同意する人が3人くらいしかいそうにない話題なんだけども、最近私が強く考えていることなので思考を整理すべく記事にしたい。
私みたいな、無職で今後も働く予定がない人間にとって、日々の生活の良し悪しというのは常に気にかかるもんだ。キャリアパスやら人生設計はもうそれほど考えなくてよいのだから、人生のベンチマークが生活の質におのずとなってくる。
国境越えのバスなんかの車窓の景色やオープンエアのバーで道ばたをぼーっとながめながら「日々の生活にとって快適な不便さとはどれくらいだろう」とカンボジアに入ったあたりからずっと考えてる。
— きりんの自由研究 (@giraffree) 2015, 10月 1
ここ3週間ほどタイとカンボジア(シェムリアップ)を見て回ってきた。どちらも初めての国だった。私は旅行好きというわりに中年になった今も大した数の国を見て回ってない。というのも自分のビジネスを国内でしていた頃はとても忙しく(と思い込んでおり)、会社を起こしてからは旅行なんて隣県がせいぜいだった。
退任後を前後して2〜3年で10カ国くらいは見て回ったと思う。
旅行している間、どの場所でも常に考えていることは「はたしてこの国に住めるだろうか」ということ。
今日本を離れて諸外国に積極的に移住する気でいるわけではないんだけども、その事は人生のオプションの1つとして考えるようにしている。そんな理由からか地元のスーパーや食堂を見て回るのが好きだ。そういった意味でも1つの旅行はおおよそ1ヶ月弱に設定することが多い。
それで今回のカンボジアである。
はじめて「ここには住みたくない」と思った。カンボジアという国で初めて思った。誤解を恐れずいえば。
シェムリアップのしかも一部だけ見てそんな言い方するのはなんだか失礼な気もするが、これは素直に言葉にしておきたい。
シェムリアップの裕福でないローカルは、木で家の囲いを作り、頻繁に浸水するために高床式の家に住む。
朝夕は藁葺きの家の前にある土釜と鉄鍋で料理をする。この場所はガス・水道・電気、どれも来ていないように見えた。
カンボジア人の前評判、人間性、タカリ根性みたいなのは私にとって全然苦ではなく、いい場所だなと思った。
しかし、生活面を見るととにかくインフラが整備されていない。その結果、住民は生活しているだけで無視できない確率で死に直面しそうな印象を受けた。
それで私は「ここは違うなあ」と各国を旅行したなかで初めて感じた。旅行者としてはお金をいっぱい落としていこうという気持ちで滞在中は色々ふんぱつしてみたりはした。旅行者でそれなりにお金を落としさせすれば、シェムリアップはそこそこ快適だった。あと私は物売り物乞い旅行者価格みたいなのは嫌悪感ゼロのタイプだ。
ちょっとここで注釈をしておく。住めるかどうか、というのは外国人クオリティではなくローカルと同じ環境にぶちこまれて平気か、しかも死ぬまでという話だ。そういう視点で水平思考すれば、私はアフリカの多くの地域では暮らしていけない気がする。
世界銀行の副総裁をつとめた日本人、西水美恵子さんの著書『国をつくるという仕事』で、世銀が実際にサポートする貧困国のローカルと共に西水さんがホームステイして、その苦難を肌身で感じて使命に目覚めるって話がある。でも、結局のところ西水さんは一時滞在であり、生活したわけじゃない。そういう意味での「この国で生活できるか」である。(ここで西水さんの著書をついでにおすすめしておきたい。アツい人である)
- 作者: 西水美恵子
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カンボジアの首都プノンペンは結構な都会らしい。シェムリアップの一部を見てこんな記事を書くのは私もどうかと思う。ただ、事の本質は「最低限必要としている生活基盤」が自分にあることがわかって、それを整理しておきたかった。きっと他の人もそうであり、日本人なら私よりもう少し高い位置に生活水準を設定するのが普通だと思う。
それで話の本題に戻るわけだけども「快適すぎる」のもよろしくないと私は思っている。快適が行き過ぎると生活の質が低くなる。旅行で例えれば5つ星ホテル暮らしみたいな行き届いた選択は、生活の質をおとしめるゴミみたいな選択だろう。滞在であれば快適だけども、生活であれば不快な快適さであろう事に疑いの余地はない。
煩わしい事が全く無い環境というのは、ようするに真っ白な部屋に放り込まれた囚人みたいなもんだ。そこにタウンページを放り込むとエロ本を与えられた中二みたいに読み続けるというエピソードは結構有名な話だろう。
とにかく人間には日々小さなミッションとそれをクリアする手続きが絶対的に必要になっている。私はこれを考える生き物にかけられた呪いだと思っている。脳科学的にいえば日々の暮らしを営む事で報酬系が都度活性化され、快感を得ているはずだ。
というわけでミニマリストを気取らなくても、人間は多少不便で工夫のしがいがある環境のほうが快適に感じるわけだ。これがタイトルにある「生活における快適な不快さ」という話だ。
仕事で忙しい人にとっては、生活以外で不快さを手に入れる事が出来るのでこの話題はまったくどうでもいいことだと思う。しかし無職な上に他のプレッシャーがない私のような人間には大変重要な問題になる。
じゃあ具体的にどれくらいが最低限・不快・快適のボーダーラインになるだろうか、と考えた時に
- 年間数パーセントを超えるような死亡率ではない居住環境
- 風と雨をほとんどしのげる囲い
- 金銭で飢えと衣服を解決できる
- 徒歩以外の移動手段
- 電気・水道
あたりが一般的な先進国に生まれた人の許容ラインになるのかなあと思っている。続いて個人的に必須なのが
- 冷蔵庫
- 安定したインターネット環境
- 金融への良好なアクセス
あたりだろう。ここまでくれば生活を維持できる。
- ガス
- Amazon
- エアコン
- 諸外国への良好なアクセス
- 高度な医療への良好なアクセス
ここまでくると一気に軟弱なムードになってくる。ただ、積極的に移住する事を考えるとここくらいは、欲しい。大切な人には容易に会えるようにもしておきたい。しかし、これ以上はいらない気がする。
となると、先進国はドヤ街でもセーフ。新興国はど田舎でなければ○、後進国は大体アウトってことになるんだろうか。
できれば越えたいボーダーラインを超えつつ、ちょっと治安が悪かったり、ホームセンターに足繁く通う必要があるくらいが、ここちよい不快さという事になるんだろうか。「北の国から」に出てくるボロ屋暮らしは個人的に凄くそそられるものがある。しかし、解決できない不快さが多いと逆効果だろう。
何を目指しているのか、と聞かれたらちょっと困る。これは適切な例えとは思えないけど、フランスの画家ゴーギャンのような、自分が得意でやりたい事をしながら、刺激を得ることができる日常を求めて世界をさまようような事は、自分にとってあこがれの対象だ。
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さて、次の目的地を考えてみよう。