2015年08月13日

宗家・歴代会長の写真掲揚

木造平屋(約25坪)の梁氏倶楽部の建物は昭和29年(1954年)に建設され、総会や学事奨励会など門中行事の中心的役割を果たしてきました。
門中の象徴的建物ですが老朽化も進み、外観的には何度か補修を繰り返し、今年も雨漏り対策で瓦屋根補修を始めたところです。

今回はこの倶楽部の内部を整備するために、宗家の方々や倶楽部そのものの建設でも尽力し、門中をまとめあげた先達者たちを、身近に感じてもらうために、以下の写真を床の間に掲揚しました。

本家からは写真の収集ができた大宗家当主①十七世亀島明良、②十八世亀島大成、③十九世亀島章甫の3名。

それから戦前戦後と活動した門中会をまとめあげた④初代会長亀島如玉、⑤二代目会長國吉有慶、⑥三代目國吉大昌の3名。

そして昭和55年梁氏呉江会が組織化された⑦初代会長亀島入徳、⑧二代目会長國吉順質、⑨三代目会長國吉惟弘、⑩四代目会長亀島裕文までの4名。

亀島裕文会長は「一般社団法人久米梁氏呉江会」の初代会長でもありますので、合計10名の写真です。







門中行事の折はもちろん、近くにお越しの節はぜひご覧ください。

写真の収集整理、加工印刷、取り付け作業は亀島義侑、國吉克哉、國吉健郎、國吉和男が担当しました。



  


Posted by たんめー at 19:13Comments(0)久米梁氏呉江会

2015年04月22日

宗家墓所(4)・・・・クワディサー

宗家亀島家のお墓には大きなクワディサーの木があったと清明祭や宗家墓所(3)の頁に書きました。

昭和52年ごろ、木の下で撮った写真がありましたので紹介します。


これはお墓に向かって右側にあった木です。こぶの大きさから、どんな大きな木だったのか想像できます。
戦前生まれの長老はウフタンメーの植えた木に登ってはいけないと教えられたと語りますが、戦後も昭和40年代 生まれの玄孫はこのとおりです。



お墓に向かって左側にあった木はこちらです。少年と木の太さを比べてください。



そして、平成13年12月にはこんな景色でした。
この頃には右側の木が切られ、黒木が代わりに植えられています。また、ヒンプン左右のコンクリートは戦後のものです。

    







  


Posted by たんめー at 12:53Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年06月22日

久米至聖廟 遷座式

6月15日、久米至聖廟は念願の久米の地へ移転しました。遷座行事に梁氏のメンバーが多数関わりましたので紹介します。


孔子の神位が石龍陛を上り大成殿へ着きました。いよいよ神輿を降り神座へお遷します。梁氏の若者が黒朝礼服に身をかため、神輿を担ぎました。



孔子の神位が新至聖廟に遷りました。



投稿者:久茂地のタンメー


  


Posted by たんめー at 13:34Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年04月15日

宗家墓所(3)・・・・社稷を祀る

 門中の清明ではご先祖より先に墓の右側にある墓室を拝みます。宗家墓以外でも、そこには何もないのに、やはり右隅から拝みます。何故でしょうか。
今年の清明祭に東京在住の宗家から六男の章明さんが来られ、墓所に関わる貴重なお話を聞けたので紹介します。

  祖父母や両親から伝え聞かされたのは、祖父明良(十七世)が明治41年に若狭の拝領墓から現在の場所に移した。墓地の大きさは間口五間四尺、奥行十七間(10.2m×30.6m)と家譜に記している。ご覧のように周囲を石垣で囲み、ヒンプンがあって 左右には大きなクワディサーの木が植えていた。

 (追記) クワディサーの木は2本あり、墓所の入り口、ヒンプンより手前の左右に植えられていた。植えたのは墓を移した明良の兄、明徳 で明治末から大正の事と思われる。タンメーの植えた木だから登って遊んではいけないと教えられたと、曾孫にあたる義侑さんは話している。
水平に大きな枝を広げ清明祭などでは日蔭を作っていたが老木となり祖国復帰の頃に切り倒された。切り株がその大きさを伝えていたが、今ではそれも朽ちてしまった。


 破風型の墓は3つに分かれ、中央の墓室には顕(四世)からの先祖が眠っている。
 向かって右側の黒っぽい墓室には土地の神、「社稷(しゃしょく)」が祀られている。「社稷」とは周の時代頃から中国の天子・諸侯が国の守り神として祀ってきた土地の神「社」と五穀の神「稷」である。各地域でも「社稷」祀ってきた。その神が墓の右側にいるのである。国家をも意味する「社稷」であるから先祖より先に拝礼し、その後に様々な祭礼を始めた。その墓室には何が納められているか見たものがおらず何も聞かされていない。
 向って左側は戦後の一時期、分家である明佐の祖霊を仮安置していたが、所沢へ移したので空っぽである。





 拝礼の順序はまず右側の「社稷」に、明や清の作法である三跪九叩頭のしきたりでお線香をあげた。その後中央の墓室に眠るご先祖へ、同じく三跪九叩頭のしきたりでお線香をあげた。幼い頃は回数を数えられないので、大人の衣擦れの音を頼りに終わるタイミングを判断した。自分も高齢になったので今日は一跪一叩頭に省略させてもらった。

「社稷」が祀られていることがご先祖様より先に拝む理由なのです。

清明祭終了後の懇親会でも話題の中心は「墓」や「祭祀」の事で、参加者から次のような話がありました。
 我が家の墓の右側には何も無いが「ヒジャイバラ(左側)」と呼び、そこには土地の神が存在するとして、まずここを拝み墓地に立ち入る事を報告してから、ご先祖を拝む。呼び方は墓の方から見て左の方向を意味しているようだ。
 宗家の墓のヒンプンは3段積みになっており、上下の石には凹凸の加工がされ、その噛み合せでヒンプンが立っている。戦時中には爆風で倒れ、弾痕も残っている。墓地を囲う石垣は蟻の通る隙間すらなく石を積み上げた高度な造りになっている。



投稿者:久茂地のタンメー


  


Posted by たんめー at 01:20Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年04月11日

清明祭 その2

今回の清明祭は大学関係者やマスコミの取材、ヨーロッパからの珍客などなど

チャンプルー的といいましょうか例年に無いにぎわいとなりました。

まず、李 鳳娟(り ほうけん) さん (北京大学日本文化専攻、慶応義塾大学社会学研究科 博士後期)

後ろに写っている方が 早坂 優子 さん(琉球大学人文社会科学研究科 人間科学民族学 博士課程)

早坂さんは昨年も来られて配膳など手伝ってくれました。



盧姜威(ろ がい)(福州 長楽県出身)さんとそのヨーロッパからの空手仲間? 個々の紹介は有りませんでした。




Radio Television Hong Kong (ホンコンテレビ)プロデューサーの陳 卓玲(ちゃんちぇくりん)


さんとそのスタッフ  



熱心に取材して 懇親会まで取材にきていました。


投稿者:久米村のタンメー<br />
  


Posted by たんめー at 17:53Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年03月14日

会員からの便り(法人化)

梁氏呉江会 会長 亀島裕文 殿

 2013.2.1のブログで「一般社団法人設立」についてを拝見しました。
役員の皆様のご努力によって法人設立認証を受けられて誠に大慶に存じ、皆様に感謝いたします。

長い年月でした。先達の皆様が門中のために努力されたこの成果は、ワッター・ウヤファーフジは天国で喜んでいらっしゃると思い、感慨無量です。

今後とも、この会の発展のために皆様のご盡力を、この横浜からお願いいたしております。

                         2013.2.14   亀島 博



画 崎山孝次郎

  


Posted by たんめー at 15:16Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年03月09日

25年度定時総会の開催と法人設立祝賀会

25年2月28日、「久米梁氏呉江会」の定時総会が開かれました。
例年のように決算と今年度の事業運営方針や予算の審議を行いますが、一般社団・財団法人法に定める社員総会を初めて開催することであり、これまでとは違う特別な意義のある定時総会でした。
 

        
 総会は新定款に則り会長を議長とし、定足数確認・議事録署名人の指名等を進めていきました。
4件の議案が付議されましたが、特別なのは四号議案で「会員の共有名義となっている不動産を一般社団法人へ移転登記するための経費について」でした。
多額の支出を要する案件ですが、これは門中の財産を永く保全するために必要な手続きです。第一号~第三号議案とともに執行部提案どおり承認され、法人の体制を固めて行くことになりました。
 


 総会の後、一般社団法人の設立を祝う記念式典を開催しました。
数世代前からの懸案だった法人化が実現し、ご先祖も「よくやった」と褒めてくれるのではと思われる瞬間でした。本会会員はもとより、梁氏門中の関係者が嘉手納や具志川からも来てくれ、兄貴分の久米崇聖会、お世話になっている税理士事務所、司法書士事務所の関係者も参加し、大変な盛会でした。 


投稿者:久茂地のタンメー





  


Posted by たんめー at 14:03Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年03月07日

来訪者 2

 先日、香港のマスコミの取材を受けたと紹介しましたが、またまた香港マスコミの取材を受けました。前回は新聞、今回はTVです。

取材に訪れたのは「香港電台」の編集者2名です。同社の英語表記は 「 RADIO TELEVISION HONGKONG 」 となりラジオ局とテレビ局を持っている事がわかります。日本の各地を取材・放送しており、NHKに相当する公共放送だと自己紹介されましたが、公営放送とのネット記事もあり同等と考えるには無理がありそうです。



取材趣旨はTV番組「華人移民史」を作りたい。東南アジアについては放映を終えたので日本版として沖縄と横浜を撮りたい。今日は事前調査であるとのことでした。
久米三十六姓も横浜の中華街に代表される人々も華人の末裔でしょうが、日本へ来た年代も、目的も違うので同じタイトルでは括れないと意見を言いました。大陸からみると明の時代に渡った人々の末裔も、近世になって日本へ渡った人々の末裔も同じに見えているかもしれません。同じ職能を持つ集団かと問うのもその表れだと思われます。
 
香港のマスコミが、この半年の間に2社も来訪したのに懸念もありますが、久米村の歴史を説明し、我々は先祖が中国からもたらした文化や風習を、これからも継承していくのだと、淡々と説明しました。3,4ヶ月後に撮影を予定しているようですが、久米三十六姓の末裔には梁氏呉江会の他にも組織があると話したので巾広く取材してくれるものと期待しています。


投稿者:久茂地のタンメー



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Posted by たんめー at 10:53Comments(0)久米梁氏呉江会

2013年02月01日

一般社団法人設立

「一般社団法人久米梁氏呉江会」が平成25年1月17日に設立されました。
下記のように法人登記が完了しています。生まれ変わった梁氏呉江会の意を込め、久米の名を冠しました。
昭和55年に先輩が設立した「梁氏呉江会」から33年目の出来事です。

 これまでの「梁氏呉江会」は法人格の無い任意団体でしたので、法律上の権利義務を伴う行為は全て会員の名を借りて行なわざるをえませんでした。預金口座も代表者名で作るしかありません。
これからは「久米梁氏呉江会」として様々な法律行為が行え、臨時総会において
     『梁氏門中を発展させ、代々受け継がれてきた財産を梁氏門中の祭祀、運営
      及び門中員の繁栄のために資することと、永く子孫へ継承していくこと』
と誓ったように、会の繁栄・発展のために、全ての会員が努めていくことを決意します。



登記に先立ち、定款は次のとおり、法令に適合していると認証を受けました。



主な項目として利益や剰余金を会員へ分配出来ないこと、会員は呉江梁氏門中員に限ること等が記されています。

投稿者:久茂地のタンメー














  


Posted by たんめー at 19:54Comments(0)久米梁氏呉江会

2012年12月03日

梁氏呉江会臨時総会 (2)

 臨時総会は梁氏倶楽部で午後6時から開かれました。
まず祖先拝礼後、総会成立に必要な出席人数が確認され、亀島会長からの提案理由の説明が始まりました。
  

  第一号議案 一般社団法人設立承認の件
  第二号議案 新定款承認の件
  第三号議案 設立時社員の承認の件
  第四号議案 設立時理事・監事の選任の件

  会長からの議案説明の様子。
  

 「第一号議案」については梁氏呉江会を一般社団法人へ移行することにより、門中活動の活性化を図るとともに、門中財産の保全を確立し末永く子孫へ引き継いでいく為であるとの説明に、満場一致で承認されました。
新しい組織名は久米の名を冠し ”一般社団法人久米梁氏呉江会” とする予定です。

 「第二号議案」については梁氏呉江会設立時(昭和55年)の趣旨を継承するとともに、公益法人制度改革三法に則り一般社団法人として必要な定款を定めました。
主な項目として利益や剰余金を会員へ分配出来ないこと、会員は呉江梁氏門中員に限ること等があります。
本件も満場一致で承認されましたので公証人役場へ提出し法令に則っているかの審査を受けることになります。なお、入会手続きや資産運用等については定款に則り規程を別途定め、業務の執行をしていきます。

 「第三号議案」については梁氏呉江会の現会員を一般社団法人の設立時社員とすることで承認されました。

 「第四号議案」については梁氏呉江会の現理事・監事を一般社団法人の設立時理事・監事とすることで承認されました。

  質疑応答と真剣な議論の様子。
  

 以上のように、一般社団法人を設立し梁氏呉江会を継承していくことが臨時総会で可決されました。
新生、 「一般社団法人久米梁氏呉江会」 は梁氏門中を発展させ、代々受け継がれてきた財産を梁氏門中の祭祀、運営及び門中員の繁栄のために資することと、永く子孫へ継承していくことを決意します。

  総会終了後は出席者全員の懇親を深めました。
  


投稿者:久茂地のタンメー



  


Posted by たんめー at 22:19Comments(0)久米梁氏呉江会

2012年11月27日

梁氏呉江会臨時総会 (1)

梁氏呉江会の臨時総会が11月22日に開催されました。

梁氏呉江会は昭和55年に発足し人格を持たない「みなし法人」として運営してきました。しかし、これがため会の活動に様々な制約があり、法人名義で不動産や預金通帳を持てない等の問題を抱えてきました。
この問題解決を目指し人格を有する法人へ移行しようという試みはこれまで何度かありましたが実現に至りませんでした。

懸案未解決のままでは後輩へ呉江会を引き継げないと公益法人制度改革三法が施行されたのを契機に、今こそ法人化を進めようと検討を始めました。
22日は、その検討結果の  ”一般社団法人の設立”  即ち梁氏呉江会の大改革について諮る重要な臨時総会でした。

臨時総会に諮るまでの経緯が「門中便り第4号」に掲載されています。




投稿者:久茂地のタンメー


  


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2012年02月27日

シンガポール、その2

マーライオンのすぐ側に1910年(明治43)に建設された歴史的トラス型鉄橋のアンダーソン橋があります。海辺に有りながらよく手入れされて錆もなく、夜はあやしげにライットアップされ、美しい橋でした。

CO2削減、省エネ、節電のキャンペーンを張る内向きの国からはうらやましい程に華やかなイルミネーション、活力ある経済の証でしょうか?それにしても電気代は何処が負担しているのだろう?



オプションコースでドリアン試食と市場見学しました。前評判の強烈なにおいが気になりましたが意外と臭いは気にならず、クリーミーな甘さで美味しい。



店先で分厚い果肉を切り裂いて、手ぎわよく中身を取り出して、その場で食べさせてくれました。



ついでに果物の女王マンゴスチンも食べました。さっぱりした上品な甘さでこれまた美味しかった!。



広大な植物園の中の一部に有料の蘭園があり、温室がなくてもみごとな花が咲いていましたが、花よりも園内にささやかに植えられていた「蘇木」に会えて、みんなで歓喜しました。
現在は染色にもあまり活用されてない「蘇木」のようですが、木そのものも、少なくなったのでしょうか、地元でも知っている人は少ないようでした。






「先祖の足跡をたどる」として琉球とマラッカの交易の面影を求めての旅、祖先が関わった交易船が停泊したと思われる港の雰囲気や交易品の「蘇木」を確認し、果物の王様と女王を味わう冒険など収穫大でした。
真冬の上海から36℃のマレーシヤへの往復、環境の変化にも耐えてシルバー8は元気に帰ってきました。






  


Posted by たんめー at 12:15Comments(0)久米梁氏呉江会

2012年02月27日

いよいよシンガポール、その1

マレーシヤのジョホール・バルからジョホール海峡を渡っていよいよ最後の目的地シンガポールに入ります。

 圧倒的に大きな国土や人口の多いマレーシヤから、富める国シンガポールへ稼ぎに向かう早朝の自動車の列。
通勤用パスで入国ができるとは言え、毎日橋の上は通勤ラッシュだそうです。
唯一海峡にかかる橋(コーズウェイ)の水のパイプライン、マレー鉄道の列車も見えました。

水をはじめ資源がなく流通・観光で栄えるシンガポールがなんだかひ弱に見えますが、マリンベイー周辺の近代的ビル群を目の前にすると、華やかさに圧倒されます。





新マーライオンから見渡すマリーナベイのサンズ・スカイパークビル、3つの高層タワーホテルには2500室、カジノもあるそうです。

見上げると、船を空に押し上げたような奇抜なデザイン、340mもある中央部は庭園だそうだがそこには行けず、船の先端部から下界の展望を満喫しました。



台風もない穏やかな環境のせいか、展望広場は天井もなくガラスとステンレスの細いワイヤーだけの囲いにはびっくりです。

夜はシンガポール川からマリンベイー往復のナイトクルージングに出かけました。昼の景観とはガラット変わって、水ぎわ周辺全てのビルや橋、建物がライットアップされ、夜の長い南国の華やかな演出に感動しました。






スカイパークビルは昼も夜も、対岸のマーライオン側からは絶好の写真ポイントでした。





  


Posted by たんめー at 11:21Comments(0)久米梁氏呉江会

2012年02月26日

先祖が踏んだ交易の地 マラッカを尋ねて その5

琉球王朝とマラッカ国との交流

琉球国は察度年間にはすで明国と朝貢が始まり(1386年)読谷村の泰期を使者にたて馬120匹を進貢しています。1389年にはシャム国と交易も始まり積荷としてかさばる馬に代わって香木、蘇木、胡椒などに変わっていきますが、1570年代までに通算60隻にもおよぶ交易の実績が有ります。

しかし、1463年から1511年までの間はシャムとの交易は極端に減少し代わってマラッカとの交易が台頭するのです。マラッカの交易実績は20隻で琉球国のいわゆる大交易時代の2番目に実績の大きな国なのであります。

シャム国が勢力を広げアジアの政情が不安定になりつつある事にかんがみ、明国は鄭和の艦隊を送り朝貢を促します。

1405年マラッカの国王パラメスワラはタイのアユタヤ朝からの外圧を避けるために鄭和の勧告を受け入れ明国への朝貢を始めます。

その数年前に明国はすでに琉球に閩人36姓を送り込んでいるのです。
したがって朝貢のため北京入りした琉球の使者達はマラッカの常連達と親しくなり、朝貢品目の蘇木がマラッカの特産品であることに着目してシャムからマラッカへ移行したものと筆者は推測いたします。

しかし、そのマラッカも1511年にポルトガルに占領されてしまいます。その後オランダに占領されやがて東インド会社の設立と時代はすすみますが、オランダはイギリスにその権利を譲ってしまいます。

琉球国はマラッカの占領直前に蘇木と胡椒の買い付けに派遣しますが、その時の通時として乗船した人が梁氏3世の梁傑である事が家譜に明記されているのです。

木の重さと同じ重さの金と交換するほど明国で重宝がられた蘇木といかなる植物なるか? また当時のマラッカの港は何処に有ったのか? 遠く琉球国から命がけで国王の勅書を持ってマラッカ国王に謁見した場所マラッカの王宮はどんな所だっただろうか?

かくしてその足跡を尋ねて我々シルバーエイトの旅は始まったのであります。

現地ガイドが案内してくれた王宮の跡地は小高い丘になっていて今は残骸だけが残る教会になっていました。




セント・ポール教会である。占領後のポルトガルが建立したもので入り口に建つ石像はかの有名なザビエルです。彼の遺体が一時安置されていた教会です。

イギリス時代に破壊され今ではポルトガル時代の砦としての砲門が残るだけです。



右端に砲門が有りますがお分かりでしょうか。

砦ですから岸壁の下は海だったはずですが今はすっかり埋め立てられて町の中のモニュメントとしてのひっそりと観光客をまっています。

かの王宮はその近くに再建され今はマラッカ文化博物館となっていますが今回は時間が無く立ち寄る事が適いませんでした。



つづく
 
投稿者:久米村のタンメー

投稿者:久米村のタンメー<br />

  


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2012年02月25日

先祖が踏んだ交易の地 マラッカを尋ねて その4

シルバー8とCVG

クアラアルンプールからマラッカへはジーゼルの機関車の旅となりました。



学生時代は東京まで3泊4日もかかったものです。そして九州を抜けるまではジーゼルだったことに話はは

ずみ、トンネルに入るとあの特有の匂いにタイムスリップした感じです。


さて我々はほぼリタイヤ世代であり8人そろってシルバー8と名乗りますに、この旅には5

人のお嬢さんが加わりました。そこぬけに明るく、色白で県外からの参加者かと思ったのですが、県内の高

校の同窓生とのことでした。自称CVG ( Chinenn Village Girls )なんと知念高校の同窓生でした。





2時間ほどでタンピン駅に到着、現在のマラッカの土を踏みしめるのですが、500年前の先達の足跡をは

たして見出す事ができるのでしょうか。






投稿者:久米村のタンメー

投稿者:久米村のタンメー<br />



  


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2012年02月23日

先祖が踏んだ交易の地 マラッカを尋ねて その3

夜のクアラルンプール

この国は九つの小国の集合国家でそれぞれに国王がいて5年に一度輪番で9人の国王の互選によりマレーシアの国王が選ばれる。

国王は直接政治には関わらず日本の天皇陛下と同じような国民の象徴として尊敬されている。

当然王宮があり儀仗兵が不動の姿勢で両方のゲートの中に立っています。



この国では石油が産出する。したがってガソリンが安い、日本の約半額にちかい、よって街には

エコカーや軽自動車は見当たらない。

ガソリンが安いから多分電気代も安い。消費税も無い。

おまけに冬がなく、雨季と乾季しかなく、地震もなければ台風もない!

よってビルは限りなく天空にそびえ、夜のイルミネーションは最早芸術の域といわざるを得ない。





イギリス植民地時代に建設された建物で現在は最高裁判所として利用されています。

約10秒間隔で5色に変化します。



451.9メートルの高さを誇るペトロナス・ツインタワー

あまり高すぎて地上階がカメラに納まりませんでした。


次回はいよいよマラッカ行きです! つづく

投稿者:久米村のタンメー

投稿者:久米村のタンメー<br />

  


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2012年02月22日

先祖が踏んだ交易の地 マラッカを尋ねて その2

朝のクアルンプール

出発までのわずかな時間でホテルの周りを散策。

朝から屋台が出ていました。なまずのような魚をぶつ切りにして油であげています。

カメラを向けると包丁をあげてポーズを取るおねーさん! カラフルですね~!



まもなく市場に向かいました。ガーブー川が氾濫した時代の那覇の市場とそっくりです!

匂いがきついことではありますが幼い時のあの時代はこんな環境で育ったものです。 



肉市場と同じ場所にあるのも同じです。

ここはイスラムの国、したがって豚は売りません。滞在中ほとんど肉料理が出ませんでした。
マレー系はイスラムであり豚肉を食しませんし、30%弱を占めるインド人は牛を食べません。

イスラムは酒も飲みませんのでスーパーではビールも限られた店でしか販売していませんでした。





牛の頭のかわりに豚の頭をおけば那覇の肉市場そのものです。

愛嬌のいいおにーちゃんがポーズを取ったがシャターチャンスがずれてしまった!

彼が握っている鉈とまな板もそっくりおなじ、那覇の豚足売り場と重なります。

投稿者:久米村のタンメー

投稿者:久米村のタンメー<br />

  


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2012年02月21日

先祖が踏んだ交易の地 マラッカを尋ねて その1

アジアの夜明けはまぶしい!

カーテンを開けると目の前には旭に輝くビルが照り返していた。

空気は湿気を含み、あくまで重く、あまずっぱい香りのなか一日が始まろうとしている。

上海に降り立った時は3度位でしょうか冬の真っ只中の旅行を思い知ったのですが、ここは赤道直下に近い国、マレー半島のクアラルンプール!

よくもまあ!ここまで来たもんだ!

事の次第はひょんなことから展開した。最初は中国の桂林に行く予定でしたが、旅の直前に沖国大の田名教授による講座”「歴代宝案」を読み解く”を受講したのがきっかけなのであります。

その資料によりますと梁氏の梁復という方が中山王(尚巴志)の勅書をもってシャム国に蘇木と胡椒の買い付けに行っているのです。

さらに系図を調べてみますと3世梁傑は1511年にマラッカに買い付けに行っているのです。

そんなことから、一度マラッカに行って先達が買い付けた蘇木がどんなものか見てみようじゃないか。

と、まあ桂林の計画を南にふってマレーシア、シンガポールの旅が始まったのであります。






つづく

投稿者:久米村のタンメー

投稿者:久米村のタンメー<br />

  


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2011年11月20日

孔子の里曲阜へ

曲阜に着いて翌日(11/7)、肌寒い曇り空の中孔子廟へ。いくつもの門をくぐってやっとたどり着いた壮大な大成殿!、圧倒されました。
大成殿の前には孔子をたたえる歴代皇帝の石碑群がありましたが、ほとんど文化革命時に壊されたそうで、割れの修復痕が痛々しい。
 

廟の隣には孔子の子孫が暮らしていたという孔府。入り口には、金銀贅沢を食べて、大陽までも食べようとして身を滅ぼす「貪」(タン)という動物が贅沢と欲の戒めとして描かれていました。
 
 

更に街の北側には、これまでに10万人以上の孔一族が眠ると言われる広大な墓地、孔林があります。その中心に孔子の墓碑が有りました。
 

 
 孔子墓碑と広大な孔林

 
福州、曲阜、上海の孔子廟を尋ねましたが、いずれも文化革命の粛正などで傷んでいたものが、儒教の再評価や観光振興の方向でしょうか、10年前より数段きれいに整備され有料一般公開されていました。
最近、中国でも急激な経済成長のもと道徳意識の低下が話題となったばかり、孔子直系が未だに台湾から戻れないでいる中、主なき孔廟・孔府・孔林が観光ビジネスで賑う様子はチョット寂しい気がする視察旅行でした。

  


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2011年11月17日

孔子の故郷曲阜視察へ

「那覇市福州市友好都市提携30周年記念式典と孔子の故郷曲阜視察」に総勢200余名が参加し、崇聖会から50名が参加しました。梁氏は古謝崇聖会会長をはじめ8名が参加し、熱烈歓迎を受けました。
     


友好の記念植樹でガジュマル(福州市の木)を植えました。両市長に続いて、みんなで思い思いに土を掛けました。
     

福州孔子廟視察、文化革命で荒らされていた修復がやっと終わったようで、以前にはなかった歴代の聖人が整然と並んでいました。
     

次の日(11月6日)いよいよ孔子の里 山東省曲阜に向かいます。

  


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