未来人がこの二つをみたら「どっちが新しい時代の国民的アイドル」だと思うだろうか
国民的アイドルと言えば以前はモー娘。だった。一方、現在はAKB界隈である。
しかしよく考えてほしい。もし××年後の未来人が、パッと見て「どちらがより新しい時代に流行ったアイドルグループか」と判断した時、おそらくモー娘。の方が新しく見えるはずだ。
モー娘。のメンバーの服装はいかに時代を切り開き、現実離れを極めていたと思う。一方のAKBは制服姿である。セーラー服なんて戦時中と一緒だ。しかも、当初はスカートも短くない。おまけに黒髪で、厚化粧もせず、みんな同じ髪型で、地味な田舎の女子高生のようなイモさをわざと売りにしていた。しかも「恋愛禁止」。これも封建社会のルールとそっくりである。しかしAKBがデビューするとまたたくまにモー娘。は落ちぶれていき、アイドル業界はAKBのまがいものだらけになった。
ではなぜこういうパラドックスが起きたのか。
それは日本型性消費の限界によるものだったのではないか。
私は平成生まれなので平成以降のアイドルの歴史しか知らないが、松田聖子みたいな「昭和の清純派アイドル像」の脱却と言う流れが一貫してあったと思う。90年代は沖縄出身者のように、いかにファッショナブルでダンス上手でノリのいい音楽を披露するかが注目されたし、その先にモー娘。ブームがあった。
平成前半といえばグラビアアイドルの面では巨乳とか爆乳がちやほやされた。オッパイを強調するギャル二人組の芸人による「パイレーツだっちゅーの」という流行語も生まれたし、そういうふしだらな時代を幼稚園児のキャラに嘲笑させたサブカルが「クレヨンしんちゃん」だった。そしてそういう流れが行きついた先は、リア・ディゾンみたいなオッパイギャルだったと思う。
女子高校生たちも「女子高校生・性」の脱却をしたかった。だからコギャルという、ギャルの子分になったのだ。制服を脱げばただのギャルだったし、ある種のマッチョ崇拝や承認欲求と小遣い稼ぎのために援助交際が横行した。援交で稼いだお金でブランドバックを買ったりしてもっと別の生き物になろうとした。大人になりたいと言うだけではなく究極的には日本人を脱却したい。と言う成熟願望があった。白人になりたくて金髪になり、黒人になりたくて日焼けサロンに通った。コギャルたちが洋楽ダンス音楽を独自に変換したのが「パラパラ」だった。
そうすると、女性は表面上はどんどん自由になっていった。しかし、「女性を消費する男」の目線からするとそれは都合のよいものではなかった。
特に、ただの冴えないオタク青年とかは、オシャレすぎる女の子や大人びていすぎる女の子は相手にできなかったし、相手にしてもらえなかった。「今の時代は女の方が強くて男性は逆差別ばっかりだ。女性専用車を廃止にしろ!」と真顔で言うネトウヨも出てくるようになった。
そういう「時代の要請」で生まれたのが、「JK消費」だったんじゃないか。
つまり、結成当初表面上は清純派だったAKBが却って珍しく、それが台頭してコギャル的流れが完全に断たれたバックラッシュの末に「JK消費」が生まれたという発想である。
そしてその元凶はAKBではないと思う。黎明期のAKBは、コギャルなんていなくなったとはいえまだギャルの存在が世の中に強かった時代にインパクトのある存在だったが、私が初めて見た時「2.5次元のようだ」と感じたものだった。テニミュとかと同じ類の認識で、まさか国民的アイドルになるとは思わなかった。
1990年代に生じた「エロゲー文化」が全ての原因にあるのではないか。
私が幼い頃にはまだ「脱衣麻雀」の文化が残っていた。何で知っているのかは聴かないでほしいのだが、1980年代以降の脱衣麻雀は、どちらかというと「セクシーショットをのぞき見」するようなものだった。したがって女性の肉体のグラマラスさが強調された。それがエロゲーの原型である。
1990年代後半ごろには「同級生」(1992年)に端を発するエロゲー文化がかなり成熟してきていた。つまり性行為を主眼とする学園物語を楽しむゲームが確立されたのだ。これは、オタク向け深夜アニメに学園モノがやたら多いことや性消費のための二次創作が多いこととも一致する。
1990年代というのは、バブル期のギャルがディスコでフィーバーしていた時代から、コギャル全盛期へと至る時代であり、「時代の風潮」として、清純派な女子学生なんてほとんどいなかった。しかし、だからこそ、その「逆張りの理想」をとことん描いて、実在しない理想の少女と性行為をしたふりもできるエロゲーが人気を博した。
そしてそれは2000年くらいになるとエロゲー原作の深夜アニメと言う形で氾濫し、やがては表向きの性的要因を排除した学園モノアニメとしてオタク全盛期を迎え、そういう文化の成熟が秋葉原ブームにつながることになる。で、秋葉原ブームの時にまさにあの電気街のど真ん中で結成されたのがAKBである。
オタクバブル以降に青春を迎えたゆとり世代の葛藤
平成生まれ世代は、秋葉原ブーム以降に高校生時代を迎えている。
つまり、ゆとりはみんなアイドルもアニメも制服少女ばかりな世の中を自身も制服姿で過ごしていることになる。あと当時人気のガールズロックバンドすらも制服姿だった。
そこには葛藤もある。それは「実在する女子高校生」(交際相手かもしれないし、自分自身かもしれない)と、「虚構のJK」の矛盾である。
既述のように、本来JK消費文化はエロゲに起因する。つまり冗談抜きで「3次元と恋の出来ない人のための恋愛と性行為の代替物」だったわけである。昭和に生まれてバブルやコギャルの時代に孤立していた独りよがりの男性偏った層の描いた理想像をベースとした「JK」と、ポストコギャル時代に自分の意思を持って生きていて自己表現をする女子高校生との大幅な乖離があるのだ。
一番乖離に気づきやすかったのは「オタグループ」や「オタカップル」だ。アニメに出てくる女子校生キャラや女子校生アイドルや女子校生AV女優と、身近な付き合いをする女子高生は違うということが一番分かった。
若い世代からしてみれば、いまはオタクブームだしと、ミーハー感覚でAKBや涼宮ハルヒにハマり、「にわかオタク」になるパターンも割といた(主流ではなかったが)。それが「大衆の1ジャンル」として認知されていたため、オタクではない人間もとやかくいわず、受け入れられていた。昭和世代が言う「オタクは迫害されていたんだ」と言う話が私たちにはリアリティがあるように思えない。本当にクラスで孤立しているような絡みづらいヤツは、この世代だとV系にハマる傾向があったと思う。
しかし、リア充な子たちは、アニメが描くような潔癖性とは無縁だ。かわいい女子が、アニメで描くようなかわいらしいアルバイトではなく、実は肉体労働のバイトをやっていたりする。田舎なら一番かわいい子がヤンキーと付き合うことだってあるだろう。アクティブな子ほど、高校生くらいになるといろんなことに突っ込んだり大人と同じことをしようとしたり背伸びをする。そういう「当たり前の事実」を受け入れているオタクは「虚構」と現実を割り切った上で、友だちや恋人とオタクコンテンツやグッズやイベントを楽しみまくるいわゆる「オタ充」をしたし、現実を認められない子はそれこそますます虚構の理想に没頭した。だから、オタクコンテンツバブルが起きた。
一方、ゆとり世代は、卒業してもしばらくはアニメを見続けるパターンが多い。
しかし、卒業するとなおさら現実に直面し続けるわけである。かわいかった子がデキ婚から捨てられてシングルマザーになって精神病院にぶち込まれたりもするかもしれない。フィクションでは描けないような理不尽だったりする現実が幾らでもあると気付くようになる。おまけに2015年はアキバブームの10周年だ。もうさすがにブームとしては終わってるし古ささえある。にもかかわらず、放送するアニメはマンネリ的な似たり寄ったりな作品ばかりで、人気作品の中心がセカイ系から日常系になるなど、どんどんコンセプトの単純化(あるいは幼稚化)が進んでいる。ますますばからしくなる。ばからしくてもついていける人や、それしか夢を見いだせない人だけが残り、そういう顧客を意識したコンテンツがますます偏る。負の連鎖だ。
そういうわけで、ゆとり世代は「サブカル」的感覚に嫌気がさしている子が多い。なまじニコニコ動画とかの全盛期に10代のひとときを経験したがゆえの現実志向である。で、現実主義からSEALDsを立ち上げたり連帯するのである。で、こんなふうな演説をするようになる。
SEALDs KANSAIの大澤さん「おはようございます。私昔は家でアニメやアイドルばっか見てました。でも今はこうやって国会前で声を上げる私を見て、昔の私はきっと、それだけ社会に希望持てるようになってよかったねって言うと思います」 pic.twitter.com/RnkP05KrMb
— SEALDs (@SEALDs_jpn) 2015, 9月 18
「消費する男」の目線で考えれば「JK消費」は最後の聖域
本当にどうしようもない世の中だが、今の時代は金さえあればなんでもなるのだ。
金があればそれだけで異性が寄ってくる。寄って来なくてもキャバクラに行けるが、キャバクラにはお水なギャルしかいない。
水着のグラマラスなグラビアアイドルは週刊誌の中吊りとかでも嫌と言うほど見かける。水着の女性の写真を獲得することすら困難で河原でエロ本を漁った時代ではない。男子中学生でもスマホでコッソリ検索して「今晩のおかず」にできてしまう。
で、そういう風に考えると最後の聖域がJK消費なのである。
未成年との性行為は法律で禁止されている。未成年に欲情することは社会的モラルに反する。しかし、19歳以上であれば何でもOKで、デリヘルもあるし、ニコ生配信とかで承認欲求に飢えた女性をナンパすることもできる。この壁が「JK的なもの」を渇望する男性を大量に発生させている。それはつきつめると処女崇拝でもあり、そういうものを自分が支配したいという歪んだ欲もはらんでいる。
そして、かつてときメモに没頭していたり電車男ブーム当時に若かった人たちは、今は30代から40代前半である。どう考えてもJKと付き合えない。社会的に容認されないであろう。だから、二次元を用いるし、AVを用いるし、地下アイドルにハマるのだ。その中で、たまたま大衆に見るに値する健全だったものが地下アイドルだっただけで、その最大手のAKBが国民的アイドルに慣れたという顛末ではないだろうか。
ポストJK消費としてフェティシズムの時代になっている
そうした行きついた先の面白い現象だと思うのはフェチの台頭だ。
たとえば「畳にローファーフェチ」というものがある。これは、街中や学校の中でしか見かけない制服女子高校生をあえて和室に持ってきているという意外性と、「畳の上は土足厳禁」なのにローファーを履かせているというタブー意識に刺激を感じるフェチなようだ。
これはJK消費の氾濫が生んだものだろう。
制服少女の写真はすでにいっぱいある。性を強調した表現も山ほどある。エロゲーもいっぱいあるし女子校生のAVもあふれまくっている。しかし、そんな女子高生を畳部屋に立たせた写真や映像はほとんどない。処女であれギャルであれ、その風景自体がありえないものなのだ。
「畳にローファーフェチ」に特化したフェチビデオがすでにいくつかレーベルがあるというし、モデルの写真集やイメージビデオでもジワジワこうした表現を取り入れることが増えている。
これはある種の保守的な考え方でもあると思う。
JK消費文化は、JKビジネスの摘発が進んでいてもうすっかり睨まれている。仁藤さんのような専門家が国際社会に問題意識を発信したりもし、アメリカ国務省からもにらまれるようになっている。援助交際や、古くはブルセラなんかもそうやって摘発されたものだ。
しかし畳にローファーで上がらせるのは、どう考えてもそれだけでは違法行為ではない。しかも「日常離れした異性のさまを消費する」と言う根本的動機は満たせるのである。もし仮にこの畳にローファーフェチが何かのきっかけでブームになったとしても、マナー違反の表現だからAKBに被れまくったNHKは推奨できない。細かいことにはうるさい小姑気質が多いネット原住民たちも批判をするだろうし、住宅や公共空間から畳離れが進んだ今の日本では、そもそも普通に生活しているうえでこういう表現を観たくても観ることはないのである。「壁ドン」みたいに乱用して廃らされることはない。
歴史を紐解けば、常に性消費は子孫を残したいという生存欲求の前に「日常離れした異性のさまを消費する」ものなのである。
戦後時期は封建社会の名残で、「自由恋愛」すらまだ珍しく、ましてやキスなんてしようものなら破廉恥とされていた。だからこそ「青い山脈」は流行った。太陽族が湘南の海岸に集まった時代は女性の肉体の露出の多い「水着姿」がそもそも珍しかった。
そ降はセクシー表現をアラーキーとかがどんどん追求していった、で、バブルの何でもありの時代があり、平成のコギャルとか汚ギャルとかヤマンバがなんでもありの時代を経て、振り戻し的にアニメやアイドルの虚構の清純美少女を消費するブームがあった。AKBメンバーが恋愛スキャンダルを起こしたり、売れなかったらAVに行ったり、みんながみんなギャルっぽいルックスになるなどして結局は虚構のペラペラっぷりを自覚させられ、現実社会を見つけさせられると、再び日本は解放の時代から抑圧と閉塞感に回帰する傾向が起きている。
で、最終形態の性消費がフェチだった、ということである。