私小説の続き10 自己責任論との戦いの始まり
一回間が空きましたが、今回は自己責任について語っていきます。
長らく私のサイトを読んでくださっている方にはお分かりかと思いますが、私は「自己責任論」という言葉を憎悪しています。この言葉がいかに社会を悪くしているか、人の幸せを奪っているかを知っているからです。
自己責任論の問題は主に二点です。「人の成長に役に立たないどころか、かえって阻害する」「議論がそれ以上進まない」ということです。
「あんたの生活が苦しいのは、全部努力しなかった自己責任だ」・・・・これを言っていいのは、「努力すれば生活が楽なる、上に上がれる」前提がある場合だけです。では、実際の世の中がどうなっているかといえば、新卒というブランドを失い、実務経験もなく長年非正規の労働を繰り返してきた人には、実質まともな会社で正社員になるチャンスなどありません。機会の平等が与えられていない、実際にはどれだけ頑張っても向上の見込みがないのに、「努力不足」「自己責任」を言うのが理不尽でおかしな話というのは、人並みの理解力があればわかるかと思います。
その理不尽がわかっていないのか、わかっていて開き直っているのか、いまだに「あなたが貧乏なのは仕方ないのだから、裕福な人を妬むな、文句を言うな」と平気で口にする人は世の中に大勢いますが、この人たちには、実際に生じている餓死などの問題を解決しようという発想はありません。ただ単に、自分の今の立場を守るため、弱者からの搾取を正当化するために、「努力してこなかった人間が貧乏なのは仕方ない、我慢しろ」と喚いているだけなのですが、それではただの感情論です。
百歩譲って、貧乏になったのは自己責任だとしましょう。では、貧乏な人がますます貧乏になり、不満を溜め込んでいく状態を放置していていいのか?貧乏な人の中に、意外とそれで納得している人は多いです。しかし、そこまで追い詰められて、「おまえらには何の希望もないし、これからもっと苦しくなるけど、ただ我慢しろ」と言われ続けて、みんながみんな納得すると思ったら大間違いです。
自己責任論というのは、それで完結した一つの思想です。その完結した思想で政治を行ってしまうと、社会をより良く、もっとみんなが豊かになれるように、という方向に議論が進んでいかないのです。百歩譲って民間人ならまだしも、政治家が自己責任論を言うのは、国民みんなが豊かに、安心して生活できる社会を作る責任を放棄しているのと同じです。
貧困問題の第一人者である湯浅誠氏は、「自己責任論=政治無責任論」ということを述べていますが、まったくその通りです。
「自己責任論」は欠陥の大きな思想であって、それが社会を良くする要素は皆無なのですが、日本人の病理が深いのは、さっき述べた「意外とそれで納得してしまっている人が多い」というところです。いま裕福な人間が「自己責任だ、我慢しろ」というのは、許されることではありませんが、わからないことではありません。しかし、いま貧しい立場にある人がそれに大人しく頷いてしまう――それだけならまだしも、なぜか納得せず声をあげている人間を叩き、足を引っ張ろうとする。何とも奇妙な話です。
こういう人たちの根底にあるのは、「私は自己責任を認めてるんだから、それ以上責めないで」という感情です。
プロ野球の監督が、「負けたのは全部俺のせい」と言っているのを聞いたことがあると思います。一見、潔い言葉みたいですが、この言葉には大きな落とし穴があります。
野球というのは、戦術の介入する要素が少ないスポーツと言われており、大半は選手の個人能力がチームの強さを決し、監督の采配で勝てるような試合は、年間140試合のうち5試合あるかないかくらいだと言われています。「名選手と名監督は別」と言われながら、プロ野球の監督がライセンス制にならず、選手としての過去の実績で決まるのは、本当は「誰がやっても大して変わらん」からです。
じゃあプロ野球の監督って何のためにいるの?といえば、「責任を取るため」です。下手すれば選手の一生を左右する「起用」という決断をする。試合に負けたとき、ファンのヘイトを監督に集め、選手にダメージがいかないようにする。それが監督の一番の仕事です。
本当はみんな、選手のエラーや失投、あるいは単純な戦力不足で負けたことがわかっている。でもそれで選手を責め過ぎた結果、イップスになって選手が潰れてしまったという過去が何度もあった。3割バッターやローテーションピッチャーの代わりはそういませんが、監督の代わりはいくらでもいます。だから敢えて、強引に、「ミスをした選手を起用した監督のせい」というところに持っていこうとしているのです。
試合に負けたとき、ファンもマスコミも、最終的には、監督に責任を求めようとします。そういうときに、監督が先手を打って「俺のせい」といえばどうでしょうか?マスコミもファンも、振り上げたこぶしをおろさざるを得なくなります。追及する言葉を失ってしまいます。
マスコミやファンに好きなだけ言わせた後に「俺のせい」というのはいいでしょうが、開口一番に「俺のせい」と言う監督は、本当に責任を感じているのではなく、ただ単にそれ以上責められないようにするためにそう言っているだけと考えて間違いありません。
「貧乏なのに自己責任論を認めている」人の心理は、このプロ野球の監督と似ています。このとき、監督が、試合に負けた本当の原因がわかっていればいいですが、ただ単に自己完結しただけで、チームとしての本当の問題点がうやむやになっているようだといけません。それではチームが向上することに繋がりません。
貧乏な人も同じで、親や兄弟などから努力不足を責められないために、取りあえず「はい、自己責任です」と言っておくだけならともかく、そこで自己完結して、貧困を生み出している社会の構造の問題を知ろうとせず、それを踏まえたうえでの貧乏から脱出する手立てを探す努力をやめてしまったとしたら問題です。問題と書きましたが、実際にはそうなってしまっている人が多いのではないでしょうか。だとしたら、「自己責任」という言葉は、まさに人が成長するうえでなんの役にも立たない、かえって阻害するということになっていきます。
私がこういう人たちに対して言いたいのは、「努力しろ」ということではありません。「助けてくれって叫ぼうよ」ということです。
続きます。
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