あれから

IMG_2928

子供のときに、母親にせがんで「東京駅ステーションホテル」に部屋をとって泊まったことがある。
まだ改装前で、部屋は古びていて、よく観ると壁紙がはがれているところがあったりして、侘しいものだったが、窓からは東京駅が一望に見えて、鉄道模型が好きだったガキわしとしては、それだけで満足だった。

イギリスからニュージーランドに移動する途中に寄る町として、シンガポールも魅力があったが、東京もおなじくらい魅力的で、その魅力較べの重大な要素には鉄道があった。

どうしても乗ってみたくて、やはり母親にせがんで、寝台列車に乗って、何も用事がないのに青森まで行って帰ってきたこともある。
寂れて、小さな町で、といっても子供の偏見で、なにしろおぼえているのが「ミスタードーナッツ」だけなので、われながら記憶があてにならない。

ご多分にもれず、京都に行ったり、奈良に出かけたりする母親について、あるいは、稀には父親と母親の両方に随行して、見知らぬ町にでかけて、日本はどこにいても洪水のように人がいてすごいところだなあーと考えたり、
ヘンなものばかりあるので、こんなに面白い国はないと考えたりした。

成田の上空にさしかかると、九十九里浜の、長い、まるで筆でさっと描いたような長い浜辺がみえて、遠くには富士山が見えている。
待機旋回を終えて、着陸のための進入路に入ると、日本の特徴の、びっくりするほど暗い緑色の森が見え始める。

この頃のシートはよくできていて、背もたれを倒したままで着陸しても何も言われない会社が増えたが、ぼくが子供の頃は、まだ、クラスによらず背もたれを直立させねばならなかった。

空港につくと、外国人の長い列は、進むのに日本人の列の3倍は時間がかかって、行儀良くしているのがたいへんだったりした。
余計なことを書くと、ずっとあとで、5年間11回の日本遠征をしたときには、逆に長期滞在ビザをもっている外国人の旅客は極端に少なくて、パスポートコントロールのカウンタはひとつか多くてもふたつだったが、殆ど並ぶということはなくて、横の、多分、韓国系や中国系日本人のためのものだとおもうが「特別滞在許可者」とかなんとかいうへんてこりんな名前の、なかなか進まない長い行列に並ぶひとたちを気の毒に思ったりしたが、長期滞在ビザの行列は短くて、心のなかで密かに成田で降りることの特典に数えていたのをおぼえている。

日本の入国管理官は、親切な人がおおくて、問題があったことはない。
へんな奴が多かったEUになる前のフランスや、ときどき、とんでもない人がいるアメリカとは異なって、公平に言って、感じのいい人達であると思います。

空港から出ると、そこはもう、ほんとうにパラダイスで、なにしろハイテクオタクガキなので、NEXから始まって、シャトルなんて、あんなダサいものは絶対嫌ですで、新幹線、秋月電子、ビックカメラ有楽町、うむむむむ、カッコイいで、興奮しすぎて、よく妹にバカにされた。

奈良ホテルに泊まって、夜更けに興福寺にでかけたのを、いまでも、つい先週のことのようにおぼえている。
満月の夜で、皓々と照りつける境内を、日本ならダメ母親ということになるだろうが、母親につれられて散歩した。
ふだんは9時には絶対にベッドのなかにいなければいけないことになっていたので、妹とぼくにとってはたいへんなことだった。

いまは囲いが出来たと聞いたが、その頃はまだ囲いもなにもなくて、信じがたいことに、夜中でも建物にあがろうとおもえばあがれた、五重塔の階の下に立って、月を見つめていた。
ふと気がつくと、まわりには、無数の、といいたくなるくらいたくさんの鹿が集まってきて、一緒に月を眺めている。

青い月の光に照らし出された、到底、現実とは思われない幻想的な光景だったが、あとで聞いてみると、かーちゃんはとーちゃんと、ふたりだけで、やはり奈良ホテルに宿泊して同じ経験をしたことがあって、妹とわしとに、同じ経験をさせて驚かせようと考えたもののよーでした。

その頃から、ずっと日本が面白くて、モニと結婚してからも、二度に渡って、数ヶ月を過ごした。
日本語が上達して、日本語世界の奥のほうに分け入ってみると、特に外国人だとまったく思われていなかったインターネット世界での見聞で、表面とは異なって、日本の社会は地獄に最も似ているのが判ったが、
日本社会の一員になろうと考えたことがなかったからでしょう、一度は日本人でやってみようと考えたことがあるらしい従兄弟とは異なって、
たいした衝撃があるわけではなかった。
なるほど香港人の友達がむかし言っていたように「日本は住みにくい国」なんだなあーと思っただけでした。
この香港から、初めは横浜に住もうとおもって一年間やってみて、あきらめてニュージーランドに移住した友達は、
「Things are much harder there」と述べていて、そのときはもう、そういう事情をいろいろな中国系人から聞いて知っていたので、日本人の有名な中国人蔑視のことだと受け取っていたが、後で聞くと、そうではなくて、賢明な人のことで、日本人同士もお互いに蔑視しあって、どちらが偉いか競い合っているような、地獄そのままの社会、という意味だった。

ぼくのほうは、地獄とは思わなかったが、表面の礼儀正しさとはだいぶん違うようだ、とは感じていた。
家でみている日本語インターネットの世界が日本人の「内心」で、現実にでかけていって相渉る社会のほうは、「建前」ということなのかしら、と考えるていどのことだったが。

こんな昔をなつかしむ文章は最低だが、なんだか日本のことを、うまく思い出せなくて、なにも憶えていないような気がしてきたので、書いてみることにした。
日本には「放射脳」という、現代日本人の気質がにじみだしているような言葉があるが、なにしろ福島事故の処理を投げ出した結果、盛大に拡大しつつある放射能汚染が怖いので、行く気が起こらない。
そんな、ぼくは現に東京に住んでいるのにひどいじゃないか、第一、きみと同じ外国人たちが東京にはたくさん来ているんだぜ、という声が聞こえそうだが、グローバライゼーションで、世界じゅう「イオン」になっている、と言えばいいのか、どこに行っても、似たような街並みで、中心繁華街では誰もが英語を話して、店もブルガリ、シャネル、グッチ、…同じ名前が並んでいて、ニューヨークもロンドンも一緒くたになりそうなくらいひどい様相を呈している世界のなかで、東京は、ただひとつ、まったく異なるヘンテコな都会であること維持している。
そのヘンテコさとオーセンティックな和食めざして、世界中からカネモチもビンボニンも東京めざしてやってくる。

「あの程度の放射能ならダイジョブ」と思っているわけではなくて、自分の周りを見渡しても汚染の度合いを知っていてでかけるのは2,3人くらいのもので、あとは情報としてまったく知らないからでかけている。
十分に(という言い方はヘンだが)汚染されているイタリア東部を旅行するのとおなじことで、ポルチーニを満喫してから、チェルノブイリ汚染を思い出して、げげっになっている愚かな元物理学者の大叔父と同じことです。

行かれなくなってしまった。
せめて、安全であるのなら、安全で、食品の流通がどこの産品がどことどこに出荷されているのか判るのなら、安全だと思う人は食べて、安全だと思わない人は食べなければいいが、日本社会のやりかたは、すべてなかったことにして、隠蔽して、とにかくオカミやあんたより科学に詳しい人がみなダイジョブだと言ってるんだから謙虚になって信じなさいでは、怖ろしくてでかけられやしない。

「スーパーマーケットに行くでしょう?
そうすると北海道産と群馬産の大根が並んでいて、前にはたしかにあったはずの仕切りがなくなっているんだよ」と言う。
まんなかのほうの大根は、どっちがどうなのか区別がつかないのさ。

高坂のサービスエリアのデリで、ふとみると、産地表示の「〜県産」を乱暴にマジック(←フェルトペンのこと)で消してあって、「国産」となぐり書きしてある。

一方で、福島の産物も検査したものはダイジョブになったそうじゃないか、と職場で述べたら、福島の浜通り出身の同僚に、「地元の人間は、福島産のものは食べません」と、にべまなく言われたという。
その言い方の不必要なきびしさがさ、と、その人が述べている。
ほんとうは福島産のものを食べてほしいのに、自分の良心が許さないという辛い気持ちが手に取るようにわかるきびしさで、いったいおれたち日本人はなにをやっているんだ。
なぜ福島人だけを、こんなひどいめにあわせているんだ、と考えこんでしまったよ。

トーダイおじさんのひとりは、初夏の軽井沢で、日本人とブラジル人の夫婦がやっている、お気に入りのコーヒー屋で、テラスに腰掛けてコーヒーを飲んでいたら、目の前の駐車場に練馬ナンバーや品川ナンバー、横浜ナンバーが並んでいて、そのなかにひとつだけ福島ナンバーの赤いホンダがある。
へえ、福島からも来ているのだな、と考えてみていたら、コーヒー屋の隣の古ぼけたアパートから子供連れの女の人がでてきてクルマに乗り込んでいった。

みるみるうちに、自分でも理由がよく飲みこめない涙がでてきて、その人のことで言葉がよくないが、「ちくしょう、ちくしょう」と心のなかで止まらない言葉が繰り返されて、いつのまにか唇を、切れそうなくらい強くかみしめている。

このトーダイおじさんは、いまは大学の先生だが、元はお役人だった人で、
「福島の町村の人達は、自分たちの町を生き残らせようとして必死なんだね」と述べたら、
国は「自治体」の数を減らしたくないだけだよ、とにべもない解説を、数字をあげて詳細にしてくれた人だった。

日本の政府がやっていることはおかしいし、危険だと考える人たちが、あれほど希(ねが)った「外圧」は起こらなかった。
不正に対しては自他の区別なく怒る、お節介な国民性で有名なドイツ人たちが、爆発的で持続的な怒りで、一連のドキュメンタリ番組をつくって、
環境問題に敏感で日本とは歴史的に特別に関係が深いオーストラリアが、いくつかドキュメンタリをつくった。
BBCとPBSが、そつのない数本。
奇異におもえるほど感傷的なドキュメンタリ映画が、すぐにiTunesにあがっていた。
そのくらいのもので、あとの国は、日本と言えば和食と、せいぜいアニメくらいしかない、日頃の日本への無関心を反映して、他の「日本人の問題」と同様、「ぼくは自分の問題で手一杯で、それどころじゃないのさ」という反応だった。

データが十分にないものについて科学的に議論することは出来ない。
せいぜい科学研究者が身に付いた悪い癖をだして、仮説遊びをするだけのことです。
それがほんとうにあっているかどうか、甲状腺ガンのようなわかりやすいものを除いては、判定するのに、長い時間がかかるのでもある。

だから極端ないいかたをすると、科学の訓練がある人間はある人間で、科学に縁がない人は縁がなかった人の立場で、「カン」によるしかない。
「十分に知識をもって正しく怖がれば、放射能といってもそれほどこわくない」という人が日本では多数派らしくても、同じことを英語圏で言ってみいよ、というか、このひとは職業的な科学者だと自己紹介したはずなのにバカなのではないかという憐憫を秘匿するための微笑に遭遇するくらいのことであるとおもう。

きみはぼくをヘンな奴だと思うだろうけど、ぼくは国会前のデモをみていても、夜更けの、人影がなくなったあの場所で、モニと散歩したのだったなあーと思いだしている。
小さなつむじ風に巻き上げられた数枚の銀杏の葉が、モニのスカートにまつわりついて、まるでじゃれつくようで、ふたりで大笑いした。

官邸前をみても、あのすぐ横にあるキャピトル東急で、真夏、裏側から出て通行する日枝神社の割れるような蝉の音をおもいだす。

あれほど縁があった国が、あれほど遠くに行ってしまうなんて、
なんだか悪い夢のようです。

きみとぼくは、ほんとうにあの国で会ったのだろうか?
それとも、全部、ふたりで同時に視た不思議な夢で、
もうすっかり覚めて、なんだかおかしな夢だったが、もう自分の現実に戻らなければ、ということなのかなあ。

記憶のなかでは、現実がたしかに現実であったと確信をもつのは、
なんて難しいことなのだろう。

すべては誰かが視ている夢、あの、遠くの彼方で昏睡している人が、
混濁した意識のなかで視ている夢なのかも知れません。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

One Response to あれから

  1. K says:

    記憶にはならないはずの、記憶を呼び起こしてくれるはずだったものが記憶になってしまって、戸惑うことがあります。

    10代の頃。夏になると父親と出かけて飽きることなく眺めた、どこまでも抜けるような空の奥に聳え立つ磐梯山。恐らくはとても厳しいであろう冬を通り抜けてきた静かな湖面の猪苗代湖。磐梯山の北側にある、お散歩気分で別世界を楽しめる五色沼。

    ぽっかりと空いた空白のようなレールを進む磐越線。貯めたお小遣いを握りしめて、電車を乗り継いだ一人旅だったな。

    20代の頃。軽井沢よりももっと荒削りで、だから昔風の気取りもなく、朝日は昇ったけれど、人がまだ起きていない林の中を散策するのが気持ちよくて、土と草と木の匂いが大好きだった、福島の少し南にある那須。

    もう少し歳を重ねたら、週末の家を那須に建てようと思っていた。東京から那須を経由して五色沼へ向かったら、湖畔でおにぎりを食べながら磐梯山を見て、昔を思い出すのかな、と思っていた。

    でも、もう、訪れることはない。住むこともないと思う。訪れても、そこで深く呼吸したり、あの時のように無防備に草むらへ分け入ったりすることはない。

    私にとっては、山も、湖も、高原も、記憶の中にあるだけになってしまった。そこにあるはずなんだけどね。

    湖畔で深呼吸して水を渡る空気の冷たさを胸の奥で感じたり、林の中で厚みの違う空気を肌で感じたりすることが、あの時の記憶を呼び覚ましてくれるははずだったのに。

    私は、同じ国に住んでいるのだろうか。

    東京では、食べられないものが増えた。

    家から1番近いスーパー、お肉の産地表示は基本的に県別でなく国別。だから、昔のように国産のものは買えない。豚肉はアメリカ、牛肉はオーストラリア、鶏肉はブラジル。お魚、海苔や海藻も日本産は手が出ない。

    キノコはほとんどが長野産でなかなか食べる気持ちが起こらない。東京で手に入るの葉物野菜はほとんどが千葉、埼玉、群馬、茨城からやってくる、ということをこの数年で初めて意識するようになった。九州や中国地方、四国からの野菜を見ると、ああ、久しぶりに食べよう、とカゴに入れる。

    とはいえ、それでも大丈夫なのかな、無駄にあがいているだけじゃないのか、と思ってしまう。

    どこの食材を使っているのかがわからない加工食品やお惣菜はほとんど買わなくなった。外食も、つい二の足を踏んでしまう。食べられないものが増えた。食事と一緒に思い出すはずだった人の顔もどんどん薄らいでいく。

    根津美術館へ出かけた渋谷までの帰り道。日曜日のゆるい空気の中、自然食品のテントをひやかしながら、お店の人がにこやかに差し出してくれるお試しの野菜やお酒を楽しみつつ、新たに差し出された試食を前に、どこのですか、と何気なくたずねると。

    にこやかに、少し人工的な笑みを浮かべて、トーンの高い作った声で、福島です、美味しいですよ、と。

    ああ、と思って少し視線を上げると、その一角は食べて応援コーナー。

    耳を広げると、やっぱり福島のものは美味しいねー、そうですねー、風評被害は困りますよねー、ほんと困っちゃう、理解がない人は、東京にもあなたみたいな人がいてくれるととても嬉しいです。台本を読んでいるかのように頷き合う、福島から来た人と恐らくは都内から来たおじさんとおばさんの声が聞こえる。

    わからないことと、安全であることは同じではないのに。

    とことん無防備な休日のふやけた顔に向けて、福島産、とわかったけれど、差し出されたこの試食をあなたはちゃんと食べるよね、まさか、受け取りかけたその手を戻さないよね、と突き刺さる視線。そうした視線を送る君はとても若くて。まだ20代なのに、いや、もしかすると10代なのかもしれない。それにも関わらず君はまだそこに住んで、毎日この果物を、野菜をつくり、食べ続けているのだろうか。もう、何年も。

    私は、どうしたらいいんだ。

    日本の中にいるのに、そこはもう日本ではないかのようです。今が夢であれば良いのだけれど、夢であるのはやはり記憶の中の日本で、現実に戻ると、いまここの、しょうもない景色だけが広がっています。

    違う空気を呼吸したくなって飛行機に乗ると、10分もすれば東京の景色は雲の下へ霞み、液晶モニターのフライトマップからも、カクカクと日本が消えて、数時間で日本語の聞こえない世界へ移動できる。でも、暑い亜熱帯の街で日本の食品を制限しているから産地を気にせずにご飯を食べることができる寛ぎの中で。何度も、東京のスーパーを思い出してしまった。

    それでも、また混んでいるのかと思いながら、太平洋のはじっこでぐるぐると待たされて、誘導路の中に民家のあるへんてこな、あの暗い森の中へ着陸したときに出会いたかった現実は、君が夢の中で見た、私の幸福な記憶の底にある、あの日本なんだけれど。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s