小樽の二人の青春
小林多喜二と伊藤整
小林多喜二と伊藤整の共通点は幼少期から青春まで小樽に住んでいたことである。多喜二は秋田の貧しい農家に生まれたが、明治40年父が小樽でパン屋として成功した兄を頼って移住してきた。多喜二は四歳であった。整も松前の白神で生まれ、父が分教場の教員になったので明治39年二歳のとき塩谷村(現在小樽市)に来た。多喜二は小学校を終えると、伯父のパン屋に住み込み学費の援助で商業学校に通った。整は塩谷から小樽中学校に汽車通学をした。二人出会いは整の小説に書かれている。
その後二人は小樽高等商業学校で学ぶが、多喜二が一年先輩であった。当時北海道帝国大学は理系の学部のみで、文系は小樽高商だけだった。高商は開学以来実践的な商業教育と外国語教育が徹底し、卒業生は実業界にとどまらず、様々な分野で活躍した。 これは多喜二にも整にもいえる。二人の青春時代は彼らの文学作品や周囲の証言から推察できるが、卒業後の生き方は文学上でも大きな違いがある。多喜二は北海道拓殖銀行にエリート行員として採用されるが、資本主義の矛盾に満ちた社会構造に気づき、労働者、農民の視点にたって多くの作品を発表し続ける。それが原因で銀行を解雇された。さらに上京しプロレタリア作家として活動するが、国家権力に抵抗する彼は警察の拷問により虐殺された。僅か三十歳であった。
一方整は市立中学校教諭から東京商科大学に進学するが、学業よりも詩、小説、評論で活躍し、何れの作品も注目された。また文壇のためにも色々と尽力した。晩年には日本芸術院会員となったが、昭和四十四年に六十四歳で亡くなった。現在小樽には二人の文学碑が建立されている。多喜二は彼が学んだ小樽高商に近い旭展望台に本郷新作の本を開いたデザインの文学碑である。整は生前文学碑はことわり続けたが、幼いころの友人たちの説得でようやく許した。病床で書いた「海の捨て児」の文学碑が塩谷の海を見下ろすゴロタの丘に建っている。(写真は小樽高商の商業実践の講座であるが、机上の名札でわかるが右前の眼鏡をかけた学生が伊藤整である。下の写真は左は伊藤整の文学碑、右は小林多喜二の文学碑)