2015年02月26日
始祖、遠祖を訪ねて 福州、泉州その5
1月27日(火) 博物館で前館長の王連茂先生が待っていてくれた。
始めてお会いする方ですが旧知の様に接してくれた。先生の案内でおよそ900年
前の遠祖、梁克家の墓に向かう。この墓はダムの湖底に沈んでいたが近年
湖水の水位が下がったために発見されたのである。2011年に公園墓地とし
て整備されていた。私達一行が墓参することを知った梁辺村の方々も一緒に
墓参したいとの話になり、急きょ現場で合流し一緒にお参り致しました。



家譜に度々登場する梁氏の誇れる遠祖は状元という国家試験最高位の資格
をもった偉人でした。王連茂先生の計らいで墓参できたことは今回の調査の
泉州でのメインイベントでした。
午後から博物館の会議室に移り今回の調査の本題である”梁能”なる人物の
消息について質問を出してみたが、残念ながらここでも結論付けることは出来ま
せんでした。同席した先生の息子さんにこの難題を今後の課題として指導して
下さるようお願い申し上げた。彼は沖縄国際大学に5年ほど留学した経緯があり
流暢な日本語にたすけられました。


沖縄から持参した家譜とCDを王連茂先生に贈る。

夜、先生を囲んで会食となる。四方山話に花が咲く。
かくして長い4泊5日に及ぶ調査は無事終了し、翌日全員怪我もなく那覇空港に
戻ってきました。

終わり。

始めてお会いする方ですが旧知の様に接してくれた。先生の案内でおよそ900年
前の遠祖、梁克家の墓に向かう。この墓はダムの湖底に沈んでいたが近年
湖水の水位が下がったために発見されたのである。2011年に公園墓地とし
て整備されていた。私達一行が墓参することを知った梁辺村の方々も一緒に
墓参したいとの話になり、急きょ現場で合流し一緒にお参り致しました。
家譜に度々登場する梁氏の誇れる遠祖は状元という国家試験最高位の資格
をもった偉人でした。王連茂先生の計らいで墓参できたことは今回の調査の
泉州でのメインイベントでした。
午後から博物館の会議室に移り今回の調査の本題である”梁能”なる人物の
消息について質問を出してみたが、残念ながらここでも結論付けることは出来ま
せんでした。同席した先生の息子さんにこの難題を今後の課題として指導して
下さるようお願い申し上げた。彼は沖縄国際大学に5年ほど留学した経緯があり
流暢な日本語にたすけられました。
沖縄から持参した家譜とCDを王連茂先生に贈る。
夜、先生を囲んで会食となる。四方山話に花が咲く。
かくして長い4泊5日に及ぶ調査は無事終了し、翌日全員怪我もなく那覇空港に
戻ってきました。
終わり。
2015年02月25日
始祖、遠祖を訪ねて 福州、泉州その4
隣接する事務所に移る。福建省姓氏源流研究会の銘版がはめ込まれている。

ここでは既に関係者が資料を広げて準備してくれている。

彼等は日本の習慣の様に名刺を所持しないから名前を聞いてもすぐ忘れてしまう。
わざわざ遠方の連江県から説明に来られた。たしか梁鴻志さんといったと思う(間違ったら御免なさい)。
彼らが持参した家譜は1400年代に作成された古い家譜でボロボロに破れた箇所もあるが
門外不出の家譜をテーブルの上に拡げた。

昨年私達は梁辺村に於いて琉球側の亀島本家の家譜と福州側の梁辺村の家譜との照合に
成功し、始祖”梁嵩”から遡ること12代先の”梁克家”まで一直線上に辿ることが出来た。
しかし、その家譜は1999年に編纂されその根拠となる資料については村長に聞いても
はっきりとした返事は返ってこなかった。琉球側の家譜に無理に合わせたのではないかと
一抹の不安をかかえていたのである。
目の前に出された家譜は琉球側の家譜が出来る250年も前に書かれたものだった。
ここに明確に”梁嵩”そして彼の父である”梁萱”も明記され、梁嵩が天順4年に中山王府長史
となったことも明確に記されていた。
ああ、なんと幸運なことか、長い間探し求めていた資料が目の前に展開しているのである。
9世邦翰の二人の息子たち”梁鏞”と梁漢”が福州で見せられたという家譜はこの目の前の家譜
に違いないのである。彼らはその時始めて始祖が”梁嵩”であることを知ったのである。
連江の皆さんは更に琉球の家譜の序文が1400年代に作成されたこの家譜の序文から一部
引用されている事を教えてくれた。

多分9世邦翰はこの序文を参考にして系図の作成に当たったと推定することができる。
琉球の家譜に梁嵩は既に江田あること30世と記されている箇所も彼らの古い家譜から
30代目に当たることを示してくれた。


なんと有難いことか。彼等は琉球側の家譜をネットで調べたのかプリントして持参していた。
沖縄から持参した家譜とCDを彼らに贈る。
連江県は遠方ゆえ帰る時間だといい先に帰られた。もっと時間が欲しかったが、ここまで
協力してくださった皆様に感謝に絶えない。
次回へつづく。

ここでは既に関係者が資料を広げて準備してくれている。
彼等は日本の習慣の様に名刺を所持しないから名前を聞いてもすぐ忘れてしまう。
わざわざ遠方の連江県から説明に来られた。たしか梁鴻志さんといったと思う(間違ったら御免なさい)。
彼らが持参した家譜は1400年代に作成された古い家譜でボロボロに破れた箇所もあるが
門外不出の家譜をテーブルの上に拡げた。
昨年私達は梁辺村に於いて琉球側の亀島本家の家譜と福州側の梁辺村の家譜との照合に
成功し、始祖”梁嵩”から遡ること12代先の”梁克家”まで一直線上に辿ることが出来た。
しかし、その家譜は1999年に編纂されその根拠となる資料については村長に聞いても
はっきりとした返事は返ってこなかった。琉球側の家譜に無理に合わせたのではないかと
一抹の不安をかかえていたのである。
目の前に出された家譜は琉球側の家譜が出来る250年も前に書かれたものだった。
ここに明確に”梁嵩”そして彼の父である”梁萱”も明記され、梁嵩が天順4年に中山王府長史
となったことも明確に記されていた。
ああ、なんと幸運なことか、長い間探し求めていた資料が目の前に展開しているのである。
9世邦翰の二人の息子たち”梁鏞”と梁漢”が福州で見せられたという家譜はこの目の前の家譜
に違いないのである。彼らはその時始めて始祖が”梁嵩”であることを知ったのである。
連江の皆さんは更に琉球の家譜の序文が1400年代に作成されたこの家譜の序文から一部
引用されている事を教えてくれた。
多分9世邦翰はこの序文を参考にして系図の作成に当たったと推定することができる。
琉球の家譜に梁嵩は既に江田あること30世と記されている箇所も彼らの古い家譜から
30代目に当たることを示してくれた。
なんと有難いことか。彼等は琉球側の家譜をネットで調べたのかプリントして持参していた。
沖縄から持参した家譜とCDを彼らに贈る。
連江県は遠方ゆえ帰る時間だといい先に帰られた。もっと時間が欲しかったが、ここまで
協力してくださった皆様に感謝に絶えない。
次回へつづく。
2015年02月24日
始祖、遠祖を訪ねて 福州、泉州その3
1月26日(月)早朝 福州市倉山区城門鎮梁厝村にあるという梁族宗廟というか(日本流に言えば総本山)
”永盛梁氏宗祠”に向かう。
バスを降りると例の鼓笛隊が待っていた。彼女たちを先導に路地を練り歩きやがてそれらしき建物に着く。

この廟は市の文化財に指定されていた。歓迎の文字を見る。

東南アジアでも無いのに何故象がモチーフになっているのかよく判らない。象は縁起物でもあるらしい。
廟の前にて取りあえず記念撮影。大勢の取材陣のカメラを浴びる。

取りあえず中に入るとする。
空気が一変した。数々の肖像画と扁額、一体なんなのだこれは!荘厳な祭壇の奥にあるのはすべてが
位牌(トートーメー)なのである。千年を超える歴史の大河に実在した先人達の位牌が祭られていた。


ああ、とうとう来てしまった。最早ここでは中途半端な礼拝など許されない。
私は思わず膝をつき、三跪九叩の礼を試みる。

ここでもまた、円卓を囲んでの会食となる。

会長の梁訓湘氏に”寸志”10万円を渡す。(本日2月24日 旧正月の年賀状に添えて領収書が
届いています)。
お礼に梁族家譜3分冊と福建省姓氏源流研究会の写真集を頂く。



宗廟の中で再度記念撮影。

会食後隣接の源流研究会の事務所に移動する。
次回につづく。

”永盛梁氏宗祠”に向かう。
バスを降りると例の鼓笛隊が待っていた。彼女たちを先導に路地を練り歩きやがてそれらしき建物に着く。
この廟は市の文化財に指定されていた。歓迎の文字を見る。
東南アジアでも無いのに何故象がモチーフになっているのかよく判らない。象は縁起物でもあるらしい。
廟の前にて取りあえず記念撮影。大勢の取材陣のカメラを浴びる。
取りあえず中に入るとする。
空気が一変した。数々の肖像画と扁額、一体なんなのだこれは!荘厳な祭壇の奥にあるのはすべてが
位牌(トートーメー)なのである。千年を超える歴史の大河に実在した先人達の位牌が祭られていた。
ああ、とうとう来てしまった。最早ここでは中途半端な礼拝など許されない。
私は思わず膝をつき、三跪九叩の礼を試みる。
ここでもまた、円卓を囲んでの会食となる。
会長の梁訓湘氏に”寸志”10万円を渡す。(本日2月24日 旧正月の年賀状に添えて領収書が
届いています)。
お礼に梁族家譜3分冊と福建省姓氏源流研究会の写真集を頂く。
宗廟の中で再度記念撮影。
会食後隣接の源流研究会の事務所に移動する。
次回につづく。
2015年02月23日
始祖、遠祖を訪ねて 福州、泉州その2
やがてテープカットが始まる。トランペットの旋律の中高額寄付者が次々と壇上に呼ばれて
ハサミを入れる。

そのたびに耳元でトランペットは鳴り響き司会者は大声でその勲功をたたえているらしいが
この所作を”喝采”とよぶと通訳からしらされた。”喝采”とはほめたたえることと辞典にはあるが、
なるほど拍手喝采の語源は福州にありました。
そのあと祖廟に移り大宴会となる。

宴も収まったころ村長は近くの祖庁に案内してくれた。
テーブルニマージャヤンの雀卓が敷かれていたがひっくり返すとなんと”象棋”版になっていた。
おきなわではチュンジーというが福建の方言がそのまま沖縄にのこっているらしい。
誰かうてるひとはいないかと聞いたら早速どここからか駒をもってきた。
やにわに福建対沖縄の対局となる。

前半多く駒をしとめたものの途中から逆転されてあっさりと負けを宣言した。
”象棋”は600年前まちがいなくこのむらから琉球に伝来した、しかも呼び方もそのまま残っているの
である。
ことばも全く通じない初めての打ち手と対局できたことをほこりに思う次第です。かえりに記念として
使用した駒を私にプレゼントしてくれた。
その後村長の案内で近くの漁港にたちよる。

夜レストランに村の方々を招待してささやかな宴となる。

やっと長い一日が終わりました。
明日は福州市内の梁族総本山を訪ねます。
次回へつづく。

ハサミを入れる。
そのたびに耳元でトランペットは鳴り響き司会者は大声でその勲功をたたえているらしいが
この所作を”喝采”とよぶと通訳からしらされた。”喝采”とはほめたたえることと辞典にはあるが、
なるほど拍手喝采の語源は福州にありました。
そのあと祖廟に移り大宴会となる。
宴も収まったころ村長は近くの祖庁に案内してくれた。
テーブルニマージャヤンの雀卓が敷かれていたがひっくり返すとなんと”象棋”版になっていた。
おきなわではチュンジーというが福建の方言がそのまま沖縄にのこっているらしい。
誰かうてるひとはいないかと聞いたら早速どここからか駒をもってきた。
やにわに福建対沖縄の対局となる。
前半多く駒をしとめたものの途中から逆転されてあっさりと負けを宣言した。
”象棋”は600年前まちがいなくこのむらから琉球に伝来した、しかも呼び方もそのまま残っているの
である。
ことばも全く通じない初めての打ち手と対局できたことをほこりに思う次第です。かえりに記念として
使用した駒を私にプレゼントしてくれた。
その後村長の案内で近くの漁港にたちよる。
夜レストランに村の方々を招待してささやかな宴となる。
やっと長い一日が終わりました。
明日は福州市内の梁族総本山を訪ねます。
次回へつづく。
2015年02月23日
始祖、遠祖を訪ねて 福州、泉州その1
朝9時に那覇空港を出発したが、長楽のホテルについたのは夜の九時を回っていた。
今回は福州、長楽市梁辺村に(始祖の出身地)観音堂が落成したのでその落慶法要に
招待されたのが旅の始まりである。
むらの入り口で鼓笛隊に誘導される。

寺は見事に完成していた、木造三層だが中は2層の天井の高い構造物である。
あとで、村長にきいた話だが,誰が設計したかと聞いたら村長(梁心玉)自ら設計し
たとのこと。村長は建築士でもあったのである。

日本人には理解しがたいが1階は道教の寺院で2階に仏教の仏殿が配置されている。


御本尊は薬師如来とみえたが仮安置で3メートルの千手観音立像を発注しているとのこと。
日本でも神社と寺が同じ境内に存するが(別当)おなじ建物に同居というのはめずらしい、
まあ、これが中国なのかもしれない。 間もなく祭壇に呼ばれるセレモニーが始まった。
祝辞をのべ村長にお祝儀を渡す。


同席した僧侶には格別に沖縄で出発まぎはに仕上がった般若心経の写経を奉納した。
慣れない毛筆での写経は失敗をかさね4度目にやっとそれらしくなった。
おもえば琉球に仏教が伝わったのは察渡王の世代で国王は円覚寺を建立した。
閩人36姓もまたこの察渡王の時代であったことを考えるに、この機会に経典の代表各で
もある魔訶般若心経を写経して奉納することを思い立った次第である。
次回へつづく

今回は福州、長楽市梁辺村に(始祖の出身地)観音堂が落成したのでその落慶法要に
招待されたのが旅の始まりである。
むらの入り口で鼓笛隊に誘導される。
寺は見事に完成していた、木造三層だが中は2層の天井の高い構造物である。
あとで、村長にきいた話だが,誰が設計したかと聞いたら村長(梁心玉)自ら設計し
たとのこと。村長は建築士でもあったのである。
日本人には理解しがたいが1階は道教の寺院で2階に仏教の仏殿が配置されている。
御本尊は薬師如来とみえたが仮安置で3メートルの千手観音立像を発注しているとのこと。
日本でも神社と寺が同じ境内に存するが(別当)おなじ建物に同居というのはめずらしい、
まあ、これが中国なのかもしれない。 間もなく祭壇に呼ばれるセレモニーが始まった。
祝辞をのべ村長にお祝儀を渡す。
同席した僧侶には格別に沖縄で出発まぎはに仕上がった般若心経の写経を奉納した。
慣れない毛筆での写経は失敗をかさね4度目にやっとそれらしくなった。
おもえば琉球に仏教が伝わったのは察渡王の世代で国王は円覚寺を建立した。
閩人36姓もまたこの察渡王の時代であったことを考えるに、この機会に経典の代表各で
もある魔訶般若心経を写経して奉納することを思い立った次第である。
次回へつづく
2015年01月25日
福州長楽県へ
「観音殿落成式参加と家譜調査の旅」が出発
去年4月、福州長楽県梁辺村の祖廟を訪ねた時、そばで建設中だった村の観音殿が落成したそうです。
去年暮に案内が有りました。
それに応えて式典参加のため、崎山会長代行を団長にした13人が、12月24日(土)から28日(水)の日程で那覇空港国際ターミナルから出発しました。
25日に観音殿の落成式典に参加し、翌日の26日は福州市の梁氏宗族を訪問、交流を深め、梁氏族譜の資料収集を行います。
また27日の泉州では、梁氏など閩人36姓の来琉の歴史に詳しいい王連茂先生と面会し、これまでの家譜調査の延長として、梁嵩の曽祖父時代の一族の情報を伺う予定です。
成果が期待されます。


去年4月、福州長楽県梁辺村の祖廟を訪ねた時、そばで建設中だった村の観音殿が落成したそうです。
去年暮に案内が有りました。
それに応えて式典参加のため、崎山会長代行を団長にした13人が、12月24日(土)から28日(水)の日程で那覇空港国際ターミナルから出発しました。
25日に観音殿の落成式典に参加し、翌日の26日は福州市の梁氏宗族を訪問、交流を深め、梁氏族譜の資料収集を行います。
また27日の泉州では、梁氏など閩人36姓の来琉の歴史に詳しいい王連茂先生と面会し、これまでの家譜調査の延長として、梁嵩の曽祖父時代の一族の情報を伺う予定です。
成果が期待されます。
2014年04月18日
家譜調査 その5 歴代宝案にあるが家譜に無い梁姓の先人達
歴代宝案にあって家譜にない梁姓の先人達について
今回の2番目に挙げたテーマです。45人のリストを予め福建師範大学の徐先生に送ってありました。
当日の会場で45名のリスト及びその職歴を琉球歴史年表に落とし込んだ資料を持参して配布しました。
謝教授は事前に徐先生を梁邊村に派遣して調査にあたったようです。
しかし、謝教授からは自分たちの努力の甲斐なく残念ながら見つける事が出来なかったと謙遜しながら
報告をいただきました。
それには大きな理由があって、この問題は非常に困難な作業でもあると説明されました。
その理由として当時の明國は鎖国制度をとっていて、国外での商取り引きを堅く禁じ、法を犯した者は
罪人となったため一族は家譜への記載を極力禁止した。
もし、当時の家譜の中に琉球で交易に従事した旨の記載があれば、資料としては疑わしく,信用出来な
いと話しました。それほどきびしく、かつ親族にまで罪がおよんだからと説明がありました。
上記理由から”梁能””梁徳””梁應”の琉球で大交易時代をになった先人達と梁嵩との関連は結論を
見ることはかないませんでした。
しかし、おおくの諸先生方に梁氏がその先人達を探していることはしっかり伝わったと思います。
徐先生は今後”明実録”など中国側の文献で先人達を見つけたら報告しますと言ってくれました。



今回の2番目に挙げたテーマです。45人のリストを予め福建師範大学の徐先生に送ってありました。
当日の会場で45名のリスト及びその職歴を琉球歴史年表に落とし込んだ資料を持参して配布しました。
謝教授は事前に徐先生を梁邊村に派遣して調査にあたったようです。
しかし、謝教授からは自分たちの努力の甲斐なく残念ながら見つける事が出来なかったと謙遜しながら
報告をいただきました。
それには大きな理由があって、この問題は非常に困難な作業でもあると説明されました。
その理由として当時の明國は鎖国制度をとっていて、国外での商取り引きを堅く禁じ、法を犯した者は
罪人となったため一族は家譜への記載を極力禁止した。
もし、当時の家譜の中に琉球で交易に従事した旨の記載があれば、資料としては疑わしく,信用出来な
いと話しました。それほどきびしく、かつ親族にまで罪がおよんだからと説明がありました。
上記理由から”梁能””梁徳””梁應”の琉球で大交易時代をになった先人達と梁嵩との関連は結論を
見ることはかないませんでした。
しかし、おおくの諸先生方に梁氏がその先人達を探していることはしっかり伝わったと思います。
徐先生は今後”明実録”など中国側の文献で先人達を見つけたら報告しますと言ってくれました。
2014年04月18日
家譜調査 その4 梁氏始祖のご先祖
再び梁邊村に引き返し、福建師範大学の諸先生方を交えての家譜調査交流会を開催
福建師範大学の参加者
謝教授、頼教授(女性)、徐先生、??先生(女性)、我部研究員(琉大の留学生)、
玉城さん(女性:沖縄県産業振興公社福建駐在員)

梁氏の始祖梁嵩は天順4年(1460年)に長史と記され永楽年間に来琉とあります。
長史という役職は団長的職名をいい年齢的にも40代前後と推測することができます。
閩人36姓の来琉は洪武25年(1392年)ですから単純に計算しても68年の開きがあり、後で取り上げる
”家譜にない梁姓の先人達”を調べる上でも梁嵩から遡り3代~4代先の先人を明確にする必要がありました。
呉江会の事務所には3種類の福建の梁族の家譜がありそれぞれが異なった記述となっていて、どれが
正しい家譜かを調べるのも今回の目的でした。
梁邊村の村長梁心玉氏から平成20年に頂いた”梁氏族譜”にのみ梁嵩およびその嫡子梁仁まで記載
されています。
われわれ梁氏はこの”梁氏族譜”を正式な家譜と認めたいところですが、村長からもこの家譜こそが信頼
出来るものであると双方で確認して参りました。
この家譜は廟の中の二種類の位牌に明確にに記されていました。

右側の盾には
第1世祖 孟行公 家譜と一致
第2世祖 仲 公 家譜と一致
第3世祖 維 公 家譜と一致
第4世祖 期美公 家譜と一致
第5世祖 景一公 家譜と一致
中央の縦長の位牌は遠祖梁克家公と推測しますが写真では読めませんでした。
左側の左から2番目の位牌には
第1世祖 伯治 6世祖になりますがこの方が梁邊村の始祖か?
梁嵩の3代先の伯昇と兄弟
江田の墓の建設が1396年となっていることから
この伯治から入っているものと推測する。
左端の位牌には
第2世祖 驥 家譜によると洪武9年(1376年)卒とあることから
墓が出来る以前に無くなっているがやはりこの方も
江田の墓に眠るものと推測。


これらの位牌から推察すると我々の福建における門中は第1世祖伯治との繋がりであり、梁嵩の曽祖父
伯昇の兄弟であることが明確となりました。

福建師範大学の参加者
謝教授、頼教授(女性)、徐先生、??先生(女性)、我部研究員(琉大の留学生)、
玉城さん(女性:沖縄県産業振興公社福建駐在員)
梁氏の始祖梁嵩は天順4年(1460年)に長史と記され永楽年間に来琉とあります。
長史という役職は団長的職名をいい年齢的にも40代前後と推測することができます。
閩人36姓の来琉は洪武25年(1392年)ですから単純に計算しても68年の開きがあり、後で取り上げる
”家譜にない梁姓の先人達”を調べる上でも梁嵩から遡り3代~4代先の先人を明確にする必要がありました。
呉江会の事務所には3種類の福建の梁族の家譜がありそれぞれが異なった記述となっていて、どれが
正しい家譜かを調べるのも今回の目的でした。
梁邊村の村長梁心玉氏から平成20年に頂いた”梁氏族譜”にのみ梁嵩およびその嫡子梁仁まで記載
されています。
われわれ梁氏はこの”梁氏族譜”を正式な家譜と認めたいところですが、村長からもこの家譜こそが信頼
出来るものであると双方で確認して参りました。
この家譜は廟の中の二種類の位牌に明確にに記されていました。
右側の盾には
第1世祖 孟行公 家譜と一致
第2世祖 仲 公 家譜と一致
第3世祖 維 公 家譜と一致
第4世祖 期美公 家譜と一致
第5世祖 景一公 家譜と一致
中央の縦長の位牌は遠祖梁克家公と推測しますが写真では読めませんでした。
左側の左から2番目の位牌には
第1世祖 伯治 6世祖になりますがこの方が梁邊村の始祖か?
梁嵩の3代先の伯昇と兄弟
江田の墓の建設が1396年となっていることから
この伯治から入っているものと推測する。
左端の位牌には
第2世祖 驥 家譜によると洪武9年(1376年)卒とあることから
墓が出来る以前に無くなっているがやはりこの方も
江田の墓に眠るものと推測。
これらの位牌から推察すると我々の福建における門中は第1世祖伯治との繋がりであり、梁嵩の曽祖父
伯昇の兄弟であることが明確となりました。
2014年04月18日
家譜調査 その1 福州の祖廟を訪ねて
長楽市金峰梁邊村にて村長の梁心玉氏の歓迎を受ける。
村内の祖廟にてお供え物の泡盛、菓子、黒糖など供え、村長に寸志15万円を渡す。
一同礼拝し、となりの建築中の寺を観る。完成は3年後とのこと。





建築中の寺の内部と石柱

梁邊村の祖廟の前で記念撮影

村内の祖廟にてお供え物の泡盛、菓子、黒糖など供え、村長に寸志15万円を渡す。
一同礼拝し、となりの建築中の寺を観る。完成は3年後とのこと。
建築中の寺の内部と石柱
梁邊村の祖廟の前で記念撮影
2014年04月18日
家譜調査 その2 福州での清明祭
梁邊村からバスで約1時間ていど移動した場所,江田に祖先の墓が有りました。
この江田こそが祖先の生活の場所であり,後世梁邊村に移住したようです。

最初はここに墓が有ったそうですが、あとで丘の上の方へ移設したそうです。ここでウチカビを燃やしていました。

この墓前で清明祭を挙行されたのだが、お供え物はなく皆でウチカビを燃やし、線香を立てたところで
パチパチとホウチャク(花火)をならし、あっけなく終わってしまった。
後で記述しますが第1世が1396年にこの墓にねむっていることとなり、閩人36姓の派遣が1392年で
あるところからほぼ同時代の先人ということになる。


隣村(福清村)の村長、梁流明氏を紹介された。
この江田こそが祖先の生活の場所であり,後世梁邊村に移住したようです。
最初はここに墓が有ったそうですが、あとで丘の上の方へ移設したそうです。ここでウチカビを燃やしていました。
この墓前で清明祭を挙行されたのだが、お供え物はなく皆でウチカビを燃やし、線香を立てたところで
パチパチとホウチャク(花火)をならし、あっけなく終わってしまった。
後で記述しますが第1世が1396年にこの墓にねむっていることとなり、閩人36姓の派遣が1392年で
あるところからほぼ同時代の先人ということになる。
隣村(福清村)の村長、梁流明氏を紹介された。
2012年11月10日
来訪者
梁氏呉江会の事務所へは門中の人はもちろん、琉球歴史や民俗学の研究者、道を尋ねる人など様々な用件を持った人々が訪れます。
先日は香港のマスコミが突然たずねてきました。

英名を Apple Daily といい、香港でも大きいほうの新聞とネットで検索されました。相手がマスコミですから昨今の政治情勢に巻き込まれないよう緊張しての対応でした。
取材の趣旨は中国人の末裔がどんな暮らしをしているのか知りたいとのことで、中国語が喋れるのか、特定の職業技能を持つ家系か、チュンジーができるかなど聞いてきました。
これに対し、我々は福建から来た中国人の末裔ではあるが、日本人であること。先祖が琉球へもたらした中国の文化や歴史に敬意を抱いており、これを子孫へ継承していくのは務めだとの趣旨で話をしました。

時勢に絡む微妙な質問もありましたが明白な答えに突っ込みはありませんでした。末裔の生活の様子が狙いなのか清明祭や御三味、カジマヤー、額に納めた程順則の六諭衍義や梁氏家譜などに興味を示し、最後は大宗亀島家の墓の写真を撮りたいと帰りました。
はじめに懸念したような記事にはならない様子ですが、記事を掲載した新聞が届いたら紹介したいとおもいます。
今回の対応で、はたと思ったのは「何故、何のために中国由来の文化に拘り、それを守っているのか」との質問でした。久米三十六姓なら当然と思っていることを、他の人が理解できるように如何に説明するか常日頃から頭を整理しておく必要性を感じました。

先日は香港のマスコミが突然たずねてきました。
英名を Apple Daily といい、香港でも大きいほうの新聞とネットで検索されました。相手がマスコミですから昨今の政治情勢に巻き込まれないよう緊張しての対応でした。
取材の趣旨は中国人の末裔がどんな暮らしをしているのか知りたいとのことで、中国語が喋れるのか、特定の職業技能を持つ家系か、チュンジーができるかなど聞いてきました。
これに対し、我々は福建から来た中国人の末裔ではあるが、日本人であること。先祖が琉球へもたらした中国の文化や歴史に敬意を抱いており、これを子孫へ継承していくのは務めだとの趣旨で話をしました。
時勢に絡む微妙な質問もありましたが明白な答えに突っ込みはありませんでした。末裔の生活の様子が狙いなのか清明祭や御三味、カジマヤー、額に納めた程順則の六諭衍義や梁氏家譜などに興味を示し、最後は大宗亀島家の墓の写真を撮りたいと帰りました。
はじめに懸念したような記事にはならない様子ですが、記事を掲載した新聞が届いたら紹介したいとおもいます。
今回の対応で、はたと思ったのは「何故、何のために中国由来の文化に拘り、それを守っているのか」との質問でした。久米三十六姓なら当然と思っていることを、他の人が理解できるように如何に説明するか常日頃から頭を整理しておく必要性を感じました。
2012年01月18日
先祖の足跡をたどる
これまで、先祖の足跡やルーツを尋ね福州や北京へ行ったことがある。
しかし久米の先祖たちは中国ばかりではなく、進貢の品物を求めて、東南アジアの
各地へも交易のためしばしば出かけている。梁氏宗家の亀島家の家譜には三世「傑」が閩、マラッカ、シャム、パタニ国へ通事などとして7回も海を渡ったことが記されている。
このたび「傑」が交易のため渡ったマラッカを、梁氏・毛氏・阮氏の仲間と共に訪れる機会を得たので後日、その模様を報告するがその前に、前知識として亀島家の家譜
から傑の渡航の一部を紹介する。
三世 都通事諱傑
弘治17年甲子(1504)7月12日進貢の為め、火長を命ぜられ正議大夫程連、鄭玖、
長史蔡寶、梁能と共に閩に入る。
正徳6年辛未(1511)8月13日次年の進貢貨物の預備の為め、通事を命ぜられ
正史馬彼比等と共に満刺加国に往き、蘇木、胡椒などを収買して帰国す。
1511年はポルトガルがマラッカを占領した年で、1463年以降20回、琉球船が訪れたがその最後の船となった。街の中心部を流れるマラッカ川が海に注ぐ辺りに橋がかかり、その上に作られた小屋で商取引が行われた様で、傑の乗った船も橋の近くに舫ったと思われ、そこがどんな風情か良く見てきたい。

しかし久米の先祖たちは中国ばかりではなく、進貢の品物を求めて、東南アジアの
各地へも交易のためしばしば出かけている。梁氏宗家の亀島家の家譜には三世「傑」が閩、マラッカ、シャム、パタニ国へ通事などとして7回も海を渡ったことが記されている。
このたび「傑」が交易のため渡ったマラッカを、梁氏・毛氏・阮氏の仲間と共に訪れる機会を得たので後日、その模様を報告するがその前に、前知識として亀島家の家譜
から傑の渡航の一部を紹介する。
三世 都通事諱傑
弘治17年甲子(1504)7月12日進貢の為め、火長を命ぜられ正議大夫程連、鄭玖、
長史蔡寶、梁能と共に閩に入る。
正徳6年辛未(1511)8月13日次年の進貢貨物の預備の為め、通事を命ぜられ
正史馬彼比等と共に満刺加国に往き、蘇木、胡椒などを収買して帰国す。
1511年はポルトガルがマラッカを占領した年で、1463年以降20回、琉球船が訪れたがその最後の船となった。街の中心部を流れるマラッカ川が海に注ぐ辺りに橋がかかり、その上に作られた小屋で商取引が行われた様で、傑の乗った船も橋の近くに舫ったと思われ、そこがどんな風情か良く見てきたい。
2011年06月27日
世界遺産 武夷山 #3
翌朝は天気にも恵まれ九曲渓の川くだりに絶好の日和になった。船乗場には竹の筏が多数あり、国内外からの観光客で賑わっていた。私たちは6人乗りの筏2艘に分乗し出発した。

筏の前後の2人の船頭が渓流の岩場を巧みに操って約10㌔を2時間ほどゆっくり下っていく。筏の上からは青空にそびえ立つ岩山が見え、特に有名で美しい「王女峰」、一枚岩の「天遊峰」や「大王峰」などが間近に迫りすばらしい景観の連続であった。また、岩に刻まれた漢詩には朱子学の祖である朱熹の書も見られた。

写真・文 健郎
筏の前後の2人の船頭が渓流の岩場を巧みに操って約10㌔を2時間ほどゆっくり下っていく。筏の上からは青空にそびえ立つ岩山が見え、特に有名で美しい「王女峰」、一枚岩の「天遊峰」や「大王峰」などが間近に迫りすばらしい景観の連続であった。また、岩に刻まれた漢詩には朱子学の祖である朱熹の書も見られた。
写真・文 健郎
2011年06月25日
世界遺産 武夷山 #2
夜は「武夷山山水実景ナイトショー」を鑑賞しました。
ショーは武夷山麓の岩山と九曲渓を借景にして屋外で行われます。岩肌や川面には赤、青、緑のレーザー光線を当て、武夷山の映像がパノラマ状の巨大スクリーンに投影されます。これを背景に500人を超える集団演舞やパフォーマンスが行われ、2000席余の観客席が360度回転して座ったまま前後左右の舞台を鑑賞します。山や川の自然を借景としたスケールの大きさと豪華さに圧倒されました。名産の大紅袍茶をPRするような物語です。

中国の有名な観光地では継続的に観光客を誘致するために大規模なショー施設があり著名な演出家や監督を起用して、毎日上演され観光客を飽きさせない工夫をしている。観光立県である沖縄でも自然背景の利用や大規模な施設で伝統芸能や琉球歴史物語などを演出上演して観光客を誘致したらと思った。
写真と文 健郎
ショーは武夷山麓の岩山と九曲渓を借景にして屋外で行われます。岩肌や川面には赤、青、緑のレーザー光線を当て、武夷山の映像がパノラマ状の巨大スクリーンに投影されます。これを背景に500人を超える集団演舞やパフォーマンスが行われ、2000席余の観客席が360度回転して座ったまま前後左右の舞台を鑑賞します。山や川の自然を借景としたスケールの大きさと豪華さに圧倒されました。名産の大紅袍茶をPRするような物語です。
中国の有名な観光地では継続的に観光客を誘致するために大規模なショー施設があり著名な演出家や監督を起用して、毎日上演され観光客を飽きさせない工夫をしている。観光立県である沖縄でも自然背景の利用や大規模な施設で伝統芸能や琉球歴史物語などを演出上演して観光客を誘致したらと思った。
写真と文 健郎
2011年06月22日
世界遺産 武夷山 #1
祖庁落成式に参加のあと、山水画の名勝、武夷山を訪れました。
武夷山は福建省の北西部に位置し江西省との境にあります。福州を流れるビン江の源流でもあり、1999年自然と文化の複合世界遺産に登録され、武夷山国家自然保護区となり管理されています。
福州市内から4時間ほど走り、今夜のホテルに着きました。毛沢東・蒋介石等の要人が泊まった5星ホテルです。

昼食後「天遊峰」の山登りに出かけました。高さ約200mの天遊峰の岩壁には999段もある石造りの急な階段があり、足が棒になるほど2時間半かけて往復しました。頂上からは眼下の九曲渓や遠くの峰々が水墨画のように展望されました。付近には宋美麗も訪れた楼閣があり、ここで疲れを癒しひと時の清清しい気分になりました。
写真文 健郎

武夷山は福建省の北西部に位置し江西省との境にあります。福州を流れるビン江の源流でもあり、1999年自然と文化の複合世界遺産に登録され、武夷山国家自然保護区となり管理されています。
福州市内から4時間ほど走り、今夜のホテルに着きました。毛沢東・蒋介石等の要人が泊まった5星ホテルです。
昼食後「天遊峰」の山登りに出かけました。高さ約200mの天遊峰の岩壁には999段もある石造りの急な階段があり、足が棒になるほど2時間半かけて往復しました。頂上からは眼下の九曲渓や遠くの峰々が水墨画のように展望されました。付近には宋美麗も訪れた楼閣があり、ここで疲れを癒しひと時の清清しい気分になりました。
写真文 健郎
2011年06月16日
福州行って来ました(No5)
式典を終え、梁辺村梁心玉村長の案内で祖先を祀る祖廟へ向かった。ここは昨年の清明祭にも訪れた所で祭壇に祝金と土産の泡盛、煙草を供えて日中の梁氏の絆を深めました。

再び新祖庁に戻り、互いの家譜を持ち寄り懇談して福建梁氏の始祖「梁克家」や琉球梁氏の始祖「梁崇」に関する文献や疑問を話し合いました。

「梁崇」は永楽年間に琉球へ来たと沖縄の家譜に記され、天順4年には明皇帝から長史司に任ぜられたとあります。この4~50年の年月は何を意味するのか。若き日に琉球へ渡り、琉球における永年の功が認められ、長史司になったとも推論されるが、これらを記した「梁氏族譜」を村長から贈られたので、持ち帰り他の資料とも突き合せることにしました。
写真・文 健郎

再び新祖庁に戻り、互いの家譜を持ち寄り懇談して福建梁氏の始祖「梁克家」や琉球梁氏の始祖「梁崇」に関する文献や疑問を話し合いました。
「梁崇」は永楽年間に琉球へ来たと沖縄の家譜に記され、天順4年には明皇帝から長史司に任ぜられたとあります。この4~50年の年月は何を意味するのか。若き日に琉球へ渡り、琉球における永年の功が認められ、長史司になったとも推論されるが、これらを記した「梁氏族譜」を村長から贈られたので、持ち帰り他の資料とも突き合せることにしました。
写真・文 健郎
2011年06月15日
福州行ってきました(No4)
式典に続く祝宴は会場を移して行われました。
村内外の梁氏関係者千名余りが多数の円卓を囲み、身動きが出来ない程に会場はびっしりと埋め尽くされています。20種以上の豪華な料理が次から次へと運ばれ宴が始まりました。

宴が進むにつれ出席者はテーブルを廻り乾杯を交わしました。私達も「沖縄梁氏」ですとテーブルを廻り交流を深め、華やかな宴席は爆竹の合図とともに終了しました。
写真・文 健郎


村内外の梁氏関係者千名余りが多数の円卓を囲み、身動きが出来ない程に会場はびっしりと埋め尽くされています。20種以上の豪華な料理が次から次へと運ばれ宴が始まりました。
宴が進むにつれ出席者はテーブルを廻り乾杯を交わしました。私達も「沖縄梁氏」ですとテーブルを廻り交流を深め、華やかな宴席は爆竹の合図とともに終了しました。
写真・文 健郎
2011年06月15日
福州行ってきました(No3)
新祖庁を紹介します。3階建で外観はNo1の記事を見て下さい。建物中央は吹き抜けになっており、1階にお堂があります。

写真左側に見える階段下の壁に新祖庁建設資金を寄付した人々の名前を刻んだ銘板が設置されますが、未完成で代わりに大きな赤紙に寄付者の名前が書いてあり、中国の人に混じって沖縄梁氏門中の23名の名前もありました。階段を上がると2階は梁氏始祖の「梁克家」公など偉人の肖像画が掲げられ、部屋にはテーブルが置かれて懇談や集会などが出来るようになっています。3階は工事が一部残っているようでした。
写真・文 健郎


写真左側に見える階段下の壁に新祖庁建設資金を寄付した人々の名前を刻んだ銘板が設置されますが、未完成で代わりに大きな赤紙に寄付者の名前が書いてあり、中国の人に混じって沖縄梁氏門中の23名の名前もありました。階段を上がると2階は梁氏始祖の「梁克家」公など偉人の肖像画が掲げられ、部屋にはテーブルが置かれて懇談や集会などが出来るようになっています。3階は工事が一部残っているようでした。
写真・文 健郎
2011年06月06日
福州行ってきました (No2)
挨拶の後はテープカット(鋏彩式)です。
日本だと関係者が物事の開始を宣言するためテープに鋏を一回だけ入れます。しかし中国は違います。延々と鋏彩式の儀式が続くのです。
各地代表から始まり祖庁建設資金の高額寄付者(男性1万元、女性5千元)が次々と壇上に上がり、1時間近くも鋏入れを繰り返すのです。鋏とそれを載せたお盆は記念に夫々持ち帰ります。

写真・文 健郎
日本だと関係者が物事の開始を宣言するためテープに鋏を一回だけ入れます。しかし中国は違います。延々と鋏彩式の儀式が続くのです。
各地代表から始まり祖庁建設資金の高額寄付者(男性1万元、女性5千元)が次々と壇上に上がり、1時間近くも鋏入れを繰り返すのです。鋏とそれを載せたお盆は記念に夫々持ち帰ります。
写真・文 健郎
2011年06月06日
福州行ってきました(No1)
福州梁邊村の梁氏祖庁落成式への案内を受け、梁氏門中から9名の会員が行ってきました。
5月16日の梁邊村は小雨が降っており、一行は村の入り口で歓迎の鼓笛隊と爆竹に迎えられて新祖庁に到着し、お祝いアーチをくぐり抜け式典会場に入りました。

式典は中国各地や沖縄から約400名の梁氏縁者が参列し行われました。
はじめに梁邊村梁氏理事会会長が祖庁建設の経過報告を行い、各地代表の挨拶が続き沖縄梁氏からは上江洲事務局長がお祝いの挨拶をしました。
写真・文 健郎
5月16日の梁邊村は小雨が降っており、一行は村の入り口で歓迎の鼓笛隊と爆竹に迎えられて新祖庁に到着し、お祝いアーチをくぐり抜け式典会場に入りました。
式典は中国各地や沖縄から約400名の梁氏縁者が参列し行われました。
はじめに梁邊村梁氏理事会会長が祖庁建設の経過報告を行い、各地代表の挨拶が続き沖縄梁氏からは上江洲事務局長がお祝いの挨拶をしました。
写真・文 健郎