日本は西欧をまねるのではなく、独自の追撃戦略を練った。日本の得意分野は、物理分野の中でも「紙と鉛筆」さえあればいいと言われる理論物理や素粒子物理だ。1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞(物理学賞)した湯川秀樹(1907-81年)も素粒子物理理論を研究した。
日本特有の職人気質(かたぎ)も一役買っている。昨年、青色発光ダイオード(LED)の発明でノーベル物理学賞を共同受賞した米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授は、創業者が研究を全面的に支援してくれるという理由で年間売上300億ウォン(約30億円)に過ぎない地元企業・日亜化学工業に入社した。そして、誰もがあきらめて見限った研究に20年以上も専念した。2002年に学士の学歴でノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏も実験が存分にできるという理由で京都の企業・島津製作所に入社した。地方大学や地方企業で、日本の「マッド・サイエンティスト(常軌を逸した科学者)」たちは、誰もしない「常軌を逸した研究」を続けた末にノーベル賞を取ったのだ。
■「職人気質の科学者」を全面支援
科学界の関係者らは、今後も日本のノーベル賞ラッシュが続くと見ている。巨大な科学施設などに対し、政府や社会の全面的な支援が続いているからだ。日本の科学分野のノーベル賞受賞者21人のうち、16人が2000年以降に受賞していることからもそれが分かる。日本政府は1983年に完成したニュートリノ(中性微子)観測装置「カミオカンデ」を廃鉱に建設する際は数百億ウォン(100億ウォン=約10億円)、1995年にニュートリノ検出装置「スーパーカミオカンデ」を建設する際は約1000億ウォン(約100億円)を投入した。日本政府はそのたびに「実験が成功してニュートリノの実体が明らかになればノーベル賞が取れる」と国民に約束した。