日本人研究者によるノーベル賞受賞のニュースが続いている。
喜ばしいことだ。
21世紀にはいってからというもの、さまざまな分野で、この栄誉ある賞に輝く研究者が相次いでいる。ありがたい話ではないか。
ただ、個人的な感慨を述べるなら、私は、このたびの大村智さんと梶田隆章さんの受賞を、つい先日ラグビー日本代表が南アフリカ代表チームに勝利した時ほど、手放しで喜んでいるわけではない。
むしろ、マスコミ各社の騒ぎっぷりにいくぶんシラケている。
あんまりはしゃぐのはみっともないぞ、と思っている。
わがことながら不可解な反応だ。
スポーツ関連の出来事だと、私は、ラグビーであれサッカーであれ、自国の代表チームの快挙には跳び上がって喜ぶ男だ。のみならず自分が勝ったみたいに誇らしく思い、なおかつ、自分の手柄であるかのごとくに自慢話を繰り広げる。
それが、相手が学術研究だと、世界的な快挙に対しても容易に心を開かない。
奥歯を噛みしめて、クールであろうとつとめていたりする。
どうしてだろう。
私は何を我慢しているのだろうか。
というよりも、なにゆえに私は、学者を差別しているのだろう。
自覚としてスポーツマンだから?
違う。
私は、年季のはいったスポーツ観戦者ではあるが、ほとんどまったくスポーツマンではない。特に団体競技では、いつもチームの混乱要因だった。チームのメンバーとして、まるで力を発揮できなかった。
かといって、学者なのかというと、まずもってそんなこともないわけなのだが、無理矢理にどちらか一方を選べというのであれば、おそらく学者チームの側の人間ではある。
アタマが良いという意味ではない。
カラダを動かすよりは、あれこれ考えている時間の方が長いということだ。ひとつのことを考え始めると、なかなかその我執から離れられない性分だということでもある。学問なり研究対象なりを追究する人間として、優秀なのかどうかは別として、ともかく、学究肌の男だとは思っている。ついでに言えば天才肌でもある。地道な努力が苦手という意味での話だが。
その、スポーツマンというよりは学者に近い人間である私が、スポーツ畑の快挙は祝福しても、ノーベル賞に対して冷淡に構えている理由は、たぶん、真面目だからだ。
どういうことなのか説明する。
高校時代の物理の授業中の話だ。
その年の一番最初の講義をはじめるにあたって、担当の教師は、「科学的方法論」について語った。その中で彼は、学問が個人や国家のものではなくて、人類に属するものだという話をしたのだ。学問の世界の出来事について、大学の名前や、国籍や、研究所の名前にこだわるのは恥ずかしいことだと、先生はたしかにそうおっしゃっていた。