舞鶴引き揚げ船、初入港から70年 記憶遺産登録に期待
終戦後に大陸などから日本兵や民間人を日本へ運んだ引き揚げ船の舞鶴初入港から7日で70年になる。最初に入港した「雲仙丸」で帰国した舞鶴市愛宕浜町の神原崙(たかし)さん(91)が当時を振り返り、舞鶴引揚記念館所蔵資料の記憶遺産登録への期待を語った。
終戦時、660万人以上の日本人が海外におり、国は舞鶴や博多、佐世保など10港を引き揚げ港に指定、帰国を急がせた。1950年から舞鶴港が唯一の引き揚げ港となり、58年までに約66万人を迎え入れた。
神原さんは舞鶴市出身。44年に陸軍特別操縦士(特攻隊)の見習士官となり、現在の北朝鮮にあった陸軍飛行場で終戦を迎えた。隊長の判断で「生き延びて日本再建のため、帰国を目指す」道を選び、38度線を越え、鉄道で釜山の港にたどり着いた。「38度線を越えるのが少しでも遅ければ、他の兵士のようにソ連の捕虜となり、シベリアに抑留されていた」と当時の切迫した状況を振り返る。
釜山からの出港前夜、地面の上で毛布をかぶって寝た。翌朝、日本兵と民間人約2100人と雲仙丸に乗り込み、玄界灘の大波に揺られて日本を目指したが、「内地は米国軍に占領。いよいよ捕虜になるのか」と不安は消えなかった。
故郷の舞鶴に入港、変わらない町並みを目の当たりにして「土に接吻(せっぷん)したいほどうれしかった」。雲仙丸が舞鶴への引き揚げ第1船だったが「国防婦人会」のたすきをかけた女性たちが出迎えてくれたという。
神原さんは全国の元抑留者らの尽力で88年に設立された舞鶴引揚記念館で、抑留と引き揚げ体験の「語り部」の団体代表として活動してきた。「いじめのような対立が戦争の芽になる。若い世代にこそ、抑留と引き揚げの原因、背景を知り、平和とは何かを考えてほしい」と話し、記憶遺産登録を心待ちにする。
【 2015年10月07日 09時00分 】