日本語の、なんといっても面白いところは「縦に書く」ところだと思う。
ずっと昔、ガキわしの頃、意外に空(す)いている午後の東横線に乗って、向かいのベンチシートに腰掛けているひとたちが一様に文庫本を読んでいて、反対側から眺めて、「なにかがヘンだな」と考えたことがある。
なんだろう?とおもっているうちに、どの人も本を終いから始まりに向かって読んでいることに気がついた。
読んでいる方向が逆です。
「新耳袋」(注1)のエピソードのような異界感。
それから、やっと、ああそうか、と気がついた。
日本語の本は縦書きなので、右から左に進行するのではないか。
その頃はまだ日本語は話し言葉から一歩もでない程度で、しかも、当時のガキわしは「もしかしたら自分はすごく日本語が判るのではないか」と思っていたが、いま温和で成熟したおとなの洞察力をもって思い出してみると、あんまりたいした日本語能力ではなくて、日常の、たとえば文房具店で買いたいものが見当たらないとき、店の人に聞いて、置いてあるコーナーを教えてもらうことができる、というようなごく初歩的なことしか判っていなかったように思える。
ひとつの傍証に、義理叔父や従兄弟と一緒に日本の人、たとえば後で、頼まれもせんのに、「トーダイおじさん」たちとして集団後見人になってくれたひとびとと、午餐にでかけたりして、1,2時間話したあとで、あの人はこんなふうに言っていた、こういうことを言うのは面白い、と帰ってから話をするのに、
「そんなこと言っていたっけ?」とびっくりすることが多かった。
相手が述べたことの半分くらいしか実は判っていないのか、と、がっかりすることが何度かあったのをおぼえている。
多分、単語や表現を「拾い聞き」していただけだったのでしょう。
当然だが、間違いも多かった。
いちど髪の毛を切りにもらいにでかけて、「こういうヘアスタイルが欲しいんですけど」と述べたら、驚いたことに、そのヘアドレッサーの若い男の人は店中の人に、「おい、こいつ、髪型が『欲しいんですけど』だって」と呼びかけて、店中の店員に嘲笑されたことがあった。
10歳かそこらのガキンチョに、なんということをするのだ、と悲しかったが、もうその頃には、賢くも、どんな社会にも良い人間とたちの悪い人間がいるのだと判っていたので、そのまま、ものも言わずに、店を出ただけだった。
ドナルド・キーン先生は、戦時中、情報将校として、日本兵たちの手紙文や日記の文章を読んで、心を打たれて日本学者を志した、と書いている。
文字、キャラクタそのものが異なる言葉は、ギリシャ語といい、タイ語、韓国語といい、取り付きが悪いものだという感じがする。
Hinglishという言葉の意味は、Singlishと趣が異なって、アルファベットで表記されたヒンズー語のことだが、インドの人がああいうことを考えたのも、文字種が同じならば障壁が少ない、という多言語民族ならではの知恵でしょう。
日本語はキャラクタが異なる上に、漢字仮名交じりという、自他が書いたものの審美的評価が難しい言語でもある。
わたしは今日の星空を美しいと思う、と書くのに、
私はきょうの星空を美しいとおもう、
わたしは今日の星空をうつくしいと思う
わたしはきょうの星空をうつくしいとおもう
と、びっくりするほどたくさんの表記をすることが出来て、そのうち、どうやらそれはやめたほうがよい、とたしかに感じられるのは、
私は今日のほし空を美しいと思う
くらいのもので、他の表記は、ほぼ純粋に書く人の好尚によっている。
戦国時代までは、さらにルールがゆるくて、おおらかな性格の人が書いたものをみると、武将でも、バカタレヤンキー族なみの当て字で、
田くさんたべて、養生して、というような書き方をする。
それなのに一方では、ダジャレを大量生産できることで判るとおり、同音異義語が滅法おおい言語で、
校正を経ないインターネットの世界では、新聞記事であっても、
「マクスウェルの性器の大発見」
「安倍首相の性交の秘密」
というような誤表記はいくらでもあって、この記者の人は、ふだん、どういう文章を書いていると、こういう変換が先頭にくるのだろう、と邪推される。
日本語は本来墨痕くろぐろと、背筋を伸ばした姿勢から、さらさらと書き下ろされる言語だった。
デスクの上に屈み込んで、ちまちまと装飾文字で書いていた欧州語とは対照的な言語で、漢字と並んで、中国が日本人の精神にもたらした偉大な影響のひとつであると思います。
おかげで、日本語は、随分のびのびとした言語になった。
日本語を、のびやかに使おうと思えば、思考にスピードが必要なことも、多分、筆と墨で、一気に書き下ろすことができた、この発語作業によっているはずで、こちらは良い影響か悪い影響か、
他の言語の人間が書き言葉で発語するときに習慣となっている一瞬の沈黙、「タメ」がなくて、なんとはなしに、考えるそばから、だらだらと垂れ流しされてくるような書き方の文章が多いのは、案外と、毛筆に原因があるのか、と思うことがある。
言語はどれも、チョーおおざっぱに分けて、
口語
文語
のふたつ、あるいは、
話し言葉
口語
文語
のみっつで出来ている。
日常の大半は、「話し言葉」で出来ていて、普段の会話をそのままスマートフォンで録音して、書き起こして見れば判るが、読むに堪えない、というか、右往左往して、ムダが多くて、音声で入ってきた情報処理って、大脳はこんなふうに要旨を判読しているのか、と思うていのものです。
よく無造作にごっちゃにしてしまうが、二番目の分類の「口語」は話し言葉ではなくて書き言葉と見なすこともできる。
「より話し言葉に近い書き言葉」のことで、たとえば英語なら
Colloquial Englishがこれにあたって、困ったことに、この英語は「砕けた言い方」のよりアカデミックな呼称にしかすぎなくて、たとえばアメリカ人研究者が書いた語法についての専門本に「Colloquial Englishは厳格に書き言葉である」と書いたものがあったのをおぼえているが、学問的、あるいは文学的というべきか、気分は判るが、定義として「書き言葉」だとスタンプを捺してしまうには抵抗がある。
通常の用法と、かけ離れすぎている。
日本語の「口語」のほうが、案外、書き言葉と納得しやすいかもしれません。
シェイクスピアやJDサリンジャーには、世にも美しい会話が出てくるが、あの「会話」は、よく考えてみると現実の世界には存在しない。
編集されて音韻が整頓された「会話」で、人間の頭は、あんなに精確に高速で作動するように出来ていない。
みっつに分ける方を採用するとして、日本語が目下困難に陥っているのは、「口語」がうまく成立していないからで、
たとえば、自分が21歳の若い女であると想定してみると、世界の事象のうち半分も表現できないのではないかとおもうほど言語表現が限定されている。
いつか、ツイッタでこのことを述べたら、ある女の人が「あなたの言う通りだが、女は内心で考えるときには女言葉を使っていないのだ」と教えてくれたことがあった。
日本語の、敬語から派生して通俗化した現在の「目上」から「目下」への一方通行の「敬語だったもの」を中心とした言語体系では、ほとんど言語表現を禁じられているかのような女の人達は、女言葉を積極的に排除することによって内心の思考を確保している。
欧州に住む天文研究者として、アカデミアのなかでは英語で生活して英語で考えざるをえない「もじん」(@mojin)さんが、たびたび述べているが、英語人は何の気なしに書いても、ほおおおんのたまにしか使わない小頻度の単語を時宜に応じて常用することによって文を成り立たせている。
膨大で仔細な内容を含む語彙が英語にはたくさんあるからです。
英語には、ESL(English as a second language)、EFL(English as a foreign language)という分野があって、常用漢字表みたい、というか、外国人に対しては、この範囲の語彙で英語を書きなさい、こういう慣用句は使ってはいけません、というようなことを教わることができる。
いちど、このガイドラインに従って英語を書いたら、「はてな」からやってきた、すごい数の日本人に「こんな簡単な英語を書く英語人がいるものか。それとも日本人の英語力をなめてるのか」と言われて、ぶっくらこいてしまったことがあったが、それに懲りて、「普通の英語」を書くと、今度は何が書いてあるかよく判ってもらえないようで、難しいものだなあ、と思う。
約束なので、ときどきツイッタでもツイートに英語を混ぜてあるが、アナリティクスを見ると、ぎょっとするくらい見ている人が少なくて、それなら今度は、いままではわざわざ分離していた英語ツイッタ(←いまはアカウントを閉じてやめてしまっている)と、だんだんつなげていけば、もう少し興味をもってもらえるだろうか、と思ったりしている。
同じ図式を日本語のほうにあてはめてみると、日本語で世界を説明するのが年々難しくなる理由のひとつが日本語では、あまりマジメに考えられていない言い換えが横行しているせいで、大量の死語/陳腐化表現が存在していることが、原因のひとつであることが判る。
感覚的に述べると、だいたい70年代くらいをピークにして、日本語の表現力を低下しはじめて、これは何と最も符丁があっているかというと、現代詩の最盛期の終わりと暗合していて、現代詩そのものが日本語に与える影響は小さかったように見えるので、現代詩の衰退と日本語表現の退化とがおなじ淵源に発しているのではないか、と考える。
いまのところ、商業的なコピーライターたちの仕事によって日本語の空洞化がすすんだことに原因がありそうだ、と思うが、こっちは、まだ日本語ネットの力を借りて、みなで検討するのがよさそうだ、と思っています。
近いところでは「ヤバい」という言葉が、だんだん良い意味に移行しているのが例で、遠くならば「すさまじい」という単語の意味の変遷がある。
文学上では最も有名なのは北村透谷の語彙で、明治初期の語彙に意味を調節しないと、読めたものではないヘンテコな文章に見えてしまう。
実は英語の変化は、そういう点では、もっと「すさまじく」て、例えばオリジナルのテレビシリーズ「The Twilight Zone」(1959-1964)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Twilight_Zone_(1959_TV_series)
を観ると、これがほんとうにアメリカ語の番組なのか、とおもうほど言語が異なっている。
おおきな違いは、英語世界全体が語彙や表現が爆発膨張と呼びたいくらいに数が増えているのに対して、日本語は深刻な世界を説明するための言葉がどんどん「ジジイ言葉」と日本語ネット人が嘲笑する語彙や表現として葬られつづけていることで、一方では「少女売春」を「援助交際」、はては「エンコー」と呼んで、女の高校生の通過儀礼くらいですませてもよい、と言い出す人がでるほど、商業主義の浮薄をうけて、言語表現が軽薄になったことを反映して、思考能力そのものが衰退している。
英語が、デッタラメな状態になりながらも、いまだに言語としての命脈を保っているのは
「I love you」がいまだに老若男女すべてが健全な意味を保ったまま日々使われている表現で、「I hate you」と聞いて、失笑する人間が存在しないだけの言語的実質を保っているからだと信ずべき理由がある。
日本語で、「わたしは、あなたを愛しています」と述べたときに、すでに、どこからともなく響いてくる冷笑の声が、日本語自体、あるいは日本人自体を、破滅させることがないことを、祈るような気持ちになります。
妹のような生まれついての言語的な天才とは異なって、きみやぼくのような人間が理解できるようになる言語の数は限られている。
でも、たとえば
「タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ」
と、西脇先生が淡々と述べているだけの詩を読んでも、日本語はなんという美しい言葉だろうと思う。
この「静かな感じ」を表現しうる言語は意外と数が少ないのです。
言語的大気にエーテル(注2)が満ちている感じ、と言ってもよい。
日本語の森林のなかの小径は、どこか、なにをしても、どの部分も、少し寂しい。
なんだかがなり立てるような、割れた音の、暴力に似た声に混じって、その奥から、ひっそりと聞こえている声がいつもある。
聴き取りにくくて、懸命に耳をそばだてないと聞こえない声。
でも、その声は予想をこえて芯が強いのではないか、と、この頃おもう。
縦書きで、垂直な思考に背を起こして、半分透明になっていきながら、あの人は自分に呼びかけることによって、世界に向かって語りかけている。
水の上に遺書を書くひとのように、どうしても言いたかったことを、語彙をうばわれた沈黙の言葉で、書きしるそうとしているのだと思います。
(注1)正統的な日本の怪談、いっぺんに5巻読むと3日くらい頭痛に悩まされまする
(注2)19世紀末に否定された物理概念