニコニコ動画の終わり

ニコニコ動画 ゲーム

 「マリオメーカー問題」と言われて炎上している、ゲーム実況者「ふぅ」が投稿した「マリオメーカーにたった1人で挑んだ実況者のラジオ」について語る。


 最初に立場を言っておけば、僕はふぅを全力で支持する。ふぅの言ったことは、正しくはない。それでも、間違っているとわかった上でも、僕はふぅの側に立ちたい。


 マリオメーカーとかランキングというのは話の取っ掛かりであって、本当の問題は、ニコニコ動画が終わってしまうのではないか、という皆が感じているであろう今のニコニコの空気だ。それを言語化するのは難しいが、なるべく納得してもらえるように説明していきたい。



 まず言いたいのは、2000年代後半から現在にかけて、ニコニコ動画のゲーム実況ほど日本の文化を体現してきたコンテンツはなかったと言うこと。そして、そのニコニコ動画がまったく違ったものになろうとしていること。

 ニコニコが無くなろうとしているのだ。単に人が集まらなくなるとか内容がつまらなくなるとかいうことではなく、また表面的には同じニコニコ動画であるように見えるが、それは確実に、違ったものになりつつある。


例の動画について



 動画見るのが面倒くさい人向けに言ってることを要約すると


  • 私はゲーム実況が大好きです。
  • 今のニコニコ動画は異常。
  • ランキングがマリオメーカーで埋め尽くされている。みんな任天堂のいいなりでマリオメーカーしか実況しない。上位ランキングに個性がなくなってしまった。
  • スプラトゥーン、マリオメーカーと、この流れがここで終わるとは思わない。
  • 実況者が公式と結びついてアイドル化している。
  • このままじゃニコニコ動画が衰退してしまう。
  • 今の実況動画は本当に嫌だ
  • 俺たちの楽しいニコニコを壊されたくない。俺は「断固として非難する」。みんなも俺に協力してくれ!


 という感じ。僕はふぅを支持する立場だけれど、この動画の主張はかなり筋が悪い。



 まず、ランキングが一時的にマリオメーカーで埋まるのは不自然ことではない。マリオメーカーはそれだけゲーム実況をする上で面白いソフトだ。また、それはたった数日間の現象で、現に今のランキングがマリオメーカーに埋め尽くされているわけではない。


 クリエイター奨励プログラムに則っている実況者を非難するもの、法的にも倫理的にも部が悪い。

 例の動画でふぅがBGMに使っているFF13の音源や、メイン実況の動画であるダークソウル2のほうは許可がなく、批判しているマリオメーカー実況者は全員公式のお墨付きを得ている。

 新作ゲームの発売から半年は実況しないという暗黙のルールがニコニコにはあったが、それは著作権を違反しているからその配慮のためのもので、公式が作品をプロモートするために許可を出したのなら、むしろ乗っかって実況するのだ正しい行いだろう。



 動画投稿後に生放送でぐちぐち弁解したもよくなかった。一方でふぅが「断固として非難」したアイドル実況者達は、自分たちに正統性がある上で沈黙を貫き、むしろその格を示す結果になった。

 だから勝ち負けで言えば、ふぅは精神崩壊アヘ顔ダブルピースレベルで「負け」ている。その負けは、ほとんど運命づけられている必然だった。



 そして、ふぅを非難する人達は、まっとうな「正論」を述べる。

 「ただの嫌儲で任天堂批判やアイドル実況者批判をするくらいなら、自分の好きなゲームでクリエイター奨励プログラムに登録できるように働きかければいいじゃないか」「任天堂だけじゃなく他のゲームでも面白い実況をした人を評価して、みんなに金が入って認められていくシステムを目指すべきだろう」

 そのような言葉は、正論であるが、わかっていない。まったく何もわかっていない。



 ニコニコは変わっていく。それはマリオメーカーのせいでもなければ、任天堂のせいでもなければ、アイドル実況者のせいでもなければ、運営のせいでもなければ、TPPのせいでもない。時代の流れだ。かつての野蛮で不合理なシステムが改善される、それだけの話しだ。

 だが、僕達の好きだったニコニコは終わってしまう。



 件の動画で、今のニコニコが「耐えられないんです」とふぅは言った。僕も同じようなことを思う。それが一体どういうことなのか、少し長くなるが、ちゃんと説明していく。


各コンテンツ産業の特徴

 なぜニコニコ動画のゲーム実況が終わってしまうのかという問題について語るためには、ゲーム、漫画、アニメ、ラノベなど、日本のクリエイティブ産業全体について言及しなければならない。


 日本のクリエイティブ産業の特徴を一言で表すなら、「クリエイターの地位が低い」ということになる

 現在の日本のコンテンツの原型は、歌舞伎や文楽や浮世絵など、悪所から生まれてきたものだ。これらは正統な権力の後ろ盾がない状態で、大衆の自由な取り組みから生まれてきたもので、これが海外のクリエイティブ産業のあり方とは大きく違う。


 ここでは比較対象としてアメリカとヨーロッパを例に出す。

 かなり雑な分け方だが、米国はプロフェッショナルヨーロッパはアート日本はアンダーグラウンドと分類して、解説していく。


アメリカ ヨーロッパ 日本
強い産業 ハリウッド 芸術、文化 漫画、アニメ
モデル プロフェッショナル アート アンダーグラウンド
特徴 実力主義 貴族主義、階級文化 大衆文化、悪所
消費者の集め方 宣伝と経済システム 価値と権威 参加と好み
クリエイターの評価 高い 高い(偉い) 低い


プロフェッショナル主義の米国ハリウッド産業

 日本人にも馴染み深いハリウッド映画は、日本にいるとわかりにいかもしれないが、映画産業を頂点として金と才能を集める垂直統合システムだ。わかりやすく言うなら、「成功が約束された場所を用意し、そこに莫大な資金と一流の才能を集める」のがハリウッドの仕組みということになる。


 メジャーな企業の連合が、資金調達と作品流通のシステムを独占することで、世界一ビックな、成功を約束された場所を作り上げた。それが今のハリウッドだ。

 制作に莫大な資金が必要なため、ハリウッド映画は失敗することができない。確実に作品を売らなければならないので、リスクヘッジの仕組みをいくつも用意している。例えば、劇場で一定期間だけ放映するのは評判が確立しないうちに人を集める仕組みだし、ハリウッドスターを推しだすのも作品の内容とは別に確実に見てくれる層を確保するための仕組みだ。

 そしてハリウッドという場においては、「制作に携わる=成功」になる。ハリウッドで映画作っているという時点でものすごく凄い。


 チャンスは誰にでも開かれているが、しかし、ハリウッドにたどり着くためにいくつもの関門がある。そして、そこにいることができるのは一流の才能のみだ。徹底的なプロフェッショナル主義であり、プロの待遇は日本のクリエイターと比べ物にならないほど良い。しかし、プロになれるのはごく一握りであり、勝者総取り、ウィナーテイクオールの世界でもある。

 クリエイター志望は、限られた「場所」を得るために、ライバルと競い合う。それはメイン産業である映画が大規模であることも関係している。だから、日本のようにとりあえず漫画を描いてみて、それが段々人気になっていく……みたいな考え方はしない。


 ちなみに、アメリカのゲーム産業もまた、ハリウッドと同じようにプロフェッショナル主義を取り入れて発展した。


階級と価値に規定されるヨーロッパのアート

 フランスやイギリスを始めとするヨーロッパでは、「階層」がコンテンツと密接な関わりを持っている。上流階級と庶民階級では、まったく文化様式が違い、その影響は現在に至るまで根強く残っている。日本のようにマスメディアがどのチャンネルも同じ知的レベルの国では想像しにくいかもしれないが、階級が違うと生活の仕方から考え方まで全然違う。


 そして、ヨーロッパにおける「芸術」とは、上流階級の文化のことである。芸術とは、センスではなく、教育と訓練によって理解できるようになるものであり、それはもともとそのような環境の中にいる上流階級にとって非常に有利な権力の仕組みとして機能している。

 ヨーロッパの文化的「権威」は、現代のおいても大きな影響力を持っていて、日本人が勘違いしている「洗練」だってヨーロッパ上層の猿真似だし、それはアメリカでもわりと似たようなものだし、インドなんかではかつての宗主国であるイギリスへの留学と、そこで身につけた文化がステータスだったりする。


 それは一様に悪いわけでもなく、過去の蓄積を参照した上で「美とは何か」「価値とは何か」を追求していく試みは、ヨーロッパ思想や哲学とも関連が深く、強い影響力を発揮し続けてきた。当然、その文化や創作の担い手には権威と尊敬が与えられる。

 もちろん、それは階級という仕組みに強く依存しているので、かつてに比べればその力を失いつつある。


アンダーグラウンドで育った日本のコンテンツ文化

 上で述べたアメリカやヨーロッパに比べ、日本のコンテンツは、公的な権力やシステムとは別のところで育ってきた。だからクリエイターの社会的な地位が低い。


 産業力が低下した今でこそ、クールジャパンなどと持ち上げようとしているが、漫画やアニメやゲームは、ずっと経済成長を阻害する悪要因として捉えられていたし、現在からは想像もつかないくらい迫害を受けていた時期もあった。

 日本においてクリエイティブ産業を目指すということは、まっとうな道から外れることであり、落ちこぼれがやることというイメージが強かった。

 日本のコンテンツ文化は、日の当たらないアンダーグラウンドにあり、「負け組」「底辺」が担うものだったのだ。


 日本のコンテンツが持つ「自由」さは、クリエイターが社会から見捨てられていたからこそ成り立った。

 悪所にある文化だったからこそ、自由に作品を作れた。その最もわかりやすい例が「エロ」だろう。

 日本のあらゆる作品に意味もなく組み込まれ、ほとんど血肉になっているとも言える「エロ」。例えばドラえもんのような子供向け作品ですら、特に意味もなく、しずかちゃんの入浴シーンがあったりする。こういうのはローカライズの際には抹消されるが、欧米の感覚からすれば考えられないことなのである。


 日本では、PTA的な人達の「萌えやエロは性犯罪を助長する」という考えに対し、「なんか そういうデータあるんですか?」とか「あなたの感想ですよね」と言うことができる。

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 しかしそれができるのは日本だけであって、欧米では、むしろPTA的な考え方が圧倒的に主流なのだ。

 若い人には、裏の意味とそうでないものとの区別ができないし、むしろ何であれ、その年頃に考えのうちに取り入れたものは、なかなか消したり変えたりできないものとなりがちだから……彼らが最初に聞く物語としては、徳をめざしてできるだけ立派につくられた物語を聞かせるように、万全の配慮をなすべきだろう(プラトン『国家』藤沢令夫訳)

 これは、ヨーロッパ思想の原点となっているギリシャの哲学者プラトンの言葉である。多くの教養あるヨーロッパ人やアメリカ人は、だいたいこのような考え方を受け継いでいる。そういうことは日本の文化の中にいるとなかなかわかりにくい。

 海外では子供が見るものはすべて親が選ぶ。日本の漫画のように子供に選択権が与えられ、作家が子供のお小遣いを当てにして制作を続けてこれた文化こそが、稀有なものだったのである。




 メインの産業が個人で制作可能な「漫画」だったことから、プロじゃなくても作品を作り、金銭や社会的地位に関係なくユーザー同士が交流する文化が生まれてきた。

 1975年から現在まで開催され続けている「コミックマーケット」が、それを象徴するイベントかもしれない。同人誌を作る人達の大半は、商業目的よりも、ただそれが好きだから、楽しいからやっている。



 欧米と比べ、いまだに人権意識すら備わっているとは言えない国で、これほどまでに自由で民主的なコンテンツ文化が形成されてきたは、それが抑圧の裏側にあったものだからだろう。



 「自由」は地位の低さの裏返しだった。

 日本のアニメ業界の労働環境の過酷さは有名だ。アメリカに比べて誰でもクリエイティブ産業に参加しやすい代わりに、その地位も待遇も保証されていない。好きなものに関わってるんだから待遇悪くても我慢しろという考え方は根強い。

 また、少なくない消費者が持っている嫌儲思想も特徴的だ。クリエイティブ産業は、必要以上に金銭を受け取ってはいけない、という考え方も、クリエイターが「負け組」であるとしたい日本のコンテンツ文化に刻まれた考え方だ。


 良い部分もあれば悪い部分もあるという話だ。ハリウッドのように流通システムが支配されているわけでもないし、アートのように階級に規定されているわけでもないが、そのぶん、誰にも守られていない。  

クリエイティブ産業の民主化と日本型コンテンツの終わり

 上で述べてきたそれぞれの特色は、良い部分も悪い部分も、段々無くなりつつある。

 インターネットという流通システムの解放と、制作プラットフォームの充実が、世界的にクリエイティブの民主化の流れをもたらしている。これは避けられない流れであり、特別に悪いことでもない。


 プロフェッショナル主義は流通手段が支配できなくなることで弱まり、アートは権威が幻想になっていくにつれて影響力を失い、そして、日本のアンダーグラウンド文化は、それが認められることによって力を失う


 虐げられてきたこと、白い目で見られてきたこと、それは決して美化していいようなことでもないが、しかし日本のコンテンツの重要な部分を支えていたことも確かなのだ。


 「オタクは死んだ」みたいなことが2000年代の後半に言われだしたが、それぞれ好きなジャンルが全然違ったオタク達がなぜ仲間感覚を持てたかと言うと、それは世間から受け入れられない感覚、差別されているような感覚を共有していたからだと言う。そして、日本のコンテンツの良さが見直されて、つまりオタクであることが自体が見直されて差別されなくなってしまうことで、オタクは死んでしまう。


 そのオタク文化と入れ替わるようにして台頭してきたのが、ニコニコ動画ゲーム実況という、オタクすら認められる2000年代後半においても極めてアンダーグラウンドな文化だった。ゲーム実況はその当時、著作物にタダ乗りしているという点で言い訳のしようもなくアングラだったのである。


ニコニコゲーム実況の終わり

 ゲーム実況ほどアングラを体現したものはなく、その時代に最も日本的だったコンテンツはニコニコ動画のゲーム実況だと僕は思っている。



 ふぅに追随したこの動画で言われているのは、ニコニコが当時と変わってしまった、有名実況者達が別のところへ行ってしまったということだ。かなり正直な言い方で、僕も胸が熱くなってしまった。


 今のゲーム実況者は、公式から認められること、アングラでなくなることによって、「負け組」や「底辺」から、一気に「成功者」になってしまったのだ。




 ゲーム実況は、行き場のないものだった。

 企業の作品にタダ乗りしている時点で後ろめたく、黎明期は、変な形の顕示欲と寂しさと拘りを抱えながら、その新しい遊びに飛び込んでいった馬鹿が多かった。斬新な企画も、手の込んだ編集も、やりこみや縛りプレイも、その不毛な努力に対する仲間からの称賛はあったとしても、ただそれだけだった。


 僕は負けていたし、逃げていた。当時は高校生で、受験が迫っているのに学校をずっとサボり、可愛い彼女を作るという夢も途絶え、特に何もやる気が起きず、親を心配させ、世間は狭く、行き場の無さはインターネットに向かっていった。その行き着く先がニコニコ動画の、その中でもゲーム実況だったのも、その時代を考えれば必然かもしれない。


 薄暗い部屋と、惰性の中で働く惰性のように流れる画質の粗い動画。駄菓子と炭酸水と眠気と、明日の憂鬱を抱えながら夜が更けていくあの感じ。

 それ自体がノスタルジーを含んでいる過去の懐かしい作品を土台にしながら、くだらないコメントのやりとりをサイトに蓄積させ続けた。なんの展望もなく、ただ瞬間瞬間の気晴らし以上のものではない。それでも、そのぬかるみの中でふとした時に感じたのは、誰かが自分と同じようものを共有しているという、ほとんど震撼するような感覚だった。


 一人ひとり思うところは違うし、顔も名前も知らないし、だいたいはいがみ合ったり見下しあったりしているのだけど、そこにある「文化」という共通のものの、ほんの一端に手を触れているような感覚は、多分どこかで持っていた。


 そして、それが今なくなろうとしている。ニコニコ動画のゲーム実況が終わってしまう。いつかは終わると、わかっていたことなのだけれど。




 「負け組」「底辺」からの脱却は、正しいことであって、それはインターネットというテクノロジーがもたらした世界的な標準化の流れでもある。

 クリエイターが負け組でしかなかった文化は、決して誰かに強制していいようなものではないだろう。それは成功しそうな人間の足を引っ張ること、違法な待遇に従業員を留めておくことと同じことだからだ。



 「本当に今の実況動画が嫌だ」と語ったふぅは、マリオメーカーやランキングの問題を指摘したが、本当に言いたいことはそれではないのだろう。でも、そんなこと言えるわけないじゃないか!

 それはつまり、「もともと負け組だったのに成功者になってんじゃねーよ!」ということだからだ。アングラのゲーム実況から初めて、今更公式に認められたからといって、ニコニコ動画を裏切るような真似をするのはなんか違うんじゃないですか、という、そういうことをふぅは、というより皆が言いたいのだろう。



 誤解を招かないよう、ふぅという実況者について言っておけば、彼は十分「勝ち組」になれる人間である。単なる嫉妬でそういうことを言っているわけではない。というより、公式ブーストやファンシェアなしであの数字なので、実質的にニコニコ動画でトップと言っていいほどの人気ゲーム実況者だ。

 その人気でオフパコもできるだろうし、収益化に乗り出せば仕事やりながらの今のペースでも月数十万は楽に稼げるだろう。

 しかし彼は、自分がゲーム実況をやっていることで不当に得をすることがないように、徹底している。運営や公式から連絡が取れないように、メールアドレスすら公開していない。

 つまり、圧倒的に「勝ち組」になれるのに、「負け組」の立場を意識的に貫いている。

 動画内で言ってることは厨二病そのものだが、しかしその自負はまったく正統なもので、他の勝ち組実況者を堂々と批判できるのはふぅだけなのである。


 だからこそ、ふぅの動画の主張は間違っているし、叩かれて炎上して馬鹿にされているけど、それでも十分すぎるほどの意味がある。ふぅ以外には誰もできなかったし、ふぅが言うからこそ意味があった。




 違うものなのだ。「負け組」のニコニコゲーム実況者と、公式に囲い込まれた「勝ち組」実況者は違う。

 必ず誰かの批判を喰らうという、嫉妬と卑屈と無理解が渦巻く、誰もがコメントの地平に縫い付けられていた「底辺」のニコニコと、ガイドラインが定められ、NG共有機能が強化され、公式に囲い込まれた「成功者」のニコニコは、まったく違うものなのだ。


 一見同じものに見えるところが厄介だ。動画共有サイトで、ゲームを実況して、そこにコメントが流れるという表面だけを見れば、サービスとしては全然変わっていないかのように見える。しかし日本のコンテンツ文化の土壌において「負け組」か「勝ち組」かは、ハリウッド映画と素人が作った動画くらいの差がある。



 だから、そこを曖昧にしないために、僕達のニコニコと、変わってしまうニコニコの間に一線を引くために、あのときのニコニコ動画がなかったことにならないために、今回の、「ふぅ」という最後の実況者の試みは、限りなく意味がある。

 間違っているとわかっていて、負けるために戦うというのも、日本では受け入れられる考え方なのかもしれない。それでも西郷さんは協力してくれないだろうな。あの幕末志士ですら収益化に乗り出した。誰が悪いわけでもなく、それが時代の流れだということだ。



 文化的な特徴がすべて消えるわけでもないし、僕達が共有していたニコニコ動画的なものは、何らかの形で続いていくだろう。あのときのニコニコ動画が無くなってしまうのも、いつか必ず来ることで、その先にあるものが悪いとは限らない。


 それでも、あのふぅの動画を見て、僕は何かしたいと思った。

 実際に何をすればいいかはわからないし、多分解決策なんて見つけられないのではないかと思うけど、それでも、今回の騒動には大きな意味があった。




 ちなみに、ふぅ動画に便乗してブレイクしつつあるKUNという人の動画が面白い。



 ふぅやはすにとっては死体撃ちのような動画だけど、それでも面白いし、こういうのが出てきたほうが、まだ希望はあるんじゃないかとすら思う。




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