2015年10月07日

泥はかぶらない。


image/2015-07-16T053A443A20-1.jpg image/2015-09-25T043A383A25-1.jpg   



人とのコミュニケーションを大切にしない人がいる。
人生の全てに渡って。
それは、本当に悲しいことだ。
人の気持ちなどどうでもいいのだろう。
感じるセンサー(触覚)がない。
感じても、共感もなければ、優しさという対応もない。
私に言わせれば、そんな人は人間とは呼べない。
人間の感情に鈍感なエゴイスト、つまり、どうあれ自分勝手なお子ちゃまなのだ。

そんな人間関係を大切にしない人とのつながりは、こちらが自分を粗末にし、傷つけることになる。
泥をかぶることになる。
だから、明確に境界線を引かなくてはならない。
繊細な人はいつも泥をかぶり、鈍感な人はいつも泥をかぶせる。
その関係は、繊細な人の優しさ(犠牲)によって成り立っている。
だが、優しさがなければ、強さがなければ、愛がなければ泥はかぶれない。
それは、人を守り、フォローし、背負い、犠牲になり、命を捧げることだとも言えるのだ。
そして、泥をかぶるということは、必ずいつも「自ら迎えに行く」という行為に現れる…。



だが、エゴの殻を抱えている人は、泥をかぶれないし、かぶらない。
つまり、迎えに行けないし、行かない。
また、傲慢な人、自惚れてる人、虚栄の人、ずるい人、卑怯な人等もそうだ。
傷つくのを怖れる弱い人、臆病な人、劣等感のある人も同じだ。
そんな人たちは、悲しいけれど迎えには行けない、行かない人たちだ。
愛とは行動だ。
それは、間違いのない事実だ。

愛のない人は、人の足を引っ張り、人に責任をなすりつけ、人を悪者にしようとさえする。
自分の保身に生きているからだ。
人に嫉妬するからだ。
強さや優しさがないからだ。
愛に飢えているからだ。
迎えに来て欲しいのは、常に自分なのだ。
自分のことしか考えない、考えられない人…。
そんな人が、無償の愛(行動)に生きることなど、できるはずがない。
その人にできることは、人に嫉妬し、人を恨み、人を怖れ、人に怯え、自分を嫌い、幸せに抵抗することだけだ。



私とサラは、泥をかぶることは、互いにもうやめた人間だ。
でもそれを、今でも決してできないわけではない。
ただ今はもうしないだけだ。
私たちは、劣等感のある、傲慢な、臆病な、ずるい、卑怯な、愛のない人間ではない。
なぜなら、それをしない(しなかった)人間ではないからだ。
だから、愛のない人とは根本的に違う。
逆に、人並み以上に愛の深い、異常なくらい全てを抱え込む犠牲的な人間だ。
昔は、いつだって本当に人のために死ねるくらいだった。
実際に、互いに何度も死んでもいる。

同じ人間でも、皆それぞれ人生のレールは違うはずだ。
でも、私たち二人は、同じレールの上で出会った。
でも、互いにもうそのレールは降りた。
二人で一緒に降りたわけではない。
たまたま同じタイミングで、なぜだか互いに何かに降ろされた。
二人別々に降りた。
たまたま二人は、同じ時期に泥をかぶる人生をやめたということだ。
互いに、もうそれをやめると決めたとき(5年半前のことだ)、なぜだか私たち二人は出会った。
ただ、それだけのことだ。



もう決して泥はかぶらない二人。
泥はかぶらないというのが、出会ったときの私たち二人の共通の価値観であり、スタンスだった。
今は互いに、ただ自分自身を大切に生きている。
だから私たち二人は、相手に泥をかぶせるようなことは、これからも互いに決してしないと思っている…。



image/2015-07-19T053A243A37-1.jpg image/2015-07-16T053A443A20-2.jpg    



サラのブログ
http://blogsara.seesaa.net/



posted by John at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | I love サラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

一闡提 (いっせんだい)。


【 一闡提 】 (いっせんだい)とは。
梵語(ぼんご)の icchantika(イッチャンティカ)の音写であり、断善根(だんぜんこん)、信不具足(しんふぐそく)と訳す。
仏教用語であり、仏になる能力や素質をまったくもっていないものを指して言い、闡提とも言う。
(※ 梵語とは、古代インドの言語=サンスクリットのこと。仏教経典の原典の多くはこの言語で書かれており、日本では原典の原文を陀羅尼(だらに)とし、呪文として唱えた)



「 順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし。 一闡提人これなり。 (中略) 詮ずるところ上品(じょうぼん)の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄(むげんごく)に堕つべきゆへに現罰なし 」 ( 日蓮大聖人 「開目抄」より )

< 通 解 >
次の生に必ず地獄に堕ちると決まっている者は、今世で重罪を造っても現罰はない。
一闡提の者がこれである。
所詮、極悪の一闡提の者になってしまえば、次の生で必ず無間地獄(むげんじごく)に堕ちることになっているために現罰はない。

一闡提とは、誤った欲望や考えにとらわれて正しい教えを信じようとしない者、つまり仏法を求める心がかけらもない人のことを言う。
仏となる種(原因)を煎ってしまい、もはや成仏という芽の出る可能性のない者を指している。
一闡提は、もちろんそのままでは成仏することはなく、待っているのは無間地獄だ。



そして、日蓮大聖人は「念仏無間」(念仏は無間地獄の業因なり)と言っている。
「 念仏宗と申すは亡国の悪法なり、… 善導(ぜんどう)と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば(=一生懸命信仰すれば)自害の心出来(しゅったい=生まれること)し候ぞ 」と念仏宗を厳しく破折(はしゃく=否定)されている。
(※ 善導=浄土思想を確立した中国の僧 )

西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)ならぬ無間地獄…。 (爆)
阿弥陀経(あみだきょう)? 阿弥陀如来(あみだにょらい)?
念仏(=南無阿弥陀仏 : なむあみだぶつ)? 
ちゃんちゃらおかしい…。 (笑)
唱えたことあるのかな?
やめた方がいいよ、死にたくなるから。 (爆)

勿論、日本で念仏宗と言うと、浄土宗(開祖=法然)、浄土真宗(開祖=親鸞)のことを指す。
でも、これらの詳しい中身(意味・理由)は、もったいないから教えてあげない。 (笑)
勿論、自害とは自殺という意味だ。 (爆)



「地獄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
( 後半の「種別」のところに、地獄の最下層にある「無間地獄」(むげんじごく)についての簡単な説明がある )



posted by John at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 私のスピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

あなたは世界を変えない。


image/2015-09-25T043A383A25-8.jpg image/2015-09-07T233A553A59-9.jpg    
(写真と文章は関係ありません)


人に関わる必要などない。
自分は自分であり、人は人だからだ。
人の観念や世界を変えようとすることは無駄だ。
人は、自ら変わろうと思わない限り、変わらない。
だが、人は変わろうと思ったときには、黙っていても自ら変わる。


だから、感情移入はしないで、人のことには明確に境界線を引く。
人のことは、所詮人のことだ。
人を変えようとしても、抵抗される。
人の魂の選択を、変えることなどできない。
その人の魂には、今はそれが必要だということだ。
それに飽きたら、変わる準備ができたら、嫌でも勝手に変わるだろう。


私は人の心地よくない何かを、背負うつもりなどない。
人の責任は私の責任ではなく、人の面倒をみることは私の仕事ではない。
私は私であり、人は人だ。
私は、誰の責任も背負わない。
私は、痛み・苦しみを感じる事や心地よくないこと、つまり自分の望まないものには関わらない。


正義感が強ければいい、真面目で優しければいい、ということではない。 
昔の私はそうだったけれど。
今の私も、たいそう真面目で優しい奴ではあるが、でも今は人や世界を変えようとは思わない。
でも、それでも私は、自分の望むもの、心地良いものを全て手に入れることができる。
自分の望むものの実現には、人が何を選択していようと、全く関係ない。



「バシャールの言葉」 (下記動画より)

変わってほしいという要求と、やるせなさを手放せますか?
あなたは決して世界を変えません。



【 バシャール 動画 】 (崩壊する古い社会システム)
http://www.youtube.com/watch?v=zfBDFSE5puk



posted by John at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | バシャール動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月18日

パラレルな地球。


image/2015-09-22T043A173A21-10.jpg  


自分のヴァイヴレーション(波動)として望むものは何か。
望まないものは何か。
波動により体験される無限の世界。
自分が変わることで世界が変わる。
でもそれは、自分が世界を変えたわけではない。
単に、元々同時に存在していた、並行して存在する別の世界に、自分が移行しただけだ。
パラレル・アース(並行して存在する地球)、パラレル・ワールド(並行世界)、パラレル・リアリティ(並行現実)ということ…。


人との別れがある。
何らかの理由で、その人たちは自分の世界から出ていく。
本当にリアルに自分の前から姿を消していく。
時には、その人の死という形で。
時には、離婚等別れという形で。
全く理由もなく出会わなくなることもある。
何故だか気が合わなくなる、会おうと思わなくなるということもある。
そして、不思議なのは、何故だかその人が自分に近づかなくなるということだ。
そして、新たな人や環境・出来事との出会いがある。
「引き寄せ」と「引き離し」という波動の世界の不思議…。


今、心地良い環境に居るのならそれでいい。
心地悪い「もの・こと・人」が自分の周りにないのなら、それは素晴らしいことだ。
全てがシンクロニシィティだ。
自分の外側の世界は、ただ自分の内側(内面世界)をリアルに映し出している。
私たちは、外側の世界を通して、自分自身を知ることになる。
自分の波動を、自分の思考を、自分の信じている信念・観念を。
体験している自分自身だけが、いつも真実だ。
私は誰に遠慮することもなく、常に自分の心地よい世界を、徹底して完璧に、そして永遠に実現し体験していく…。


久しぶりにバシャールの動画を見てみようと思う。
でも、準備のできていない人には、全く価値はないだろう。
でも、あなたには価値があるはずだ。
サラ、今日は本当におめでとう。  



「 バシャール 動画 」 (今、地球人が体験していること。パラレルな地球とは?)
http://www.youtube.com/watch?v=QNaip71ZO5Y



posted by John at 05:45| Comment(0) | TrackBack(0) | バシャール動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月17日

波動と見える景色。


image/2015-09-07T233A553A59-8.jpg



神と、女神と、仏(ほとけ)…。
神は男性性、女神は女性性、そして仏はその中間のとてもバランスのいい存在。
神は、あまり干渉しない、少しだけ冷たい感じがする恐い裁判官みたいな存在。
女神は確かにい優しいけれど、ちょっと頼りないかな。
女神ではなく、神がやっぱり恐いね。
でも、仏には恐いイメージは全くない。
なぜなら、慈悲の存在だから。
人々を救っていくために、常に苦しみを抱えた人間の中に入っていく、そんなイメージだ。
とっても強くて、とっても慈悲に満ちあふれていて、本当に優しい。
神と女神の両方の愛を兼ね備えていながら、それよりもっと人間的で、そして行動的で、とても強く、主体的・能動的なイメージがある。


仏にも、時と場所によって種々ある。(釈尊=釈迦、天台大師、伝教大師、等など)
でも、人を救っていく姿(行動・振る舞い)では、私には日蓮大聖人が一番の尊敬する仏(人格者)だ。
「四箇の格言」で立宗宣言し、国には「立正安国論」を提出し当時の国家権力や邪宗教を批判し、「開目抄」等では仏教理論を完璧に体系的に述べ、その他沢山の信者にあてた無数のお手紙等では、本当にきめ細やかな激励・指導を徹底してされている。
それらの振る舞いは、たとえどんな局面でも(実際に何度も死に直面してるのに=「竜の口の法難」や「佐渡流罪」等)、いつも本当に確信と慈愛にあふれていて、全く驚くしかない。
私は、その日蓮大聖人の行動・振る舞い、そして慈愛という波動に、ずっと自分を合わせてきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%A0%BC%E8%A8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%AE%89%E5%9B%BD%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E3%83%8E%E5%8F%A3%E6%B3%95%E9%9B%A3


信仰の形態は、今はもう私は取り入れてはいないけれど、私の中には今も日蓮大聖人のお姿とその精神を含んでいる。
ただ今は、バシャールにも波動を合わせているし、エイブラハム、ウィリアム・レーネン、ジョセフ・マーフィー、ニール・ドナルド・ウォルシュ等、意識を向けている存在が沢山いる。
人を救う・自分を救うということについての考え方、その思考背景、スタンスも、昔と今の私では全く違う。
そして、今の私は、自分自身という存在を、何より一番信頼している。
でも、日蓮大聖人を初めとして、これら全ての人たち・存在の愛を学んできたし、今も感じ続けている。
全てが私の分身であり、過去世の私の姿やつながりのある存在とも言え、本当にありがたい…。


そして、サラは私のことを本当に信頼してくれている。
生意気な言い方だけど、私にとってサラは、本当に弟子のような存在だ。
彼女は、私の見つめている景色を、その都度完璧に私と同じように見たいらしい。
同じ景色を見るということ、見れるということ…。
それが波動というものだ。
サラは、悔しくても、私に頭を下げてでも、私にくらい着いて来る様な、本当に立派な弟子だ。
そんな風にして、サラは私から学んだ・受け取った波動による景色を、実際に沢山見て、沢山体験してきた。
そしてそれを、彼女は本当に喜び、楽しんでいる。
時には、本当に辛く、本当に苦しいときもあるけれどね。
だけど、素敵な景色はやっぱりいいものだから、やめられないよね。
いつもありがとう。



posted by John at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | I love サラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月16日

メモ。(思い出:日記)


 「 開目抄 」 (かいもくしょう)


権実相対。(ごんじつそうたい)

「此等の経経に二つの失(とが)あり、一には行布(ぎょうふ)を存するが故に仍(な)お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり」

これらの爾前経には二つの欠点がある。(法華経との違い)
一つには、十界のなかに行布(差別)を設けて、二乗・悪人・女人は成仏しないと説くゆえに、いまだ権を開せずといって、迹門の一念三千を隠している。
二つには、インドで生まれて成仏したという始成の仏が説くゆえに、なお未だ迹を発せずとて、久遠常住の生命観を隠している。
この二つの大法、すなわち「一念三千」と「久遠実成」は、法華経のみに説かれた大法であるがゆえに、一代仏教の綱骨であり、一切経の心髄である。



本迹相対。(ほんじゃくそうたい)

「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱(まぬか)れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり」

(法華経)迹門方便品は、一念三千の法理を諸法実相に約して説き、また二乗作仏も説いて、爾前経の二種の欠点のうちの一つを脱れた。
しかしながら、未だ迹門では仏の本地を顕していないがゆえに、本有常住の生命観を説き明かしていない。
すなわち発迹顕本していないから生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住・十界互具の生命観が示されていないから、仏の生命も九界の生命もその実体は不明のままだ。
したがって、二乗作仏も不定である。
このような実体のないものは、水面に浮かぶ月影のようなものであり、根無し草が波の上に浮かんでいるようなものである。



上記は、日蓮大聖人の 「開目抄」 の中に説かれた 宗教批判(比較)の原理(=ものさし)たる ≪五重相対≫ についての一部。

1. 「内外相対」 (内道と外道の優劣。つまり、全ての因果(原因と結果)を自分の内側に求める仏教とそれ以外の宗教の優劣)

2. 「大小相対」 (仏教のうち、大乗教と小乗教の優劣)

3. 「権実相対」 (大乗教のうち、権教(ごんきょう)と実教の優劣。つまり、五時八教に分類される釈迦の一代聖教(釈迦が一生に説いた全ての教え)のうち、権教(=仮り・たとえの教え)たる(爾前経:にぜんきょう=法華経以前の教え)と実教たる法華経の優劣)

4. 「本迹相対」 (法華経全8巻(かん=巻物)28品(ぽん)のうち、迹門(しゃくもん)14品(ぽん)と本門(ほんもん)14品の優劣。つまり法華経の前半14章と後半14章の優劣) 

5. 「種脱相対」 (下種仏法(げしゅぶっぽう)と脱益仏法(だっちゃくぶっぽう)の違い。下種益(げしゅえき)・熟益(じゅくえき)・脱益について。つまり、衆生の機根(きこん=仏の教えを聞いて修行し得る人々の能力、また仏の教えを理解する能力)の違い)



横道にそれたなあ。
まあ、たまにはいいか。
でも、後戻りするつもりではありません。 



posted by John at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 私のスピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

仏(ほとけ)と向き合うということ。


image/2015-09-05T093A323A35-2.jpg image/2015-09-06T053A363A10-1.jpg 



今日は少しだけ難しいことを書く。
頭が狂ったと思われるかもしれないが、全くそんなことはない。
とても大切な内容だ。
私の節目月間(9月)につき、たまにはこうやって少々難しい話にもお付き合いいただこう。
全て、何年か前までの過去の私の話ですが…。



さて、信仰の対象には本尊(ほんぞん)がある。
本尊とは、根本的に尊敬する(根本尊敬)という意味だ。
宗教・宗派によって全く異なるが、仏教界では仏像や掛け軸のような曼荼羅(まんだら)を本尊としていることが多いと思う。
でも、その仏像や曼荼羅に描かれる図柄も、〇〇菩薩(ぼさつ)だったり、〇〇如来(にょらい)だったり、お経の題目(だいもく=題名・タイトル)だったりと、仏様にも種々あるが…。
でも、今日は深い話はなしだ。

私も字でお経の題目等が書かれた本尊を、自宅の仏間(ぶつま)の仏壇にご安置して、南無(なむ=帰命・きみょう=合掌し命を捧げていくこと)をしていた。
仏(ほとけ=この世の全ての人々を救う存在=神とも宇宙とも生命とも言える。ちなみに、亡くなった人のことを仏様と呼んだりすることもあるが、それはあくまで慣習であって、仏教の教義の上からは本来誤りだ)に自分を合致させていくのだ。
その本尊に向かう姿(一念)が、とても大切だ。
でもみな、なかなか何かを尊敬することができない。
尊敬する存在というものがない。
仏は、主師親の三徳(しゅししんのさんとく)といい、3つの性質を兼ね備えていると言われる。
主人であり、師匠であり、親としての徳質だ。
仏は、その3つの徳質をもって衆生(しゅじょう=世の人々)を救うと言われる。



でもなかなかみな、仏や神といってもイメージを持てない。
いや、尊敬する人のイメージすら持てない。
でも私は、優しく厳しい父であり母であり、師匠や主人(偉い大将や社長でもいい)のイメージがすぐにつかめる。
私を導いてくれる存在の人格を、種々イメージできる。
自分の親には大して立派なイメージはないのだが(笑)、自分の中には自分の理想としての優しくも厳しい父や母、立派な師匠や主人という顔があるのだ。
そして私は、その自分のイメージする仏に、正直に、ざっくばらんに向き合ってきた。
仏は慈悲(じひ=衆生の苦しみを慈しみ悲しむ広大無辺の慈愛)ある存在なのだから、私のことを見捨てるわけはなく、たとえ出来の悪い私でも大慈大悲(だいじだいひ)を持って救って下さるはずだ。
愛想をつかせて私を見捨てるのであれば、それでは仏とは言えないと私は思っている。
仏は、常に信じられないほどの深い、完璧に優しい慈愛を持っていてくれなくては困るのだ。(笑)

だから、私は毎朝毎晩、休みの日には本当に一日中、ただ一人で仏間(ぶつま=本尊をご安置してる部屋)に閉じこもり、正座して本尊に手を合わせ、「法華経の題目」(ほけきょうのだいもく=早い話がお経)を唱えながら仏(様)と対話をしていた。
まあ、私の趣味だね。
暇があれば、一日中何時間でも…。
まあ正座しているので、足もシビれ痛くもなるが、私的には1セットは軽く1時間なのだが、2〜3セットは唱えないと気がすまないというか、気が晴れないんだ。
まあ、都合がつくなら、いつも4〜5時間位はしたい。
まあ、声を出して唱えているから、それだけやったら大抵はお腹が減って疲れてきて限界なんだけど、食事して少し休んだらまた始めるんだ。(笑)
だから、家族は大変なんだ。
私の趣味がそんな風にクレイジーだからね。(笑)
子供たちに言わせたら、「お父さんはいつも仏間でお経を唱えてます…」って感じさ。(笑)
本当に、全く坊さんだからね。
在家(出家に対して言う言葉)の僧侶、いや本当に僧侶以上なんだよ。



私は、本当に一日中題目(お経)を唱えるのがクセみたいになってしまっていて、声に出せなくても心の中では一日中唱えているんだよ。
電車の中でも、トイレの中でも、風呂に入っていても、歯を磨いていても。
一人の時は車の運転をしながらでも大きな声を出して唱えている。
本当に気持ちがいいし、楽しいんだよ。
まあ早い話がキチガイなんだ。(笑)
でもそうやっていつも仏(様)と対話していたのさ。
「これでいいですか?」、「どうしたらいいですか?」、「助けて下さい!」、「精一杯頑張ります」、「ありがとうございます」等などと…。

そうやって27年間やってきたんだ。
ただひたすら、仏という高貴な存在を自分でイメージしてね。
つまり、自分のイメージする仏が、本当に偉大で立派で優しい方だったから、今の私が存在してるんだ。
私は、自分のイメージする仏(様)によって創られたのさ。
つまり、私は私が創ったんだよ。
一生懸命、地道に珠を磨くようにして丁寧にやってきた。
そうやって、大切に自分を育てたのさ。



image/2015-08-04T083A313A05-1.jpg image/2015-08-31T163A513A29-5.jpg



そして、その作業が完璧に終わったから、もうお経を唱えるのをやめた、つまり信仰を捨てたのさ。
27年でね。
27年を節目にしたいと、その何年か前に無意識に決めていたんだと思う。
だって、宗祖(開祖=鎌倉時代にその宗教を開いた人)が、自分は27年で出生の本懐を遂げた(生まれてきたその意味の仕事を成し遂げた)と言っていたからね。
でも私は、27年でその信仰を捨てたというわけだ。(笑)
数珠(じゅず)も経典も、本尊も、仏壇も、もう必要ないところにたどり着き、全てのケジメをつけたんだよ。

でも、私は間違いなくその信仰のお陰で生きてこれたんだ。
その信仰がなかったら、自分が生きてこれた自信は全くない。
そんなに強い人間ではなかったから。
健康でもなかったし。
その信仰に対する思いや、私が師匠としていた実在した先生(もう亡くなっているけれど)のことを思うと、胸が熱くなり、サラにも話したけれど泣けて泣けて仕方がなかったんだ。
でも、サラはそんな私の一途な気持ちが分かる人なんだ。
自身もそうやって、ある会のために20年間心血を注いできていたからね。



そうやって私は自分の信じる、イメージする人格としての仏に向き合って、尊敬して、南無(なむ=帰命・きみょう=命を捧げること)をしてきたから、他の人たちがそんな鏡にどうやって向き合うのかということが、すぐに分かるんだよ。
これはもう、直感というしかないね。
私の特技です。(笑)
人の本質、傾向が手に取るように分かるんだ…。
尊敬する人や対象を持てない人、持とうと思わない人は、本尊を見つめることさえできない。
私と向き合うその人の姿勢・瞳で、私はその人の仏(自分自身)との向き合い方が分かるのさ。
つまり私は、本当に仏になってしまったんだよ。(笑)
私は、みんなの鏡になれるのです。

私と向き合えない人は、自分に向き合えないということだ。
私を怖いと思う人は、仏を怖いと思い、その慈愛を信じられないということだ。
その点サラは、本当に伸び伸びしたもんだ。(笑)
叱られたら反省すればいいと思っているし、自分でどうしようもないことは怒られようが仕方がないと思っている。(笑)
でも、自分のことを本当に大切にしているし、人にも本当に親身に優しい。
私の中の仏様は、素直な無邪気な、それでいて真面目な優しいサラには、不信感なくOK(合格)を出すんだ。
「それでいいよ」、とね…。



私は何も冷酷な人間ではないよ。
ただ、主師親の3徳があるし、たまには本当に厳格な父だったりもするけれど、本当に優しい母だったり、きちんと正しく道を導く師匠だったりもするのさ。
まして私は、生身の人間であって、決して神様ではないからね。
でも、仏より神の方が厳格なイメージだね。
ていうか、神はイメージがわかないというか、どうしても人間とは見れないところがあるね。

でも、別にみな神や仏になろうと思っているわけではないからね。
でも、目指すべき人格、自分の成長の先を見つめないということは、成長するつもりがないということだ。
それは、自分と向き合えない、向き合わないということでもあり、もしかしたらそれは自分に対して不信感を抱いているということなのかもしれない。
自分を恐れている、もしくは嫌悪し、否定しているのかもしれない。
「臆病、もの覚えず」(臆病者は、ものを学ぶことができない=成長できない)と言うけれど、まさしくその通りだ…。



さて、私の節目月間(9月)…。(笑)
湧いてきた仏智(ぶっち=仏の智慧)を、ただ殴り書きしてしまいました。
私は一体、何を書きたかったのでしょうか?(笑)
まったくよく分かりませんね…。
相変わらず、初めから終わりまで生意気なところが、私の私たる所以(ゆえん)でしょうか。(笑)
最後までお付き合いいただいた方は、ありがとう。
感謝します。
では、また。



posted by John at 05:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 私のスピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

9月4日。


image/2015-09-22T043A173A38-1.jpg



32年前の今日、私はある信仰の世界に入った。
19才の時だ。
勿論、自分の意志で入った。
そういう訳で、9月は私にとって、一年の中でとても思い入れのある月だ。
毎年9月になると、何かが変わるような、変えなければならないような、そんな気持ちになり、ある意味一年の大きな節目になっている。
もうその信仰は、してはいないのだが。


いつも人のことを祈っていた。
それが、私の信仰だったし、修行だった。
毎日毎日、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、何時間も祈り続けた。
でも、今はもう人のことなど祈らない。
人のことなどどうでもいい。
全ての人には、全てのバージョンがあるからだ。
その人のどのバージョンを引き出すか (出会うか、つながるか、関わるか) は、いつだって私次第なのだ。
それは、私の思考とエネルギー(波動)、つまり私の引き寄せ次第だ。


何十年必死で祈ろうと、自分の思考とエネルギー(波動)を変えずに、自分の世界を変えることなどできない。
外側に現れているのは、全てが私個人の世界だ。
それがよく分かった。
何十年もかかって。
そして、私には儀礼(信仰の形式)は必要なくなった。
形式でもなく、必死さでもなく、ただリラックスした確信ある軽いタッチ(感覚)だけが必要だ。
そして、常に今の自分の波動を特定することが必要だ。


9月が来ると、心が静かに清らかになるとともに、少しだけセンチになる自分がいる。 
(それを手放してから、既にもう何年かが経っているのに…)
それだけ、命を懸けてきた喪失感が大きかった。
でも、それがまた、新たな決意につながって心地よい。
今は更に、全くの丸腰、丸裸ではあるが、より自然体の完璧な強さがある。
それは逆に言うと、何にも縛られない完全な自由をようやく手にしたとも言える。
今は、信仰に限らず、失うものはもう何もない。



posted by John at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 私のスピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

フォトアルバム。2015年8月。


image/2015-08-31T163A533A07-7.jpg image/2015-08-31T163A533A07-1.jpg image/2015-08-31T163A513A29-9.jpg image/2015-08-31T163A513A29-1.jpg

image/2015-08-31T163A513A29-6.jpg image/2015-08-31T163A533A07-8.jpg image/2015-08-31T163A533A07-6.jpg image/2015-08-31T163A513A29-10.jpg   

image/2015-08-31T163A513A29-7.jpg image/2015-08-31T163A513A29-8.jpg  

いただいたお庭で採れた新鮮な野菜とスイカ。
いつもあたたかい真心をありがとう。 晴れ



posted by John at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | フォトアルバム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

フォトアルバム。2015年8月


image/2015-08-04T083A313A05-1.jpg image/2015-08-04T083A313A05-8.jpg image/2015-08-04T083A343A57-5.jpg image/2015-08-04T083A313A05-7.jpg 

   

posted by John at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | フォトアルバム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

「 IN MY LIFE 」 (終わりは始まり)


image/2015-08-12T033A513A10-3.jpg image/2015-08-12T033A513A10-2.jpg


お店でサラと一緒に写真を撮ったのは、これら3枚の写真が最初で最後です。
(記事の最後にもう1枚あります)
お店を閉めることを伝えると、親しいお客様がカメラを持ってきてくれたのです。
それで、お店で初めてサラと一緒に写真を撮ることになりました。

私もそうですが、お店の思い出は、サラも全て心に美しく刻んでくれました。
全てが私たちの貴重な宝物になっています。
でも、過去は過去であり、やはりこの曲の歌詞の通りです。
全ての過去は人生の1ページに過ぎず、終わりはいつも必ず始まりなのです。


でも私は、お店をやって本当に良かったと思っています。
その幸せは、今も続いていますからね。
それも、やはりこの曲の歌詞の通りです。
この歌は、私がサラに捧げる歌です。
本当にありがとう。

私の願いは、きちんと叶いましたよ。
映画 「 Field of Dreams 」(フィールド・オブ・ドリームス)の通りでした。
「 if you build it , he(she) will come. 」
(それを作れば、彼(彼女)はやって来る…)
お店を作ったら、本当に大切な人(サラ)がやって来たのですから。



さて、店名の「 IN MY LIFE 」は、THE BEATLES (ザ・ビートルズ)の曲名と同じでもあり、それは1965年12月発売の6thアルバム「 RUBBER SOUL 」(ラバー・ソウル)に収録されています。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共作で、リード・ヴォーカルはジョンです。

でも、今日 UP したのはオリジナルではなく、オーストリアの双子姉妹の素敵なカバーバージョンです。
(ビートルズのオリジナル音源は、YouTubeではすぐに削除されてしまいますからね)
ビートルズのメンバーの故郷(イギリスの港町 : リヴァプール)のゆかりの風景をバックに、モナとリサの二人が歌っています。



「 IN MY LIFE 」 by  monalisa twins  (モナリサツインズ)
https://www.youtube.com/watch?v=aJfEte7knzY


【 IN MY LIFE 】 (歌詞)

There are places I remember
All my life though some have changed
Some forever not for better
Some have gone and some remain

心に刻まれたいくつかの場所がある
たとえ姿を変えても決して忘れない
良くも悪くも永遠に変わらない場所
今はもうない場所 昔のままに残る場所

All these places have their moments
With lovers and friends I still can recall
Some are dead and some are living
In my life I've loved them all

かつて そうしたいろんな場所で
恋人や友達といっしょに時を過ごした
今は亡き人 元気でいる人
みんな僕が愛した人たちだ

But of all these friends and lovers
There is no one compares with you
And these memories lose their meaning
When I think of love as something new

だけど 今までのどんな友達も恋人も
君にはかないやしない
君との新しい愛のことを思えば
昔の思い出はみな色あせてしまう

※ 
Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more

僕に関わった人々や僕に起こった出来事を
懐かしむ気持ちはいつまでも変わらない
ときおり思い出しては追憶に耽(ふけ)ることだろう
でも今は 誰より君を愛しているよ

※ repeat


image/2015-08-12T033A513A10-1.jpg

いつもいつも、大変にお世話になりました。
本当にありがとう!
二人より、感謝を込めて…。


サラのブログ。
http://blogsara.seesaa.net/


おまけ。
とても素敵で、なかなか格好もいいので、思わずおまけして UP してしまいました…。
でも、この彼女のことは、私は全く何も知りません。 (ご免なさい)
https://www.youtube.com/watch?v=WVgySLzh8qA



posted by John at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | IN MY LIFE | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

私のフィールド・オブ・ドリームス。


image/2015-08-19T033A423A10-1.jpg image/2015-08-19T033A493A12-1.jpg image/2015-08-19T033A493A12-4.jpg image/2015-08-19T033A423A10-2.jpg  


左から、自分で記念に撮った開業当時(7年半前)の自撮り写真(笑)と、その年の店の外回り(1階入口)の写真です。(秋・冬) (映っている車は、関係ありません)
最後は、丁度サラが登場した頃(開業して2年が過ぎた頃)の写真ですかね。
服装は、訳あってある時点までは、ずっとYシャツとスラックスでした。
その訳(私のポリシー)については、後日うまく話せたらいいなと思っています。
その辺は、また改めて…。


さて、「 if you build it , he will come. 」
(それを作れば、彼はやって来る…)
自分の農場(トウモロコシ畑の中)で聞こえた不思議な声。
主人公(レイ・キンセラ)は、その不思議な声に導かれるようにして、収穫前のトウモロコシを全て刈り倒し、そこに野球場を作りました。
そして、やがてその野球場に不思議なことが起こり始めます…。


これは、1989年公開のケヴィン・コスナー主演の映画 「 Field of Dreams 」(フィールド・オブ・ドリームス)のお話です。
この映画は、何か新しいことを始める時には、刺激(夢)を感じさせてくれるとても素敵な映画です。
原作は、W.P.キンセラの「シューレス・ジョー」(裸足のジョー)です。
(シューレス・ジョーとは、かつてアメリカメジャーリーグにいた外野手=ジョセフ・ジェファーソン・ジャクソンの異名です。1919年のワールド・シーリズで、シカゴホワイトソックスの主力選手が八百長試合の嫌疑をかけられ、9人中8人が球界を永久追放されてしまいました。この中にシューレス・ジョーがいました。彼はある試合でホームランを打ってダイヤモンドを走っているとき、片方の靴が脱げてしまうというアクシデントにみまわれましたが、彼は全く意に介せず、素足のまま全力疾走でベースを走りぬけました。その一途さに人々は彼をシューレスジョーと呼んだのです。そんな彼の悲運な永久追放劇でしたが、彼は何の弁解もせずに静かに球界を去っていきました。真相は藪の中でしたが、当時の野球少年たちには、とてもショッキングな出来事として心に残りました。ちなみに、この映画の主人公(レイ)の父(ジョン)の憧れの的(ヒーロー)だったそのシューレス・ジョーは、1957年に他界しています…)


私は、この映画に導かれるようにして、お店を始めました。
でも、私もこの映画のようにたとえ誰にどう笑われようと、馬鹿にされようと、きちんと自分の描いた通りの結果を実現したし、引き寄せましたよ。
直感を信じ、恐れなく自分の信念に従って生きるとき、初めて真実の自分の人生が現実のものとして現れるのです。
そんな私の世界(生き方)を理解できなかった人たちは、初めから私とは縁がなかったということですね。
私のことを本当には愛していない、故に私の真実は全く見えていない、見るつもりもない、つまり私とは初めから全く波動が違ったということです。


私は、恐れではなく、完璧にスピリチュアルな人生の実現に、全てを賭けていました。
既にそういう準備が整っていたということです。
いや、本当は表面的にはそうするしかなくて、やむを得ず導かれた恐ろしい道(入口)だったのですが、私はその道をきちんと輝けるものにしていきましたよ。
水商売という道を歩み始めると、私から離れていった、縁が切れてしまった人たちが本当に沢山いました。
でも、それも波動の法則(引き寄せ・引き離しの法則)というものですね。
現実は、本当にリアルで露骨なものです。
でもそれは、私が自分の波動を上げて、自分の人生を急速に変革していったからこそです。
私は、私の人生の全てを、無限に切り拓いていきました。
恐れに直面しつつも、真実の自分の道に生きれたことは、私のかけがえのない誇りです。
そして、私が真実の自分に生き切ったからこそ、その私の波動を感じて現われてくれた人々(本当の私を心から愛してくれる人々)との、とても奇跡的な出会いがありました。


本当の私とつながる人こそが、私の本来の周波数にいるシンクロした真の友です。
私のフィールド・オブ・ドリームス(夢のフィールド、願いの叶う場所)には、きちんとサラがやって来てくれましたよ。
それは、私の人生の全てを変えるほどの、本当に素敵な驚くべき出会いでした。
誰が私のことを本当に愛してくれていて、誰が私のことを本当には愛してくれていないのかとうことが、サラを鏡として、私には全てがリアルに見えるようになりましたからね。
サラは、そんな不思議な力を持った存在でした。(です)
私が踏ん張って店で自己肯定をし続けた結果、サラは私の分身として、全てを私に伝えに来てくれました。
トウモロコシ畑で聞こえた不思議な声は、私にとっては実はサラの声であり、それは実は自分自身の声だったのです。
本当にありがたいことです。


私とサラにだけに見えていた世界が、そこ(私の店、フィールド)には確かにありました。
でも、私とサラには見えていても、残念ながらそれが全く見えない人たちも、やはり沢山いたのです。
それが波動の世界だし、それは「意識」という、ある次元の話です。
でも、いつしか私とサラの見つめている世界に連なる人たち、何故だかそれがきちんと見えている友たちに、私たち二人はきちんと囲まれていましたよ。
先日サラは、そんな大切な友たちを訪ねるために、朝早くから幾つかの菓子折りを抱えて、電車に乗って出かけて行きました。
そして、やはり時は存在していないこと、全てが今の自分(波動)とともに存在していることを、私に感じさせてくれました。
また、新たなステージ(楽しい日々)が始まりそうな予感です。
私とサラにつながっている世界は、時を超えてずっと私たちとともにありました。
やっとタイミングが来たようですね。
やっと、準備が整ったのです。
本当にありがとう。



映画 「 Field of Dreams 」 予告編。 
https://www.youtube.com/watch?v=yjsd2QmccC8

映画 「 Field of Dreams 」 について。
http://www.eonet.ne.jp/~koutaro/field/ray.htm

主人公(レイ)の妻アニーについて。
http://www.eonet.ne.jp/~koutaro/field/annie.htm
(彼女のでしゃばらない空気感、そして天然の明るいキャラクターは、私の愛しいサラそのものです。 尚、サイト末尾の 「トップにもどる」 アイコンで他のコンテンツも見れます。 この映画を隅々まで詳しく知るには、貴重な情報が豊富に詰まっています…)



image/2015-08-19T033A493A12-10.jpg image/2015-08-19T033A493A12-5.jpg image/2015-08-19T033A493A12-6.jpg image/2015-08-19T033A493A12-3.jpg 

暑い夏も、寒い冬も、昼も夜も。
何かを信じて、ただ一人、ずっと孤独に頑張っていましたね…。 (笑)



posted by John at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | IN MY LIFE | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月04日

SWEET MEMORIES. (3)


image/2015-08-01T143A423A02-1.jpg image/2015-08-02T053A353A59-5.jpg image/2015-08-01T143A423A02-4.jpg image/2015-08-01T143A423A02-7.jpg   

image/2015-08-01T143A493A29-1.jpg image/2015-08-02T053A353A59-4.jpg image/2015-08-02T053A353A59-3.jpg image/2015-08-01T143A423A02-3.jpg         



2015年08月03日

MEMORIES (SARA). (4)


image/2015-07-22T053A133A45-3.jpg image/2015-07-23T053A093A56-9.jpg image/2015-07-22T053A133A45-5.jpg image/2015-08-04T083A293A54-2.jpg   

image/2014-12-28T11:12:49-10.jpg image/2015-07-23T053A093A56-6.jpg image/2015-07-22T053A133A45-2.jpg image/2015-08-04T083A293A54-3.jpg   
 


MEMORIES (SARA). (1)


image/2015-07-22T053A133A45-1.jpg image/2015-08-03T043A323A09-7.jpg image/2015-08-03T163A053A48-6.jpg image/2015-08-03T043A323A09-6.jpg     

image/2015-08-03T043A323A09-1.jpg image/2015-08-03T043A323A09-10.jpg image/2015-07-23T053A093A56-8.jpg image/2015-08-03T163A053A48-7.jpg