映像’15「わが家にやってきた脱走兵〜ベトナム反戦運動・47年目の真実」 2015.10.05


(小山帥人さん)これはわが家ですき焼きを食べてるとこですね。
フォークで食べてますけれども。
左側にいるのはぼくのおふくろです。
(ナレーション)
この日大学の市民講座である映像が公開された
47年前1968年の春に撮影されたものだ
この映像を撮った…
当時大阪の放送局にカメラマンとして勤務していた
(フィリップ・キャリコートさん英語)ミャオミャオ…。
・猫ですね。
(英語)「カメラ回ってるよ。
お前は俳優だよ」。
(英語)「なんか言えよ。
歌えよ」と。
(英語)
リラックスしているように見えてどこか落ち着かない様子もうかがえるこの青年
実はベトナム戦争を拒否して脱走したアメリカ兵士でこのとき小山さんの家にかくまわれていた
1960年代半ばベトナム戦争はアメリカの軍事介入で泥沼化していた
米軍の出撃基地でもあった日本では戦場に行くのを拒否して脱走する兵士たちが現れた
反戦団体・ベ平連は脱走兵を援助するグループを発足させ極秘に彼らをかくまうよう一般市民に協力を求めた
脱走兵をかくまって移動させるだけであればなんの日本の法律にも触れないと。
だからそういう意味では非常に頼みやすいことは頼みやすかったですね。
日本の最果ての海から国外への脱出を図った米軍の脱走兵たち
(山口さん)2〜3日後にはもうモスクワにいるわけですよね。
国境なんてのは人が作ったもので実際はこんなもんなんだなと。
ベトナム戦争を拒否して日本を後にした脱走兵たちはその後どんな人生を送ったのか
・Hello.Hello.Callicoat?・Yes.Thisiskoyama.
47年前わが家にやってきた脱走兵
その消息を尋ねる旅が始まった
こっちはあんまり変わってないですね。
みんな同じ町内ですから。
この辺一角なんですよ。
ここに…その角っこにぼくの家があったんですね。
かつてこの場所にあった自宅に小山さんが一人の脱走兵をかくまったのは1968年3月2日のことだった
小山さんは当時25歳
大学を出て大阪の放送局にカメラマンとして勤務していたときに知人から頼まれて脱走兵をかくまった
これ実はおふくろが持ってた手帳なんですけど一切メモを残すな秘密にしろって言ったんだけどこれを見るとね「ヒミツが来た」って書いてあるんですよね。
かくまう脱走兵について公にしないのはもちろんメモも一切取らないという約束だった
しかし映像を撮るなとは言われなかったので小山さんは個人で持っていた16ミリカメラでひそかに記録を残した
脱走兵の名前は…
オハイオ州出身の19歳で17歳のときに海軍に志願して入隊した
キャルという愛称で呼んでくれと本人から言われたと小山さんは記憶する
なんか背の高いねスラッとした明るい感じの好青年だそういう印象でしたね。
いろいろ話しましたよ。
ベトナム戦争のときに結局一緒に船におったときに両側のね同僚の1人が首撃たれて死んでもう1人も傷を負って自分だけ無傷で帰って来たのが不思議なぐらいやいうてね。
そういう戦場の経験とか言ってました。
(キャリコートさん)
ベトナムは1954年のジュネーブ協定で南北に国家が分断された
その南北のベトナムが互いに戦ったベトナム戦争に1960年代半ばアメリカが軍事的に介入
大勢の兵士が戦場に送られたが戦争は泥沼化していった
米軍の基地がある日本では「戦争で殺すな殺されるな」を合言葉にアメリカのベトナム侵略に反対する「ベトナムに平和を!市民連合」略称「ベ平連」が結成され米軍兵士たちに脱走を呼びかけた

(「ウィ・シャル・オーバーカム」)「脱走兵という名称は卑怯者裏切り者余計者などにかぶせられてきました。
でも私たちはカテゴリーや呼び名には関心がありません。
私たちは今自分たちの正しいと信じることのために立ち上がりました」。
戦時中の脱走行為は重罪で最悪の場合死刑という最も重い罰を科せられる
それでもこの4人の兵士は自分たちの決断に希望を持ってベ平連に援助を求めた
(小田さん)アメリカという国家権力の一つの被害者だったと思うんです。
その被害者であったことでベトナムに対して大きな意味の加害者になっていた。
それを自らの意思で彼らは加害者である立場を放棄した。
そのことによって大きな犠牲を払っていると。
このことは私たちが大いに学ばなければならないと思います。
ベ平連は記者会見を開きこの脱走兵士を撮った記録映画を上映したがそのときすでに4人は横浜からソ連船・バイカル号で国外に脱出していた
これをきっかけにベ平連は脱走兵の支援を本格化させその専門グループ「ジャテック」日本脱走兵援助技術委員会を発足させた
名前はものものしいがその実態は脱走兵たちを家にかくまい国外脱出を手助けする一般市民のネットワークだった
キャルはイントレピッド号の4人が脱走した3か月後軍艦の寄港地横須賀から脱走して東京のベ平連事務所に駆け込んだ
その後関西地方で潜伏生活を送り小山さん宅で3日間を過ごした
ドウモアリガトウゴザイマス。
アア〜チョットマッテネ。
(でたらめな中国語)Beerisgood.Whiskyisbetter.Butsakeisbest.まあ酒を飲んだらねなんかおちゃめでなんか中国語話すとかねタガログ語話すとかいって訳のわからん全然違う言葉を話してみたりね。
ごく普通のねなんかこう自分の思想を持ってるというふうなそんな感じじゃまったくなくて普通の青年という感じでした。
フィルムの中のキャルはこうしたちゃめっ気ぶりを見せたがその一方で家族のことについて聞かれると複雑な表情で語った
キャルをかくまってから3日目の晩に小山さんは京都・園の繁華街に彼を連れて出た
やっぱりね家の中ずっとおったらなんか外へ行きたい行きたいって言うもんやからいいかなぁと思って。
ちょっと背広着てね最初はサングラスなんかしたりして。
47年前の四条通を歩くキャル
家の中にこもりっきりで息を潜めて暮らす生活からつかの間解き放たれ生き生きとした表情を見せる
その姿を小山さんはフィルムで撮り続けた
こっちは…島屋は変わってないですね。
この一角ですよね。
(スタッフ)はあはあ。
園から…北からずっと…。
(スタッフ)ここまでこう歩いてきて。
この辺まで行ってここで飲んでちょっとあれしてそれから帰って行ったんです。
47年前にね。
園に出かけた翌日キャルは小山さんの家での3日間の滞在を終え別の潜伏先に向かった
(スタッフ)逮捕されやしないかとかいうそういう危惧というか不安というのは小山さんはじめ皆さんは持たなかったんでしょうか?あの〜ちょっと2〜3聞いてみたんですけどねぼくも含めてそういう…逮捕とかそういうことは考えなかったです。
まあ実際にあとで聞いてみると助けた…逃げた脱走兵の方はアメリカの軍事法廷で裁かれますけどね彼らはいわゆるまあ出入国自由ですからそれを助けようが助けまいが日本人は罪に問われないということはあとから知ったんですけどね。
当時はそれは知らなかったんですけれどもまあでもそんなことにはならないだろうという気はしてましたし。
ほんとに個人…個人の思いですね。
普通の一般の人間が自分の思いで自分の責任で引き受けて…。
まあそれによっていろいろ不利益を被った人もいるんでしょうけどもねそれは全部引き受けてしかもそれは誰にも言わずに黙ってるというのがほとんどの人じゃないですか?
脱走兵・キャルが小山さんの家を出てひと月半後の1968年4月20日
キャルを京都から東京へと送り届けた人がいる
関谷滋さん
べ平連が作った脱走兵援助の専門グループ「ジャテック」のメンバーで当時立命館大学の学生だった
こちらも一人京都でかくまってたシャピロという脱走兵と一緒に来たんですけれども。
それでまあ大阪の人と…日本人の人とそれからキャリコートと二人が来るという話で。
両方とも…二人とも私初対面でしたので赤いカーネーションを目印に持ってきてくださいということで待ち合わせをした。
でまあ割と比較的早く見つけられて…そんなにカーネーション持ってウロウロしてる人はいませんでしたので。
キャルにもう一人の脱走兵・シャピロそして関谷さん
同年代の三人は留学生と日本の友人のようにも見えた
(関谷さん)久しぶりに心おきなく英語がしゃべれるってんで二人でよくなんかしゃべってましたけど。
(スタッフ)関谷さんはどんな気持ちで座ってらしたんですか?やっぱりまあ早く時間が過ぎてくれればという思いはありますよね。
まあよほどのことがないかぎり捕まったりはしないというような感覚は持ってましたけれどもそれでももしなんかあったらやっぱり困るなということであんまりゆっくりはできなかった気はしますけど。
あんまりウロウロキョロキョロ見回しても具合が悪いのでまあなるべく本読んでじっとしてたっていう感じですね。
東京に着いたキャルとシャピロの二人に更に4人の脱走兵が合流した
そしてこの後誰もがあっと驚く方法で日本から脱出することになる
ベ平連の支援によって脱走兵たちが向かったのは北海道だった
秘密のルートを使ってソ連に渡り更に当時ベトナムからの脱走兵を大勢受け入れていたスウェーデンを目指した
このとき彼らに同行した山口文憲さん
当時大学を目指して浪人中だったがベ平連が作った脱走兵の援助グループ「ジャテック」のメンバーとして活動していた
釧路空港に着いてそれでそれから釧路でレンタカーをチャーターしてそれでそれから休み休み夜を待ってっていうことですかね。
それで根室の花咲港に行ったんですかね…根室港ですね。
港で脱走兵たちを待っていたのは1隻のカニかご漁船だった
そこらへんなかなか映画みたいでいいんですけども突堤の入り口に車をつけてそこで消して…ライトを消して待ってると向こうから…こっちから合図したのかどっちか忘れましたけどとにかくそれでヘッドライトを2回点滅させるっていう合図になってて。
そうすると向こうから人が来てそれでこっちから…一度にこっからあと50メートル全力で駆けろっていうことで兵隊たちが背を丸めて。
とにかくでかいですからね。
走ってってその船に乗り込むと。
それで私がそこまで見たらすぐUターンして痕跡をくらますようにしてそこら辺走り回って帰ってしまうっていう。
この漁船は当時国境を接するソ連に情報を流すことでソ連領海での操業を目こぼしされていた「レポ船」と呼ばれる船だった
脱走兵はこの「レポ船」の協力を得て国後島の沖合いまで行きそこで待っていたソ連国境警備隊の船に乗り移った
その後脱走兵たちは国後島に到着
そしてメンデレーエフ空港から飛行機でモスクワへ向かった
京都の自宅にキャルをかくまった小山さんは脱走の成功を新聞記事で知った
5月のね上旬にモスクワで記者会見やってるんですよね。
それは新聞載りました。
だからどっかから行ってモスクワに行ったんだなああ〜良かったなぁと思ったんですね。
最終目的地・スウェーデンに到着し空港でポーズを取る脱走米兵たちの写真は全世界に配信された
当時の写真誌はスウェーデンに滞在中の脱走兵たちの姿を伝えた
しかし中には脱走生活に耐えられずに精神を病んだりアメリカに戻ったりする脱走兵もいたという
日本で相次いだ米軍兵士の脱走
これを放置しておけなくなった在日米軍は脱走ルートの解明に乗り出した
ある日ベ平連にやってきた脱走兵・ジョンソン
彼は軍のスパイだった
現場サイドはやめといた方がいいって。
あれは危ないぞっていうことがずっと言われてたんですね。
それはどうしてかっていうといろんな預け先で態度がいいんですね。
おとなしい。
なんにも文句言わないとか。
そういうのがかえって怪しいですからね。
キャリコートと同じでジョンソンとの関わりっていうのは大阪で出会って東京に連れてったと。
でひと晩泊めて次の日羽田まで送っていった。
それだけの関わりなんですけども。
あの〜まあいろいろおかしいなと思わせることが多かった人らしくて大阪の人から受け継ぐときも「ちょっといろいろ気をつけた方がいいよ」みたいなことは耳打ちされた経験があります。
しかしベ平連の創設メンバーで哲学者の鶴見俊輔は組織内のスパイ摘発に強く反対してこう言った
キャルたちが国外脱出しておよそ半年後の1968年11月
同じ北海道ルートで脱走すべく脱走兵・メイヤーズと脱走兵になりすましたスパイジョンソンの二人が根室に向かっていた
しかし根室へ行く途中昼食に立ち寄った温泉旅館でジョンソンは姿をくらました
メイヤーズを乗せた車は米軍の要請を受けた日本の警察のパトカーに追跡され釧路市内で行く手を塞がれた
車の中でねもう空元気でね「ウィ・シャル・オーバーカム」をず〜っと歌ってたんですよ。
最近歌いませんけど昔よく歌いましたよね。
あの〜ジョーン・バエズの歌ですけど。
それを歌いながら最後にそれでまあ握手したり。
ハグはしなかったですね。
握手したりして連れてかれたんですけど。
米軍の手によってメイヤーズは逮捕され基地に強制送還された
のちにアメリカ上院議会に提出された軍の資料によるとメイヤーズが北海道で逮捕されることになった背景にはある人物の行動が間接的に関わっていた
その人物とはあのキャルだった
キャルはスウェーデンに逃れてから3か月後にアメリカからやってきた父親に説得され帰国した
直後に軍の刑務所に収監され日本で脱走した際の一部始終を供述した
根室からの脱出ルートについてはもちろん京都でカメラマンの家にかくまわれていたということまで供述内容は詳細を極めていた
この供述の直後にスパイジョンソンがベ平連に送り込まれメイヤーズの逮捕につながった
北海道根室からの脱走ルートは日本でも公にされ新聞で大きく報じられた
記事には多くの市民が脱走兵をかくまったこと更にはその具体的な職業までもが細かく記されていた
自分がかくまったことなどが新聞とかに出るようなこととはちょっとね想像しなかったんで「あれ?あいつしゃべったのか?しゃべっちゃったのかな?」って。
まあしょうがないか19歳の少年だしね。
やっぱりなんらかの事情で国に帰りたくなったのかもしれないしね。
両親に説得されたんかもしれないし。
まあ別にうそ言ってるわけないんだからしょうがないんじゃないかなっていうそういう気分ですね。
このころアメリカ国内でも若者を中心にベトナム戦争反対のうねりが起きやがてアメリカ軍は撤退を開始
1975年4月戦争は終結し南北ベトナムが統一された
77年のカーター政権時代にはベトナム戦争の脱走兵の恩赦も発表された
1974年にはベ平連も解散した
日本から脱走した兵士たちのうち何人かの消息は明らかになっているがキャルのその後はまったくわからなかった
時折ね思い出してフィルム見たりしたりあっフィルム残ってんだなっていうことを思い出すと彼のことも当然思い出すわけなんでどうしてるかなぁと思って。
まあ幸せに暮らしているかなぁとかね。
そうですね。
見つかれば会いたいですね。
会って話をしてみたいです。
ほんとにどういう気持ちだったのか。
それからどういう気持ちの変化があったのか。
それから帰ってからどんな苦労があったのかなど話してみたいですね。
キャルは今どこで何をしているのか
元脱走兵としてどんな人生を送ったのか
番組スタッフと小山さんはキャルの消息を捜しはじめた
間もなくアメリカのカリフォルニア州に彼と同じ名前同じ年齢の人物が住んでいることがわかった
報告に上がってきた人物は47年前わが家にやってきたあのキャルなのだろうか
もしあのキャルなら会って聞きたいことがいっぱいある
小山さんは祈るような気持ちでその住所宛てに急いで手紙を書いた
元脱走兵のうちで消息がわかっている一人ジェラルド・メイヤーズ
北海道根室で米軍に逮捕された彼は今アメリカ西海岸の最北部にあるワシントン州の自然豊かな町に住みIT関連の会社を経営している
根室港から船でソ連に脱出しようとしていた直前に逮捕された彼のその後の人生はどのようなものであったのか
北海道から横須賀にある軍の監獄に送られると今度は一転して拷問の日々が待っていたという
脱走し投獄された兵士ということで社会から白い目で見られ職を見つけるのにも苦労したという
同じ脱走兵だったキャルへの思いそしてそもそも脱走を後悔はしていないのか尋ねた
手紙を書いてから1か月後小山さんにキャルからの返事が届いた
いや〜これはでもうれしかったね。
もうあれ出したの4月の2日…。
(スタッフ)3日です。
3日か。
1か月以上たってるじゃないですか。
だからもうちょっとあかんかなぁと思ってあきらめてましたからね。
あっ結構長い。
便せんには細かい字でこうつづられていた
「ずっと前からのそしてはるか遠くにいる親愛なる友小山さんへ。
なんという驚きだろう。
あの当時私は恐れと不安でいっぱいだった。
その後何年もトラブルが続いて幸せとは言えなかった。
あなたからの手紙がもっと欲しい。
フィリップ・キャリコート」。
手紙でのやり取りとはいえ47年ぶりのキャルとの対話だった
一応元気でまあやってるみたいだし。
ちょっと日常生活とか書いてなくて当時のことの思い出しか書いてないから今どうしてるのかちょっとわからないですけども。
まあとにかく返事があって一切忘れて一切考えたくもないという気持ちではないということがわかったからそれは良かったですね。
キャルはあれから47年の間どう生きてきたのか
軍に脱走ルートについて話したことや何より脱走兵という過去は彼の人生を大きく変えたのだろうか
更に何回か手紙をやり取りした後小山さんはキャルに会うためアメリカへ向かった
カリフォルニア州中部サンフランシスコからおよそ70キロ南に位置する町サンタクルーズ
ここにキャルは住んでいた
元脱走兵フィリップ・キャリコート
年は重ねたが47年前の面影は確かに残っていた
(小山さん)
キャルは今知人の家に居候をして暮らしている
93歳になる知人の母親の身の回りの世話をするのが日課だ
ピッピッ
(操作音)Thankyouverymuch.
日本を脱出してからの歳月について彼はこう語る
軍の刑務所で服役した後キャルはスウェーデンに舞い戻って現地の女性と結婚娘をもうけた
4年半暮らした後離婚して帰国
その後アメリカ人女性と結婚しまた2人の娘をもうけたが今は独り身で僅かな年金を頼りに暮らしている
Please.OK.Thankyou.「Welcome!」。
彼が通う教会の礼拝堂で小山さんはかつて撮ったあのフィルムの映像を見てもらうことにした
Inmyhouse.Wow!Youngman.
(キャリコートさん)Yes!Irememberher.Yes,sukiyaki.Ithink.Yes,Idid.
(英語)
北海道からレポ船でソ連に脱出したときのこともキャルはよく覚えていた
(キャリコートさん)
(英語)
この後キャルは小山さんにあることを打ち明けた
47年間誰にも言わなかった事実だ
(キャリコートさん)
実はこれはキャルの作り話だった
確かにベトナムで軍艦に乗ってはいたが銃弾が飛び交うような最前線にはいなかった
日本で脱走兵として受け入れてもらいたいあまりについたうそだった
(キャリコートさん)
そして元脱走兵・キャルの告白は更に続いた
ベトナム戦争に派兵され悲惨な光景を目にした兵士がその後もPTSD心的外傷後ストレス障害で苦しんでいることはアメリカ国内で大きな問題となっている
アメリカに戻ったキャルも心に傷を負い仕事を得られずにホームレスだった時代があったという
脱走したことは後悔していないというが彼もまたベトナム戦争の犠牲者の一人なのだ
この1か月後キャルはサンタクルーズを離れアメリカ東海岸のフロリダに住む兄弟のもとに身を寄せた
脱走兵という過去を常に背負いながらキャルはこれまで得られなかった安住の地を求めてさまよっているのかもしれない
(英語)彼らがどうしてるかってずっと気にはなってましたよね。
私なんかはもう60代の後半ですけども戦後にすぐに生まれてそれで一度も日本が戦争することなく今まできましたよね。
これから先どうだろうと。
私なんかは死ぬまでね日本が戦争しない国でいられるかわかりませんよね。
そしたら脱走兵も反戦運動も他人のことじゃないですよね。
ほんとに最近そう思います。
キャルとの再会の後小山さんはアメリカ・ワシントンにあるベトナム戦争戦没者慰霊碑を訪れた
この日はちょうど父の日
戦没兵士5万8000人の名前が刻まれた碑の前に遺族らが手向けた花が並ぶ
キャリコートがね脱走…もし脱走しなければここに名前が載ってる可能性もあるわけですよね。
だからまあ脱走した後ももちろん苦しい生活だったんだろうけどもそれでもね生きてまあ自分の人生をそれなりに送っているわけやからここに名前が載らなくて良かったなっていう思いはします。
ベトナム戦争終結から40年
かつて脱走兵をかくまい支えた日本の市民たちがいたことを知らない人も増えている
平和と戦争を巡り国の形が変わろうとする今もしまた脱走兵をかくまってくれと頼まれたら私たちはどうするだろうか
半世紀の歳月を経て解かれた封印
そこに映し出された戦争の断面から何を受け取るのかが改めて問われている
2015/10/05(月) 02:55〜03:55
MBS毎日放送
映像’15「わが家にやってきた脱走兵〜ベトナム反戦運動・47年目の真実」[字]

平成27年度文化庁芸術祭参加作品▼いまから47年前に京都市内で撮られた白黒フィルムに映る当時19歳のアメリカ人青年…脱走した兵士と市民との間で結ばれた絆ーーその後

詳細情報
お知らせ
【平成27年度文化庁芸術祭参加作品】
この番組は2015年8月30日に放送されたものです。
番組内容
今年1月、今から47年前に京都市内で撮影されたモノクロ映像が、ある集会で上映された。そこには民家の居間でスキヤキをふるまわれている、若いアメリカ人青年の姿が映し出されていた。黒縁の眼鏡をかけた青年は、片言の日本語を話しながら、どこか硬い表情で緊張感を漂わせている。“キャル”という愛称で呼ばれたこの青年は、ベトナム戦争の要員として日本から戦地へ送られるのに抗い、米海軍から脱走した脱走兵だった。
番組内容2
映像を撮影したのは、当時25歳のNHKの報道カメラマンだった小山帥人(こやま・おさひと)さんだ。米軍の脱走兵援助に取り組んでいた「ベトナムに平和を!市民連合」(通称・ベ平連)から人を介して頼まれ、京都市内の実家で“キャル”をかくまっていた。「この事実は決して口外するな、記録も残すな」と言われていたが、いつか役に立つこともあると思い家にあった16ミリ映写機で彼と過ごした3日間の様子を撮影したのだった
番組内容3
放送局をすでに退職しフリージャーナリストとなった小山さんは、市民集会で“キャル”の映像を公開。その後“キャル”はどうなったのか。今、どこでどうしているのか。小山さんは番組スタッフとともに“キャル”の消息を探し始めることにした。
脱走兵“キャル”が辿った数奇な運命ー、ベトナム戦争が当時のアメリカ人や日本人に投げかけたものは何だったのか…、国境を越えて人と人がつながることの今日的意味を問いかける。
出演者
【ナレーター】
湯浅真由美
 
おことわり
番組の内容と放送時間は、変更になる場合があります。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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