今日は少しだけ難しいことを書く。
頭が狂ったと思われるかもしれないが、全くそんなことはない。
とても大切な内容だ。
私の節目月間(9月)につき、たまにはこうやって少々難しい話にもお付き合いいただこう。
全て、何年か前までの過去の私の話ですが…。
さて、信仰の対象には本尊(ほんぞん)がある。
本尊とは、根本的に尊敬する(根本尊敬)という意味だ。
宗教・宗派によって全く異なるが、仏教界では仏像や掛け軸のような曼荼羅(まんだら)を本尊としていることが多いと思う。
でも、その仏像や曼荼羅に描かれる図柄も、〇〇菩薩(ぼさつ)だったり、〇〇如来(にょらい)だったり、お経の題目(だいもく=題名・タイトル)だったりと、仏様にも種々あるが…。
でも、今日は深い話はなしだ。
私も字でお経の題目等が書かれた本尊を、自宅の仏間(ぶつま)の仏壇にご安置して、南無(なむ=帰命・きみょう=合掌し命を捧げていくこと)をしていた。
仏(ほとけ=この世の全ての人々を救う存在=神とも宇宙とも生命とも言える。ちなみに、亡くなった人のことを仏様と呼んだりすることもあるが、それはあくまで慣習であって、仏教の教義の上からは本来誤りだ)に自分を合致させていくのだ。
その本尊に向かう姿(一念)が、とても大切だ。
でもみな、なかなか何かを尊敬することができない。
尊敬する存在というものがない。
仏は、主師親の三徳(しゅししんのさんとく)といい、3つの性質を兼ね備えていると言われる。
主人であり、師匠であり、親としての徳質だ。
仏は、その3つの徳質をもって衆生(しゅじょう=世の人々)を救うと言われる。
でもなかなかみな、仏や神といってもイメージを持てない。
いや、尊敬する人のイメージすら持てない。
でも私は、優しく厳しい父であり母であり、師匠や主人(偉い大将や社長でもいい)のイメージがすぐにつかめる。
私を導いてくれる存在の人格を、種々イメージできる。
自分の親には大して立派なイメージはないのだが(笑)、自分の中には自分の理想としての優しくも厳しい父や母、立派な師匠や主人という顔があるのだ。
そして私は、その自分のイメージする仏に、正直に、ざっくばらんに向き合ってきた。
仏は慈悲(じひ=衆生の苦しみを慈しみ悲しむ広大無辺の慈愛)ある存在なのだから、私のことを見捨てるわけはなく、たとえ出来の悪い私でも大慈大悲(だいじだいひ)を持って救って下さるはずだ。
愛想をつかせて私を見捨てるのであれば、それでは仏とは言えないと私は思っている。
仏は、常に信じられないほどの深い、完璧に優しい慈愛を持っていてくれなくては困るのだ。(笑)
だから、私は毎朝毎晩、休みの日には本当に一日中、ただ一人で仏間(ぶつま=本尊をご安置してる部屋)に閉じこもり、正座して本尊に手を合わせ、「法華経の題目」(ほけきょうのだいもく=早い話がお経)を唱えながら仏(様)と対話をしていた。
まあ、私の趣味だね。
暇があれば、一日中何時間でも…。
まあ正座しているので、足もシビれ痛くもなるが、私的には1セットは軽く1時間なのだが、2〜3セットは唱えないと気がすまないというか、気が晴れないんだ。
まあ、都合がつくなら、いつも4〜5時間位はしたい。
まあ、声を出して唱えているから、それだけやったら大抵はお腹が減って疲れてきて限界なんだけど、食事して少し休んだらまた始めるんだ。(笑)
だから、家族は大変なんだ。
私の趣味がそんな風にクレイジーだからね。(笑)
子供たちに言わせたら、「お父さんはいつも仏間でお経を唱えてます…」って感じさ。(笑)
本当に、全く坊さんだからね。
在家(出家に対して言う言葉)の僧侶、いや本当に僧侶以上なんだよ。
私は、本当に一日中題目(お経)を唱えるのがクセみたいになってしまっていて、声に出せなくても心の中では一日中唱えているんだよ。
電車の中でも、トイレの中でも、風呂に入っていても、歯を磨いていても。
一人の時は車の運転をしながらでも大きな声を出して唱えている。
本当に気持ちがいいし、楽しいんだよ。
まあ早い話がキチガイなんだ。(笑)
でもそうやっていつも仏(様)と対話していたのさ。
「これでいいですか?」、「どうしたらいいですか?」、「助けて下さい!」、「精一杯頑張ります」、「ありがとうございます」等などと…。
そうやって27年間やってきたんだ。
ただひたすら、仏という高貴な存在を自分でイメージしてね。
つまり、自分のイメージする仏が、本当に偉大で立派で優しい方だったから、今の私が存在してるんだ。
私は、自分のイメージする仏(様)によって創られたのさ。
つまり、私は私が創ったんだよ。
一生懸命、地道に珠を磨くようにして丁寧にやってきた。
そうやって、大切に自分を育てたのさ。

そして、その作業が完璧に終わったから、もうお経を唱えるのをやめた、つまり信仰を捨てたのさ。
27年でね。
27年を節目にしたいと、その何年か前に無意識に決めていたんだと思う。
だって、宗祖(開祖=鎌倉時代にその宗教を開いた人)が、自分は27年で出生の本懐を遂げた(生まれてきたその意味の仕事を成し遂げた)と言っていたからね。
でも私は、27年でその信仰を捨てたというわけだ。(笑)
数珠(じゅず)も経典も、本尊も、仏壇も、もう必要ないところにたどり着き、全てのケジメをつけたんだよ。
でも、私は間違いなくその信仰のお陰で生きてこれたんだ。
その信仰がなかったら、自分が生きてこれた自信は全くない。
そんなに強い人間ではなかったから。
健康でもなかったし。
その信仰に対する思いや、私が師匠としていた実在した先生(もう亡くなっているけれど)のことを思うと、胸が熱くなり、サラにも話したけれど泣けて泣けて仕方がなかったんだ。
でも、サラはそんな私の一途な気持ちが分かる人なんだ。
自身もそうやって、ある会のために20年間心血を注いできていたからね。
そうやって私は自分の信じる、イメージする人格としての仏に向き合って、尊敬して、南無(なむ=帰命・きみょう=命を捧げること)をしてきたから、他の人たちがそんな鏡にどうやって向き合うのかということが、すぐに分かるんだよ。
これはもう、直感というしかないね。
私の特技です。(笑)
人の本質、傾向が手に取るように分かるんだ…。
尊敬する人や対象を持てない人、持とうと思わない人は、本尊を見つめることさえできない。
私と向き合うその人の姿勢・瞳で、私はその人の仏(自分自身)との向き合い方が分かるのさ。
つまり私は、本当に仏になってしまったんだよ。(笑)
私は、みんなの鏡になれるのです。
私と向き合えない人は、自分に向き合えないということだ。
私を怖いと思う人は、仏を怖いと思い、その慈愛を信じられないということだ。
その点サラは、本当に伸び伸びしたもんだ。(笑)
叱られたら反省すればいいと思っているし、自分でどうしようもないことは怒られようが仕方がないと思っている。(笑)
でも、自分のことを本当に大切にしているし、人にも本当に親身に優しい。
私の中の仏様は、素直な無邪気な、それでいて真面目な優しいサラには、不信感なくOK(合格)を出すんだ。
「それでいいよ」、とね…。
私は何も冷酷な人間ではないよ。
ただ、主師親の3徳があるし、たまには本当に厳格な父だったりもするけれど、本当に優しい母だったり、きちんと正しく道を導く師匠だったりもするのさ。
まして私は、生身の人間であって、決して神様ではないからね。
でも、仏より神の方が厳格なイメージだね。
ていうか、神はイメージがわかないというか、どうしても人間とは見れないところがあるね。
でも、別にみな神や仏になろうと思っているわけではないからね。
でも、目指すべき人格、自分の成長の先を見つめないということは、成長するつもりがないということだ。
それは、自分と向き合えない、向き合わないということでもあり、もしかしたらそれは自分に対して不信感を抱いているということなのかもしれない。
自分を恐れている、もしくは嫌悪し、否定しているのかもしれない。
「臆病、もの覚えず」(臆病者は、ものを学ぶことができない=成長できない)と言うけれど、まさしくその通りだ…。
さて、私の節目月間(9月)…。(笑)
湧いてきた仏智(ぶっち=仏の智慧)を、ただ殴り書きしてしまいました。
私は一体、何を書きたかったのでしょうか?(笑)
まったくよく分かりませんね…。
相変わらず、初めから終わりまで生意気なところが、私の私たる所以(ゆえん)でしょうか。(笑)
最後までお付き合いいただいた方は、ありがとう。
感謝します。
では、また。