破傷風の治療法を開発した北里柴三郎。
黄熱病の研究に心血を注いだ野口英世。
それからおよそ100年。
2人に続く偉業を成し遂げたのが。
ノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった大村智さんです。
今夜は大村さんがスタジオに生出演。
ノーベル賞受賞秘話をたっぷりと伺います!
こんばんは、クローズアップ現代です。
今夜のゲストは、大村智さんです。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
ノーベル賞の選考委員会は、人類への貢献は計り知れないと評していて、いまや、大村さんは、北里柴三郎さん、そして、野口英世さんに本当に並び立つ、そういった存在といっても過言ではないかと思いますけれども、今、どんな思いでいらっしゃいますか?
並ぶとは思いませんけれども、とにかく大先輩に負けないようにという、これまでやってきましたから、そういうなんていうんですが、先輩がおられた、北里研究所で仕事ができたってことが、今日につながっていると思いますね。
北里さんを尊敬してらっしゃるんですよね。
もう、何か困ったこととか、迷ったときとか、北里先生なら、どうするんだろう、何を言うんだろうかということが多いですね。
幼いころ、先生をかわいがってくださったのが、おばあさま、いつも、人に役立つことをしなさいと言い聞かせてきて、もし、今この場に、おばあさまがここにいらしたら、どんなことをおっしゃりたいですか?
智、よくやったねと言うと思いますね。
本当、小さいときから、何やっても、そういうことを、繰り返し、繰り返し、もう何べん聞いたか分からないぐらいですね、言ってくれましたね。
だから、よく言うこと聞いたねということじゃないかと思いますね。
本当に、そのとおりの人生になりましたね。
いや、そんなことはありませんけどね。
さあ、大村さんは、熱帯の風土病に苦しんでいる人を救う、画期的な薬のもととなる化学物質を作る微生物を発見されました。
そうした微生物をどのように発見し、そして、薬が生まれたのか、ご覧ください。
アフリカで配給される抗寄生虫薬、イベルメクチン。
1988年以来延べ11億人がのんでいます。
大村さんは、この薬によってノーベル賞を受賞することになりました。
薬の配給が始まる前1975年に制作されたNHKの番組です。
この村に住む男たちは必ず失明する。
20歳を過ぎるころから次第に視力が衰え始め数年後には完全に目が見えなくなった。
失明した大人は子どもの手を借りて暮らしていました。
原因は、寄生虫です。
ブヨによって媒介され、人に感染。
目の中に侵入すると失明につながるのです。
リンパ節などに入り込むと足が腫れ上がり、歩くことができなくなる場合もあります。
感染が広がった土地からは人々が去っていきました。
この状況を救ったのが大村さんが発見した化学物質から作られたイベルメクチンでした。
年1回の服用で寄生虫の感染を防ぐことができるようになったのです。
今でもアフリカを中心に28か国年間1億2000万人に無償で提供されています。
化学物質発見の発表から25年。
アフリカを訪れた大村さん。
薬の開発に携わった研究者だと知った人々から大歓迎されました。
大勢の人々を寄生虫から救った薬。
その誕生をもたらしたのは大村さんならではのやり方でした。
21年前のクローズアップ現代です。
スーツ姿のまま土を集める大村さん。
いろいろな場所で採集した土から薬のもととなる化学物質を生み出す微生物を探すのです。
研究室には5万本の試験管。
すべて土から分離した微生物が入っています。
これらの微生物から、およそ500種の化学物質を見つけ出し26種類の薬につなげました。
時間も人もかかるこのやり方。
大村さんは、アメリカの大手製薬会社と契約することで資金を捻出しました。
当時の日本では画期的な産学連携でした。
そして1974年。
静岡県伊東市にあるゴルフ場から採取した微生物から得られたのがあのイベルメクチンのもととなる化学物質。
放線菌の一種が生み出すエバーメクチンです。
エバーメクチンはアメリカの製薬会社によって改良され、あのイベルメクチンが生まれました。
そして大村さんは製薬会社でイベルメクチンの開発に当たった元研究員ウィリアム・キャンベルさんと共にノーベル医学・生理学賞を受賞することになったのです。
人々を、寄生虫の恐怖から救い出す薬が、大村さんが発見された、その微生物から生まれたわけですけれども、ご自身、本当に人のために、やれたなということを実感されるときって、どんなときですか?
それは、一番実感したのは、先ほどのあれにも出てきましたけれども、アフリカへ、2004年にアフリカの現地に視察に行きました。
そのときに先ほど見られたような光景があったんです。
子どもたちが。
子どもたちがね、そのときにね、この子どもたちがもう、今度は大きな木の下に座って、ずっと過ごしている大人がいるわけ。
全員が目が見えない人たち。
ああはならなくなったんだと、それが一番私はね、ああ、いいことができたな、よかったなと思いました。
そのときはね。
それにしても、人々を救う薬のもととなる化学物質を作る微生物が、静岡県伊東市のゴルフ場の土壌から出たっていうのは、不思議ですね。
みんな、この微生物を、われわれも探そうっていうんで、いろいろな会社がやるわけです。
結局いまだに、工業的に薬を作っているのは、私どもが分離した菌なんですね。
これがすごい特殊な菌だと思いますね。
ただその、採取した土壌の中に、その菌があったとしても、本当にきちっとそれを分けて、培養して、その化学物質っていうものに到達しなければ、発見にはならないわけですよね。
ただ土壌を取っただけではだめなんですよね。
そうなんです。
ですから、これがね、私どもの研究室の特色で、土を採るところも、それから菌を分離するところ、培養するところ、それから作ってる化合物の構造を決める、それが1つのグループで、実際は教室、大学の教室の単位でいくと、4教室があるわけですけど、本当、一丸になってやってますね。
これだからできるんです。
これやらなかったら、もうとてもここまでは来れなかったと思いますね。
しかし、それ以前にまず資金を調達しなければいけない。
先立つものがなければ、研究、しかもその大グループは維持できないわけですね。
アメリカに留学されて、北里に帰るとき、北里の教授から、自分でお金取ってこないと、研究資金はありませんよと、そう言われて、先生は、企業を回って資金を集められるわけですけれども、そのときにおっしゃったのは、そうした微生物の化合物を使って、動物に効く薬を開発したい、人ではなく、動物や家畜だとおっしゃった。
なぜ、戦略を動物に据えられたんですか?
その当時、今でもまだその傾向は強いんですけれども、その当時は家畜ですね、なんかには、人が使い古したものとか、あるいは人が使ってるものとかっていうものが使われてたわけですけれども、そういう人が使う薬を見つけようとしますと、大会社、製薬会社、大きな会社が、何十という会社がやってるわけでしょ。
私は確かにたくさんの研究費を、支援を得て、日本で仕事を始めたわけですけれども、その額はもう、本当、100分の1の、1000分の1の金額ですから、それならやっぱりうちの特色を出そうということで考えついたのが、それでまた、先方と議論をして、これどうだ?っていうのが、寄生虫ですけれども、まずは動物薬にしようと、それで動物薬の中でも、いくつか種類があるわけですよ。
こういう薬、こういう薬、こういう薬、それ全部やったわけですけれども、しかし、当たったというか、本当に成功したのが、寄生虫の薬だったんです。
むしろ、競争があまりない分野を狙った?資金があまりいらないところを?
いるにはいるんですけど。
いるんですけど。
要するに、年間、その当時2500万円になるんです。
これは東大のその当時の教授たちでも、恐らくは、2、300万だったときに、2500万円という金を導入して、その後3年っていうのが、実際20年続いたんですけれども、そういうものを、いかに有効に使って、ものを探していくかということからいったわけです。
ただその額も、大きかったわけですから、ポスドクというのが今いいますね、博士研究員というの。
あれを恐らく始めたのは私じゃないかと思うの、日本で。
そういう学位を持ってる人間を雇って、そうやって強力に人を増やしていきながら、研究を進めてきた。
しかしそれはばらばらにやってては、これはだめなんです。
みんなが本当に同じ方向を向いて、それで力合わせて、議論をして、そしてその目的を達成すべく努力していく、こういう体制が作れたのが、うちの、私が今日、ここにくる、あれになったと思いますね。
今では産学連携というのは、当たり前になっていますけれども、当時は、その企業と一緒に共同研究するということに対して、ちょっといかがなものかと。
いかがなものかもさることながら、もう、あれ、きちがいじゃないかというぐらい、気がおかしい。
それで私先輩が、無性に私をかわいがってくれて、なんでもちょっと、大村君、ちょっと来て、はい、なんでしょう、大村君、オール北里、北里研究所、北里大学に3大奇人というのがいるんだけど、お前分かるか?って言うから、ちょっと考えて、この人ですかって言ったら、そうだって。
それからこの人ですか?そうだ。
あと3人目がなんとしても出てこないわけ、で、誰でしょうねって言ったら、その先生が、いひひ、お前だよと、こう言われるぐらい、変わってたんですよ。
もう、本当にそんなことやるのはあほじゃないの。
そんなことやったら、また大変だよというような、見られた時期だったですね。
なるほど。
そうやって始めた研究体制が、普通では、1つ成果を上げるだけでも大変なことなのに、今、その見つけられた微生物が生み出す化合物で、イベルメクチンを含め、お薬などを、実用化が実現したのが26に上っていると。
これ、世界でもまず、見られないと思いますね。
そして今回は、イベルメクチンが話題になってますけれども、もっと実は私の見つけたものには、本当に科学者では、もっと有名な薬もあるんですけれどもね。
そういうのが見つかったというのは、やはり、その団結力、化学やる人も、微生物やる人も、土採るにしても、同じ土採るのでも、貪欲に、変わった所から作ろう、新しい微生物を見つけようって、そういうのの積み重ねが結果になるんですね。
こうした大村さん、どのように生まれ育ったのか、そしてどんなふうに支えられてきたのでしょうか。
大村さんは1935年山梨県韮崎市に農家の長男として生まれました。
村の中心人物だった父教師だった母、そして優しい祖母に囲まれて育った大村さん。
勉強しなさいとは言われず伸び伸びと育てられました。
日々、友達との遊びに明け暮れ地元でも有名ながき大将だったそうです。
大学時代までスポーツに没頭していた大村さん。
卒業後に就いた仕事は高校の夜間部の教師でした。
昼間に自由な時間が持てるという軽い気持ちだったといいます。
ところが、このときの生徒たちとの出会いが大村さんの人生の転機となったのです。
教え子の一人、川野一夫さんです。
当時、川野さんは昼間、燃料店で働きながら大村さんの授業に熱心に耳を傾けていました。
生徒たちのひたむきな姿勢を目の当たりにした大村さん。
みんなが頑張って勉強しているのに自分は何をやってるんだとみずからの意識の低さを省みるようになりました。
大村さんは一念発起し大学院で学び直すことを決断しました。
昼間は大学院で勉強夜は高校で生徒を教え、土日は徹夜で実験をするという日々。
その後大学の助手となったものの給料のほとんどを書籍や実験につぎ込んでいたため生活はぎりぎりでした。
そんな大村さんを陰で支えたのが27歳のときに結婚した妻の文子さんです。
家計の足しにと自宅でそろばん教室を開いたり実験で疲れた大村さんを気晴らしにと旅行に連れ出したり。
金銭的にも、精神的にも大村さんを支え続けました。
文子さんは15年前乳がんで亡くなりました。
生前、口にしていたことばは…最後まで大村さんを励まし続けていました。
文子さんは、ノーベル賞をとる。
予言してましたね。
今、どんな姿を一番、思い起こされますか?奥様の。
私は家庭のことは全く見ないで、研究に没頭すると。
そういう姿を見て、彼女はもう一生懸命、支えようと、例えば、給料も、先ほど出てきましたように、ほとんどうちに入れないわけですから、その分を彼女が稼いでくれてね、やったり、それから、なんていうんでしょう、社交的でしたから、非常に助かりましたね。
海外旅行なんか行きましても、私はもう疲れて、どうしようもなくて、招かれて行っても、ホストと話も、疲れてできないとき、彼女が出ていって、堂々とやってくれていましたから、その間、私は居眠りしているような状態でよかった。
そういうね、あらゆる面で支えてくれましたね。
やはり地道な研究で、逆境の中で、自分をずっと信じてくれている人がいるというのは、ありがたいですよね。
しょっちゅう、けんかもしてましたけどね、だけども、すぐ翌日はけろっとして、私もそんなに、いつも残すほうではなくて、彼女もそういう感じだったんで。
だけど本当に精神力の強いね、最後、病気で亡くなるときも、自分の病気のこと、一切愚痴もこぼさなかったですね。
私との結婚生活の3分の2は、病気との闘いでもあったわけですけれども、そんなこと、少しも表に出さない、おくびにも出さない、亡くなる寸前まで、そういう意志の強さを持ってました。
病院の先生方が、こんなに強い意思を持った患者さん、初めてだって言うぐらい。
その意思で、私は支えられた。
奥様あっての今。
と思いますね。
こうやって、先生の歩みを振り返ってみますと、非常にスポーツ一筋だったり、それほど勉強が好きではない、あまり成績も。
よくない。
そんな方がノーベル賞に達するというのは、多くの人を勇気づけるかと思うんですけど、もし、あのとき、夜間の高校の先生になってらっしゃらなくて、東京に就職してなくて、地元で就職されていたら、農家の長男坊として、先生をしながら農業もされていた、そんな人生だったかもしれないと思われること、ありますか?
いや、それはそれなりに、私は自分ではね、日本一の農家を作ってやるぐらいの気持ちでやったと思いますよ。
そういうことはあるんですよね。
しかし、農業の手伝いをやったということは、実は農作業というものは、科学者のやることなんですよ。
気候を気にする、温度を気にする、それから水分がどうであるかとか、まさに科学者なんですね。
だから、今、私が科学、しかも土から菌を分離するなんて、まさにもう、農業の延長ですと思ってますよね。
どうなんでしょうか。
今、振り返って、北里大学のほうに行かれるのは27歳のときで、そのときも決して、待遇はそれほどよくなかったというふうにも聞いてるんですけれども、研究者として、今振り返って、一番大切なことはなんだと思われますか?
やっぱり、もちろんお給料とか大事でしょうけれども、一番大事なことは、自分がどのくらいやる気があるかってことが大事だと思いますね。
これを達するようなことばで、チャンス・…、要するに幸運は準備された心を好むということを言ってますよね。
私は少しモディファイしまして、幸運は強い意思を好むと、そういうやろうと思ったことは徹底的に頑張ってやるんだということですね。
失敗を恐れないでやってほしいと、若い方々に語り続けてますけれども、今、若手研究者が置かれている状況というのは、失敗が本当に許される状況なんでしょうか?
そうでもないと思うんですけども。
やはり、若い人たちというのが、これまでの育てられた環境というのは、割合に大事にされながらきてますから、そういうなんて言うかな、耐性が弱くなっている、我慢しようとかっていうね、それをむしろ私は心配しますよね。
いい加減なことじゃもう、くたばらないよと、乗り越えていくよっていう、それを持ってほしいですね。
もっと、若い人たちには一歩前にという。
2015/10/07(水) 19:30〜19:56
NHK総合1・神戸
クローズアップ現代「生出演・大村智さんが語るノーベル賞受賞秘話」[字]
ノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった北里大学特別栄誉教授の大村智さん。アフリカで多くの人を救うことになった研究はどのように実現したのか。スタジオ生出演で迫る。
詳細情報
番組内容
【ゲスト】北里大学特別栄誉教授…大村智,【キャスター】国谷裕子
出演者
【ゲスト】北里大学特別栄誉教授…大村智,【キャスター】国谷裕子
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:9158(0x23C6)